四十三話 レ
一匹、いや二匹か。断続的に聞こえてくる鳴き声――というより咆哮は、徐々に大きさを増している。もう耳を澄まさなくてもはっきりと聞こえてくるほどだ。
「どんどんこっちに近づいて来てるわね。もしかして、ここに入ってきたりして」
普通の猫とは大きさが大分違うであろうことは、声の迫力から察せられた。雷華が想像しているのは虎なのだが、もし当たっていたとして、この洞窟に入ってきて暴れられでもしたら、とても無事で済むとは思えない。いやそれよりも、切羽詰まった叫び声が凪猫の咆哮と被さって聞こえてくるが、今現在追われている人物は大丈夫なのだろうか。
「殺せばいい」
あっさりとロウジュは言ったが、ディーは首を横に振った。彼の癖のある灰色の髪がふわりと揺れる。
「兄さん、殺しちゃ駄目よ。凪猫は仲間意識が強い。殺したら血の臭いを嗅ぎつけた、山にいる凪猫全てが襲ってくる」
てっきり戦う力がないために逃げているのかと雷華は思っていたのだが、どうやらそうとも限らないらしい。凪猫の習性を知っている者ならば、反撃できる力を持っていたとしても実行しようとは思わないだろう。どれほどの数がこの山に生息しているのか知らないが、ディーが止めるほどなのだ。十や二十ではないに違いない。
「追われている人は逃げ切れると思う?」
「可能性は低いねえ。助かる方法はあるけど……自業自得でしょ」
そう言ってディーは肩を竦めた。殺されても仕方ないと思っているようだ。その態度に雷華は苛立ちを覚えた。確かに彼の言い分は理解できる。凪猫は普段は大人しく、人間を襲うことはない。だから怒らせた方が悪いのだと。しかしだからといって、このまま知らない振りをするなど出来るはずもなかった。
「そうかもしれないけど、でも放っておくなんてできない。助けられる人を見捨てるなんて、人殺しと変わらないわ。ディー、凪猫の怒りを静める方法を知っているのなら教えて」
ディーを睨むと、彼はじっと雷華を見返してきた。いつものふざけた表情ではない。無表情ともとれる真剣な顔。何故彼がそんな表情になったのか分からず怯みそうになったが、ここで引いては駄目だとぐっと堪えた。
「……お人好しなのね」
言葉が口から零れるのとともに、ディーはへらりとしたいつもの顔に戻った。ふぅ、と息を吐く。無意識に呼吸を止めていたようだ。
「困っている人を放っておくのが嫌なだけ。この性格のせいでルークやロウジュには迷惑かけっぱなしだけどね」
眉尻を下げて苦笑すると、ルークとロウジュは揃って首を横に振った。それを見て、彼らの優しさに心が温かくなる。
「ライカちゃんって一体何者なの?」
「ただの旅人だって言ったでしょう。いいから、早く教えてちょうだい」
気配がすぐそこまで近づいて来ていた。草をかき分ける音や枝が折れる音まで聞こえてくる。穴から地上に出れば目視できる距離にいるのは間違いない。当然ディーも承知しているはずだ。
「…………ふう、しょうがない。そこまでライカちゃんが言うなら助けてあげましょうか。兄さん、ちょっと手え貸してもらうわよ」
ディーは、穴を見上げてじっと気配を探っていたロウジュを指差す。ロウジュはぴくりと眉を動かして睨みつけるようにディーを見た。紫水晶の瞳が、カンテラの灯りに照らされて、きらりと光る。
「私も手伝うわ」
助けたいと言ったのは自分なのだからと名乗りを上げたのだが、ディーはうんとは言わなかった。
「いんや、ライカちゃんは待ってて。そこから出れないでしょ」
ディーの言うそことは、光が差し込む穴のことだ。穴まで三mはあるだろう。悔しいが、ディーの言うとおり雷華がそこから地上に出ることは無理だった。
「凪猫を大人しくさせるのに必要なのはルルムの実。俺が引きつけとくから、頼んだわよ」
「……ふん」
