四十四話 ヲ
「あっ!」
思わず驚きの声が口から零れる。岩の後ろに四輪の花が、隠れるようにひっそりと寄り添って咲いていた。安堵で身体から力が抜け、へなへなと地面に座り込む。
「これは……何とも不思議な花だな」
ルークが花に顔を近づけ、前足でそっと花弁に触れる。花弁は純白で茎は透き通るような白、そして葉は黒色だ。息を呑むほどの美しいのだが、それと同時に奇妙でもあった。無機質とでもいうのだろうか。植物なのだから間違いなく生きているはずなのに、その息吹が感じられない。匂いもない。作りものでないのは確かだが、では生花かと問われれば答えに詰まる。ルークの言うとおり不思議としか言いようのない花だった。しかし、だからこそこれが悠久の理なのだと雷華は確信出来た。
「そうね。でもこれで助かる人がいるのなら、不思議でもなんでもいいわよ」
たとえ花でなかったとしても、これが“悠久の理と呼ばれる花”であり、病を治す効果があるのであれば何の問題もないはずだ。
「ディーも喜ぶわ。必死で探していたみたいだから。きっととても大切な人のためなのでしょうね」
「もうそろそろ戻って来るだろう。凪猫の気配が変わったからな」
「そういえば、静かになったわね」
ルークに言われて耳を澄ましてみれば、先ほどまで聞こえていた咆哮が止んでいた。凪猫を大人しくさせることが出来たのだろう。
「それより、石に書かれていた文章だが」
「ああ、そういえばそうだったわね。花のことが気になって忘れてたわ。え、えーっと、確か“黒き影 白き光 追い求めし宿命の者 決断の旅路へと誘わん 凍土の地 冷獄の楔 未来を見つめ己が望む道を求めよ さすれば彼の地に近づかん”だったわよね」
ぎろりと黒い瞳で睨まれた雷華は、慌てて石に書かれていた文章を記憶から呼び起こした。
「気になるのは凍土の地と冷獄の楔かな。他の文章はヴィブゾール山脈の石碑と似た感じだし」
「同感だ」
睨むことを止めてルークが頷く。
「凍土の地って聞くだけで寒そうだけど、やっぱりそうなのかな。ルーク、思い当たる場所ある?」
凍土とは文字通り寒気で凍った土のこと。雪に閉ざされた極寒の地を想像して、ぷるぷる震えながら雷華は訊いた。
「それは――」
「お待たせ、終わったわよー」
ルークの声と重なって上からディーの声が降ってきた。陽の当たる苔の大地に二つの影が落ちる。上を見上げれば、影の本体が飛び下りてくるところだった。
「二人とも、随分早かったわね。追いかけられていた人は無事?」
軽やかに着地したロウジュとディーに、地面から立ち上って近づく。怪我などしてないかと心配したが、どうやら杞憂だったようだ。二人とも穴から出ていく前と寸分違わぬ姿をしている。それを確認した雷華はほっと胸を撫で下ろした。
「俺ってばちょっと本気出しちゃったからね。間抜けな兵士もちゃんと生きてるわよ。ライカちゃんにも俺の勇姿を見せ――」
「ただいま、ライカ」
「そう、よかったわ。おかえりロウジュ。ディーを手伝ってくれてありがとう。危なくなかった?」
「ライカが望んだから。全然平気」
「ちょっと兄さん、人の話遮んないでよ! ライカちゃんも普通に兄さんと会話しちゃってるし。一番頑張ったの俺なのに。うっかり凪猫のなわばりに入った新米兵士かついで逃げ回るの大変だったんだから」
「はいはい、分かってる、分かってます。私のわがまま聞いてくれてありがとう。本当に感謝してます」
よよよと泣き真似をするディーに頭を下げる。ふざけていても頼りになる人なのは朝から一緒に行動していてよく分かっていた。そんなディーに喜んでもらおうと、雷華は彼の外套を引っ張りにこりと笑う。
「それで、お礼と言ってはなんですが、岩の後ろを見て下さい。ディーの望むものがあるはずです」
芝居がかった仕草で岩を指す。
「俺の望むもの? ……これはっ!?」
首を傾げながら言われるがまま岩の後ろに回ったディーは、そこに咲いている花を見て驚愕の表情になった。ふざけている様子はどこにもない。本当に心の底から驚いている。
「何をそんなに驚いているの。あるって信じてたんでしょう?」
「それは、そうだけど……でもまさか」
「まあ、私も正直絶対の自信があったわけじゃないのだけれど。でも、花はこうしてちゃんと存在した。これで貴方の大切な人は助かるのよね? 早く届けてあげて」
花を見たまま固まって動かないディーの背中をぽんと叩く。すると彼はびくっと身体を震わせて、雷華に視線を移した。困惑、歓喜、安堵が入り混じったような複雑な表情。泣いているようにも笑っているようにも見えた。
「山に連れて行ってくれて本当にありがとう。貴方の大切な人が回復するのを祈っているわ」
王都リムダエイム下層北区画にある、山へとつながる門。空が濃紺に染まるなか、雷華はディーと別れの挨拶を交わしていた。あの後、花を一輪だけ摘んだ雷華たちは来た道を可能な限り急いで戻った。休憩も取らなかったので、もう身体はくたくただ。
「礼を言うのは俺のほうよ。ライカちゃん、本当にありがとうね。ライカちゃんがいなかったら、これは絶対に見つけられなかった」
真剣な表情でディーが花が入った皮袋を掲げる。これから届けに行くのだろう。ここからどのくらい離れた場所に向かうのか分からないが、不眠不休に近い状態で走り続けるに違いない。それほどの覚悟が今のディーからは感じ取れた。
「そんなことはないと思うけれど、でも力になれてよかった。私も嬉しい。気を付けてね」
もう会うことはないかもしれない。掴みどころのない人だったが、一緒にいて退屈しなかった。お互い正体を偽ったままだが、ある程度の信頼関係を築けたのではないかと思う。それだけに、別れが少し寂しくもあった。けして口には出さないけれども。
「俺と別れるの寂しい?」
「さあ、どうかしら? 次会うことがあったら教えてあげるわ」
にっこり笑って手を差し出す。が、ディーはその手を握らなかった。握らずに恭しく雷華の手を取り、手の甲にそっと口づけを落とした。
「なっ!」
「お前っ!」
「なっ、なにするのよ!」
かぁっと雷華の顔が朱に染まる。勢いよく自分の手を引いて、赤い顔のままディーを睨んだ。
「次会う約束。じゃあ、もう行くわね。兄さんと犬っころが今にも襲いかかってきそうだわ」
そう言ってディーは片眼を瞑り、ひらりと馬に飛び乗って駆けていった。後ろ姿を雷華は茫然と、ルークとロウジュは殺意を込めて見送る。その光景を門の入口にいる兵士たちが、好奇心に満ちた眼で見ていた。
「あいつ、次会ったら殺していいよね?」
「やはり凪猫に喰われればよかったのだ」
「はぁ、本当に最後までよく分からない人だったわね。二人とも、宿に帰るわよ。もうへとへとだわ」
苦笑しながらディーが消えた方向をいつまでも睨む元暗殺者と現王子を促して馬に跨る。
ディーにはディーの、雷華には雷華の進むべき道がある。道が再び交わることはないかもしれないが、彼が幸せだと思える道を歩んでいってほしいと雷華は願った。
思わぬ形で道が重なることになるとは夢にも思わずに。




