星々よ、煌め
「よく考えるんだ。生まれる前の私は、どういうわけでこの世界を選んで誕生したかったのかを」
その言葉を口にしたのは、まだ幼さの残る子だった。
そのすぐそばには、全身を包帯で覆った褐色肌の男が座っている。
とある大樹の下での、異様な光景だった。
「……君は、君の世界が嫌いなのか?」
包帯の男が、低く問い返す。
「ううん、嫌いってわけじゃないよ」
子は少しだけ考えてから、続けた。
「ただ最近、分かったんだ。誰でも自由に、自分のやりたいこと、好きなことができるわけじゃないって」
男は一瞬だけ目を細める。
「……ああ。そうだ。やりたいことを見つけるのは、想像以上に難しい。それが自分に合っているのか、成し遂げられるのかも分からない。——そもそも、そんなものに出会えるかどうかすら、我々が生まれる時から平等じゃない」
「キャンサーは?」
子は、何気なくその名を呼んだ。
「やりたいこと、見つけたの?」
わずかな沈黙。
どこか遠くで、風の音が鳴る。
「……見つけたよ。でも、計り知れない代償を払った。しかも今の僕はもう二度と、それを続けることはできない」
「そっか……」
「変な話したな。忘れてくれ」
「ううん。気にしなくていいよ」
子は、小さく首を振る。
「だって、キャンサーは後悔してないみたいだし」
その言葉に、男はわずかに笑った。
「……さあな。後悔してるかもしれないし、自分でもよく分からない」
それでも。子は、どこか確信めいた声で言った。
「でもさ。見つけたいって思う気持ちだけは、きっと誰もが持てるよ。この世の誰でも、平等に」
これは、なんでもない、ごく普通の一日だ。
目立たない国の、目立たない町の、さらにひっそりした郊外の村。テクノロジーが地道に発展している時代だが、この場所にはまだ、どこか時間の流れが遅れているのようだ。
繁華街から離れていて、未開の森や山がすぐそばにある。素朴な小屋が並び、その横には洗練された別荘群。デザインに凝った石畳や整然としたレンガの道、そこそこの風景だ。
静けさの中に、初春の気温は心地よく、気づけば眠気が来そうなほどだ。
淡いオレンジ色のツインテールの少女が、大きくあくびをしながら空を見上げていた。
大きな瞳はどこかいたずらっぽく、口元には無邪気な笑みが浮かんでいる。肩を大きく出した白いジャケットに、動きやすそうなショートパンツ。太ももにはベルトが巻かれ、足元は編み上げのブーツ。
胸元に下がる金の装飾は、目のようでありながら、目ではない。
何かを見ているかのように、静かに光を受けていた。
「まだ来てないの?」
彼女はすぐ隣にいる大柄な男性に向けられていた。
暗赤色髪の大男、身長は恐らく二メートル以上、年は三十か四十代ほど。シャツに長ズボンのシンプルな格好で、少女と非常に親しい距離だった。
「そろそろだろ。あ、ちょうど来た。おい!こっちだ!」
男性が呼ぶと、少女の顔がぱっと明るくなり、周囲を見渡して待ち人を見つけると駆け寄り、相手に飛び込んだ。
同じく淡いオレンジ色の髪で、眼鏡をかけている青年は、その抱擁に慣れているように、ただ優しく少女の頭を撫でた。
二十歳そこそこの青年。整った顔立ちに、どこか気の抜けたような優しい表情。初対面でも、好青年と思わせてしまうタイプだった。
「リツ兄さしぶり!お帰り!荷物手伝おっか?」
「さしぶり、ハルカ。妹に荷物なんて持たせられないよ……」
「私、前より力持ちなんだよ、朝飯前だし!」
するとハルカの後ろから、大男が割って入り、青年の荷物をさっと受け取った。
「二人共程々にしろ。さあ、帰ろう。今夜はご馳走だからな。ハルカも買い出しとか色々手伝いしたぞ、リツ」
「ほんと?ありがとう、ハルカ、ルキウス」
三人は丸石の敷かれた道をゆったりと歩く。
温かな、穏やかな空気に包まれている。
「リツ兄、そっちのバッグは?」
ハルカが訊くと、リツは右手にあるバッグの中身を取り出して見せた。
「これはね、重要な書類なんだ……ほら」
「わあ……いつも話してた、あの入るのも出るのも難しい学校の……リツ兄の名前入り!」
「そんなに軽く言うな」
前方でルキウスが笑いながら言った。
「リツはこの世においても数えられる才覚の持ち主だぞ。でも、この町じゃあ、お前の才能が全く使い道がないのがもったいない」
「名前すら持っていない町でも、ここが僕の故郷だから」
ハルカはその書類にあまり興味を示さなかったが、リツが大きな厚いスケッチブックを取り出すと、すぐそっちに目を輝かせた。
ちょうど三人は自宅へと戻っていた。町の外れ、山林にほど近い場所に建てられた、こぢんまりとした二階建ての家だ。
家に着いた彼らは、とりあえず荷物をざっと置くだけにして、片付けは後回しにしていた。リツはリビングのソファに腰を下ろし、ひとまず深く息を吐いた。ハルカは青年の膝に身を寄せ、スケッチブックのページをめくり始める。
スケッチには様々な建築物や景色が描かれていて、その才能の豊かさが感じられる。
ルキウスはそんな二人の姿を、少し離れてながら眺めていた。
「……すごいな、リツ兄」
「なにが?」
リツは微笑んで返した。
「ハルカのことだから、絵が上手っなわけじゃないよね?」