にやりと笑うディーにこれ以上ないほど愛想のない返事をして、ロウジュは穴から出ていった。そのすぐ後にディーも続く。二人とも穴の真下にある岩に跳び乗り、そこから跳躍して地上に出たのだが、何度見ても信じられない跳躍力だと、雷華は彼らが見えなくなった後もしばらく唸りながら穴を見つめていた。
「ライカ」
「ええ、分かってる。ロウジュ、怒ってたわね。後で謝らないと」
ルークに外套を引っ張られ、穴の真下に向かって歩き出す。
頭上からは、がさがさと複数の足音が聞こえてくる。上手くいくといいのだが。力になりたいのに何も出来ないことが歯痒かった。
「その必要はない。本当に嫌だと思っていたら動かなかっただろうからな」
「そうかな……ん? ルーク、貴方いつの間にロウジュの考えが分かるようになったの?」
「し、知らん! 奴の考えなど分かるわけないだろう!」
あれほど仲が悪いのにと、首を傾げて足許にいるルークに訊けば、彼は耳をびくっと震わせて走っていってしまった。といっても、残り十歩もなかったのですぐに追いついたが。
「だって今」
「俺の考えを言っただけだ。そんなことより、これではないのか」
雷華の言葉を遮り、ルークは前足をたしたし動かして肉球で地面を示した。
ルークが前足で指す、というより踏んでいたのは、穴の下、苔の生えた岩の前の地面に埋められていた黒い石だった。石は磨かれたように滑らかな表面を除いて土の下に埋まっており、全体の大きさは分からない。ただ、雰囲気はヴィブゾール山中にあった白い石碑とよく似ている。陽が差し込んでいるせいで分かり難いが、白い石碑と同じく淡く発光していた。
「間違いなさそうね。ディーのいない間にさっさと終わらせましょう」
「頼む」
懐から眼鏡を取り出してかけ地面に膝をつき、じっと黒い石を見つめる。すぐに石の表面に透明の文字が浮かんできた。相変わらず読み難い配色だなと思いつつ、雷華は浮かび上がった文章を声に出して読み上げた。
黒き影 白き光
追い求めし宿命の者
決断の旅路へと誘わん
凍土の地 冷獄の楔
未来を見つめ己が望む道を求めよ
さすれば彼の地に近づかん
読み終えると同時に石碑が激しく光り輝き出す。予想していたとはいえ、眩しいものは眩しい。雷華はぎゅっと眼を閉じて光がおさまるのを待った。
「ライカ! 眼を開けるのはしばらく待ってくれ!」
ルークの焦った声と人が動く気配で、何が起こっているのかすぐに想像がついた。これも予想していたことだ。眼を開けずにいるのがお互いのために一番いいのは間違いないので、言われた通りにする。
「も、もういいぞ」
ぼふんっ、という音がして人の気配がなくなったのを感じて、雷華はゆっくりと眼を開けた。黒犬の姿をしたルークが視界に入る。
「どう? また人間の姿に戻れる時間が長くなった?」
「確かめてみないと分からないが、おそらくそうだろう」
「今度はどれくらいかしらね。宿に戻ったら試してみたら?」
「そうだな」
頷くルークの頭を撫でて立ち上り、眼鏡をしまって外套についた土を払う。頭上の穴からはまだ、二匹の凪猫の咆哮が聞こえてくる。が、人間の叫び声は聞こえなくなっていた。
「ディーが囮になっているのかな。大丈夫だとは思うけど少し心配ね」
「一度喰われればいいのだ。そうすれば、あのふざけた性格も少しはましになるかもしれん」
眉間に皺を寄せるルークを見て、雷華は溜息を吐いた。
「性格がロウジュに似てきたんじゃないかしら」
聞こえないようにぼそりと呟く。性格もなにも一度喰われればそこで人生が終了してしまうのだが、それに対する突っ込みをする人間は、残念ながらこの場にはいなかった。
「っと、そうだ。花は? どこかに咲いてない?」
もう一つの、というよりはディーの目的である悠久の理のことを思い出し、雷華はきょろきょろを辺りを見回した。見える範囲では苔以外の植物は見当たらない。ここにないとなればもう、どこにあるか見当もつかない。どうかありますようにと祈るような気持ちで、雷華はまだ見ていない岩の後ろに回った。




