六十話 酷ナ夢
「信じなくても構わない。でも宰相が貴方に隠れて非道な振舞いをしているのは紛れもない事実。多くの人が理不尽な扱いを受けてる。些細なことで命を落とす人がいる。もたらされるだけの言葉に惑わされないで、現実を知りなさい!」
信じぬ、信じぬと壊れた機械のように同じ言葉を繰り返し呟くヒューゼヴェールトに冷たく言い放つと、雷華は彼に背を向け足早に玄関広間から立ち去った。後ろから誰かが追ってくる気配は感じたが、振り返ることも立ち止まることもせず、最後には走り出した。応接間に戻り乱暴に扉を閉めて、そこにもたれかかる。ルークとロウジュの声がして扉が開けられようとしたが、叫んで止めさせた。しばらくの間、誰とも話したくなかった。二人の気配が扉の外から感じなくなると、ずるずると床に崩れ落ちる。抱えた膝に顔を埋めて、眼を閉じた。
宰相の薄気味悪い笑み、山の洞窟に閉じ込められている巨大な猿の化け物、崖から落ちていく馬車、頭に袋を被せられて連れて来られる人、心底楽しんでいる様子の貴族、絶望に満ちた顔、血に染まる草木、人を喰う化け物。半透明で見た映像が、鮮明に頭の中で繰り返される。
感情的になってしまったとは思う。子供に対してきつく当たってしまったとも。だが、あんなものを見て冷静でいられるほど、自分は出来た人間ではない。怒りと悲しみと後悔とが、ない交ぜになって雷華の心に押し寄せた。
「ライカ」
応接室に閉じこもってどれくらいの時間が経っただろう。扉の外側からクレイの声がした。しかし、まだ落ち着いて話せる自信がなかった雷華は、何も答えなかった。
「陛下は帰られた。その、悪かった……俺が頼んだせいで酷いもの見せてしまって。今日は、ここに泊まってくれ。あいつらに今荷物を取りに行かせてるから。本当にすまなかった」
クレイが去っていく足音が扉越しに聞こえる。陽気な彼に似つかわしくない元気のない声だった。ヒューゼヴェールトの過去を見てくれと雷華に頼んだことを後悔しているのだろう。クレイのせいではない。クレイが悪いのではないと、扉を開けて言えばよかったのだが、その気力が今の雷華にはなかった。膝を抱える腕に力が篭もる。
謝らなければならないのは自分の方だ。勝手なことをして悪かったと。真実とはいえ一国の王相手に暴言を吐いたのだ。しかもクレイの泊まっている館で。いくら自分はマーレ=ボルジエの人間ではないと主張したところで、受け入れられるかどうか。最悪の場合、国の関係が悪化してしまうかもしれない。
(私は、どうすればいい?)
鼻腔をくすぐるソルドの花の匂いに、無性に泣きたくなった。これ以上何も考えたくないと、頭を振ってゆるゆると顔を上げる。緩慢な動作で立ち上り、部屋の中央にある長椅子に腰を下ろした。
「助けられなくて……ごめんなさい」
過去は変えられない。これまで何度自分に、他人に言い聞かせてきただろう。死んだ人間は生き返らない。ましてや、今日まで知らなかった人間を助けられるはずもない。だが、それでも理不尽な死を迎えた人たちを助けたかったと思わずにはいられなかった。たとえそれが自己満足だったとしても。
長椅子に身を横たえる。先ほど皆で座っていたときは何も思わなかったが、今はひどく冷たく感じられた。
――くっくっくっ、お前に自由になる機会を与えよう。さあ、その剣を取るがいい
どこからともなく聞こえてくる声。目線を下に向ければ、生い茂った草の上に、刃の欠けた切れ味の悪そうな剣が落ちていた。
――見事倒せたなら、お前は自由の身だ。せいぜい頑張るのだな
現れたのは自分の倍はあろうかという大きさの三体の猿の化け物。鋭い牙を剥き出しにして、涎を垂らしながら襲いかかって来る。逃げるしかない。剣など拾ったところで無意味だ。敵うわけがない。なぜなら、自分は戦うことが出来ないのだから。化け物が唸り声を上げながら追ってくる。走って走って息が切れても走り続けた。もう走れない。だが、止まれば喰われてしまう。嫌だ、死にたくない。木の根に躓いて地面に倒れ込んだ。すぐ後ろには化け物が迫っている。
――どうした、早く逃げなければ死んでしまうぞ
――今回はあっけなく勝負がつきそうですな
――次はもう少し体力のある人間を選ぶとしよう
誰か、誰か助けて。何もしていないのに、どうしてこんな目に遭わなければならない。立ち上ろうとしたところを化け物に足を掴まれ、逆さまに持ち上げられる。
ああ、もう駄目だ。ここで死ぬのだ。化け物に喰い殺されて。跡形もなく自分という存在が抹消されるのだ。まだ、約束を果たせていないのに。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。死にたくない死にたくない死にたくない。
化け物が、足を掴んだ腕を思いきり振り下ろした。
「いやああぁぁぁぁぁっ!」
がばっと跳ね起きる。荒い呼吸を繰り返しながら、自分がベッドにいるということに気付いた。額に浮かんだ汗を手で拭う。何という生々しい夢なのか。化け物に足を掴まれた感触がはっきりと残っている。
(大丈夫、落ち着け。今のは夢なのよ。だって、私は戦える。背を向けて逃げたりしない)
私は剣をとって戦う道を選ぶ。震える身体を抱きしめながら、雷華は自分に何度も言い聞かせた。