「もちろんそれもすごいけど……リツ兄は昔っから……」
――そのとき、ドンドンと玄関の方から音が響いた。リツが顔を上げて戸の方を見る。
「誰だろう、この時間に……?」
「結構、お前が今日帰ってくるってみんな知ってたみたいだ」
ルキウスがリツに迎えていいとうなずく。
ドアを開けると外には三重にならんで集まる町人たち。年老いた者も、子連れの親も、リツを見ると口々に笑顔をこぼした。
「リツ! おかえり! あんなすごい学校、卒業できて本当におめでとう!」
「リツ、今日はごちそう持ってきたよ!前にわざわざ薬を送ってくれたこと、まだ礼を言う機会もなくってさ!」
「リツ!おれ昨日めっちゃ大きい虫をとったぞ!早くうちに来て見てみようよ、何の虫かさっぱりだぜ!」
「みんな……!いや、僕は……」
リツはあたふたして、誰に先に話しかければいいのか分からずにいた。そんな彼を囲んでいた町の住民たちは、皆楽しそうに笑っていた。
ハルカは、リツが、兄が人に慕われ、好かれている姿を見るのが好きだった。
しかし——少女はニコニコと笑いつつも、胸の金のペンダントを見つめて、次第に俯いた。
「ハルカ」
ルキウスが彼女の肩を軽く叩いた。
「リツがしばらく対応してっからさ、暇なら手紙とか荷物取りに行ってきたら?」
「……うん」
受け取り場は家から少し離れていて、ハルカは人通りの多い道を歩かなければならないが、それも慣れた道だった。
生まれてから一度もこの町を離れたことはない。住民と目が合えば、わざとそらしたり、道端にいる危なさそうな男に睨まれたり、子連れの老婆からは距離を取られたりすることもあるけれど、ハルカもさほどには気にしていない。
巻きシャッター前に着くと、サングラスかけている丸刈りの中年男性がタバコを吸っていた。
「おっさん、来たよ。うちのものあんの?」
「っおお、ルキウスちの小娘じゃないか。明日来るかと思った。今日そっちの天才坊やは帰るんじゃないのか?」
「……リツ兄は今忙しいよ」
ハルカは少し不満げに答えた。
「なんだ、お前がそこにいて殺風景だった?」
「私はなんもしてない!」
「はは!ざまあねえな!日頃の報いってまさにこういうことよ!」
男のあからさまな笑いに、ハルカもすでに慣れているような反応だった。男も自然と話題を変え、ポケットから手紙一通を取り出した。
「そうそう、これを渡しておかないとな。お前宛のもんだ。前の件は、お前の正当防衛として処理された」
「だから、私は最初からあいつらが飲みすぎたって言ってんの!わざわざこんなもんいらねえし!」
「チッ、また勝手なこと言いやがる……この紙切れ一枚のため、オレはどんだけ苦労したのかわかるか?ルキウスがどうしてもって言うから、 じゃなきゃ知るもんかこんなこと」
男はタバコを押しつぶし、舌打ちを混ぜながら続けた。
「いいか、お前はバケモノだろうがせめてイカれたやつじゃない。今回の相手はビビったが毎回こううまくいくわけじゃない、お前の周りまで危険に晒したら手遅れだ。ルキウスもマジで何考えてんのかわからん……誰も例外なく、この世で生まれた以上世界に合わせて生きなきゃいけないって、わかってねえだろう小娘?」
ハルカはただ胸を抱え、彼と目を合わせようとしなかった。どうやら彼女は、こうして説教されるのも、黙って受け止めるのも、初めてではないようだった。
「ったく、だから子供が嫌いなんだよ」
男は疲れ果てたようにため息をついた。
「お前の兄は世のルールを理解し、さらに頂点まで登り詰めたエリートなのに、なんで同じ家で兄妹なのに、そんなに差があるんだ?」
ハルカが抱えているいくつかの段ボールの中に、「ワレモノ注意」と書かれた小さな箱が一つあった。この頃はみんな帰省シーズンで、人通りも増えている。来た道を振り返ると、群衆に埋もれていたため、荷物を落とさないように幼い頃から慣れた脇道を使って迂回する。
「やっぱりあのおっさん好きになれない!リツ兄はどんだけすごいか私は誰よりも知ってるっつーの!」
あの男の言葉は刺々しかったが、ハルカの立ち直りはいつも早い。ただ、歩きながら胸のペンダントに視線を向く。
「……つまんないの。ここの誰でもそう。私もいつか、ああいうつまらない人になっちゃうのかな……」
少女は足を止め、顔を上げ、黄昏色に染まりかけた狭い空を見上げた。
「……世界は、こんなに窮屈であるべきじゃないはずなのに」
そのとき——遠い星の煌めきのように、何かが一瞬光った。
はっきりではなかったが、ハルカには、確かに見たのだ。
もしその瞬間に顔を上げていなかったら、その遠く離れる星がこのとき輝いていなかったら、この出会いは永遠に起こらなかっただろう。
——シュッと。
屋根の上に、とある少年の姿が素早く駆け抜けていった。ハルカは紫色の瞳を瞬かせた。
「パルクールしてるのかな? 休み始まってすぐなのに元気すぎ……わっ!」
「どけ!」
背後から二人の男が、一気にハルカを押して前へ走り去った。先ほどの段ボールが全て地面に落ち、その中の「ワレモノ注意」の箱からは、ガラスが割れる音がした。
ハルカは散乱した箱を見て呆然とし、追いかける男たちを見送った。だんだん、怒りが頂点に達するのを感じた。
「……あいつら……!」




