五十九話 真ノ惨
宰相が前国王を弑したということは、ほぼ間違いないだろうと思った。前国王が乗った馬車が崖から落ちたとき、嗤っていたからだ。周りの他の者が顔を真っ青にして慌てふためくなか、同じように慌てる振りをしながら、彼は一人嗤っていた。酷く醜い笑みだった。だが、証拠を見つけることが出来なかった。宰相本人の過去を見れば分かるのかもしれないが、ヒューゼヴェールトの過去から宰相と関わりのある人物の過去を見ることは出来ない。雷華は自分の力の至らなさを悔しく感じながら、せめて他に証拠が掴めそうな宰相の悪事はないかと探し始めた。
扉の向こうではクレイとヒューゼヴェールトが和やかに談笑している。しかし、無邪気に笑う少年王の背後に映し出されたものは、直視出来ないほど凄惨を極めていた。
「そ、そんな……こんなことが、本当に……?」
あまりの酷さに声が震える。口から何度も悲鳴が零れそうになるのを、血が出るほど唇を強く噛みしめて我慢した。半透明の人物の動きを眼で必死に追う。現実に起こったことだと頭では理解していても、感情が追いついてこなかった。
「どうしたのだ?」
「ライカ?」
異変に気付いたルークとロウジュが、抑えた声で話しかけてくるが、それに答える余裕がない。
「うぐぅっ……!」
「ライカ!?」
耐えきれずに扉から離れて前屈みになる。口を手で覆い、込み上げてくる衝動を必死に抑えた。もし満腹であったなら胃の中のものを全部吐いていただろう。食事をする前でよかったと、吐き気と闘いながら思った。
ロウジュが素早く駆け寄ってきて雷華を後ろから抱き抱えるようにしながら背中をさする。その手のぬくもりを感じながら、なんとか落ち着こうとぎゅっと眼を閉じて深呼吸をする雷華の耳に、クレイとヒューゼヴェールトの会話が入ってきた。
――近ごろイシュアヌでは人が攫われる事件が相次いでいると噂で耳にしましたが
――そうなのか? ゼヤフからは何も聞いておらぬが
――上層区画は警備が厳重とはいえ、お一人で出歩かれては危険でございます
――心配はいらぬ。余は王だぞ
――ですが
――わかったわかった。ヴォード殿は心配性であられる。では、宰相にその者を捕らえるよう言っておこう。ゼヤフに任せておけば問題ない。彼は国を良くすることに心血を注いでいるからな
あの少年は何を言っているのだ。宰相が国のために心血を注いでいる? そんなことあるはずがない。吐き気はまだ治まらなかったが、それを忘れさせるほどの激しい感情が雷華の心に渦巻いた。怒りで眼の前が真っ赤になる。
そして、とても頼りにしているのだという嬉しそうなヒューゼヴェールトの声を聞いた瞬間、渦巻いていた怒りが弾けた。背後から回されていたロウジュの腕を振り払って眼鏡を外し、玄関広間に繋がる扉を勢いよく開く。眼鏡を外したのは見られたくないというよりも、これ以上見たくないという理由の方が大きかった。
雷華の予想だにしない行動に、全員が凍りつく。玄関広間にいた人間は、突然控えの間から現れた彼女を茫然と見つめた。しんと静まり返ったなか、雷華の足音だけが響く。
「ふざけるのもいい加減にして! 宰相が国を良くしようとしてるですって? あの男のどこを見ればそんな言葉が出てくるのよ!」
ヒューゼヴェールトに触れられるほどの距離まで近づくと、固まったまま動けないでいる彼を睨みつけた。
「お、おいライカ」
クレイが止めようと肩に手を置いてきたが、雷華はそれをはね退けた。感情の赴くままに眼の前の少年に言葉をぶつける。
「子供だということは言い訳にならない! 貴方は王なのよ! 国を、民を守る責任があるのよ! それなのに、よくもそんな……っ! あの人たちは貴族の玩具なんかじゃない! 貴方や宰相と同じ、人間なのよ!」
「な、何なのだお前は。何を、言っている」
突然現れて長い銀の髪を振り乱して怒る雷華に怯えながら、ようやくヒューゼヴェールトはそれだけを口にした。
「落ち着け、ライカ……何を見たんだ」
再びクレイが肩に手を置いてきたが、今度ははね退けることはしなかった。
「宰相は、あの男はっ、罪人を山に連れて行き、そこに化け物を放った。そして、逃げ惑いながら殺されていく人を見て楽しんでいたのよ! 全身傷だらけになって涙を流して助けを乞う人を見て笑っていたのよ!」
自分たちも入った王都の後ろに聳える山の中で、泣き叫びながら逃げる男たちの姿が脳裏に焼き付いてはなれない。彼らは全員、巨大な猿の化け物に噛み殺された。腕を、足を、胴体を、頭を、噛みちぎられて。おびただしい量の血を撒き散らしながら。聞こえるはずのない断末魔の叫びがはっきりと聞こえた。助けてくれ、死にたくない。彼らはそう言いながら死んでいった。
「なっ……」
隣でクレイが息を飲んだのが分かった。クレイだけではない。玄関広間にいた全員が息を飲み顔色を変えた。広間の隅にいた侍女など、さらに両手で口を押さえて悲鳴を上げるのを懸命に堪えている。
「一緒に見物していた貴族と、どれくらい生きていられるかを賭けているようでもあったわ。ふざけないでよ! 人の命をなんだと思っているの!? あんなおぞましいこと、人間のすることじゃない。貴方はこんなことをしている宰相を頼りにしているというの!?」
「う、嘘だ。余は、余は信じぬ」
ふらりとよろめきながら、青ざめた顔でヒューゼヴェールトが呟いた。




