五月 イチゴの味
【五月:ストロベリー・ホログラム】
五月の風は、若葉の匂いを運んでくる。
世間がゴールデンウィークという浮かれた熱に浮かされている中、
僕の心は所在なく、春の空を彷徨っていた。
「冬也、そんな顔すんなって!
今日は演劇部の新歓パーティの残り物、
美咲先輩が食べさせてくれるって言ってたぞ!」
親友の九瀬明は、相変わらずの調子で僕の背中を叩く。
彼に連れられて歩く高校への道は、最近では僕にとって、
自分の家よりも現実味のある場所になりつつあった。
部室の扉を開けると、そこには大きなダンボールと格闘する美咲先輩の姿があった。
「あ、ボランティア君たち、いらっしゃい。
ちょうど良かった、これ、舞台袖に運ぶのを手伝ってくれる?」
先輩は、額に張り付いた髪を乱暴にかき上げ、僕を見てにこりと笑った。
半袖になった制服のブラウスから覗く、白くしなやかな腕。
小学生の僕たちとは明らかに違う、大人へと向かう途中の、完成されつつある美しさ。
「……あ、はい。やります」
「ふふ、冬也くんは相変わらず真面目ね。
明くん、そっちの角を持って」
先輩と一緒に重い荷物を運ぶ。
手が触れそうになるたび、僕の胸は小さく波打つ。
先輩から漂う、日向の匂いと、少しだけ混ざる舞台化粧品の香りが、僕の鼻腔をくすぐった。
けれど、そんな穏やかな時間は、
ポケットの中で震えるスマホの振動によって、あっけなく中断された。
『由綺:今日、17時から1時間だけ、時間が取れそう。あの公園で、待っててもいいかな?』
その一文を見た瞬間、僕の体温は一気に冷え、それから激しく燃え上がった。
「……先輩、すみません。
急用ができて」
「えっ、冬也?
お前、美咲先輩特製のイチゴサンド食べないのかよ!」
明の声を背中に受けながら、僕は部室を飛び出した。
後ろめたさが、泥のように心にこびりつく。
けれど、今の僕にとって、由綺からの呼びかけは、抗うことのできない絶対的な神託だった。
夕暮れ時の、人影もまばらな公園。
木立の陰にあるベンチに、深い帽子を被り、大きなマスクをした少女が座っていた。
その華奢な肩は、どこか周囲の風景から浮き上がって見える。
「……由綺」
「……冬也くん。来てくれたんだ」
彼女は顔を上げ、周りを用心深く見渡してから、そっとマスクをずらした。
テレビの4K画質でも伝えきれない、本物の、芦田由綺の顔。
けれど、その瞳には濃い影が落ち、今にも消えてしまいそうな危うさを孕んでいた。
「ごめんね、こんな急に。
……本当は、今日、名古屋で営業だったんだけど。
移動の合間に、無理を言って降ろしてもらったの」
「無理しすぎだよ。体、大丈夫?」
「ううん。冬也くんに会えない方が、体、壊しちゃいそうだったから」
彼女は小さく笑い、僕の隣に座った。
そして、そっと僕の肩に頭を預ける。
軽い。
まるで重力を持たない羽のように。
彼女の髪から漂うシャンプーの香りは、完璧に管理された「アイドルの香り」で、
さっき部室で感じた美咲先輩の体温を伴う匂いとは、決定的に違っていた。
「ねえ、冬也くん。
最近、学校はどう?
私、全然行けてないから……」
「明と、近くの高校の演劇部の手伝いに行ってるよ。
……美咲先輩っていう、優しい先輩がいるんだ」
嘘をつきたくなくて、僕は正直に話した。
由綺の体が、僕の肩の上でわずかに強張る。
「……高校生、かあ。
大人、だよね。私より、ずっと大人で……綺麗なんだろうな」
「由綺の方がずっと綺麗だよ。
それは、日本中のみんなが知ってる」
「みんななんて、どうでもいいの。
……冬也くんの『一番』が、私じゃなくなっちゃうのが、一番怖い」
由綺は顔を上げ、僕をじっと見つめた。
その瞳には、涙が溜まっている。
彼女は僕のシャツの裾を、白くなるほど強く握りしめた。
「忘れないで。
私のこと、絶対に、忘れないで」
刹那、彼女の顔が近づいた。
触れたのは、唇だった。
ひんやりとして、けれど震えている、柔らかな感触。
鼻を抜けたのは、人工的な、けれど酷く切ないイチゴのリップクリームの味。
それは僕にとってのファーストキスだった。
けれど、幸せというよりも、胸を締め付けられるような痛みが勝った。
彼女の唇は、まるで氷細工のように冷たく、
僕が温めようとすればするほど、溶けて消えてしまいそうだった。
「……時間だね」
遠くで、黒塗りの車のクラクションが短く二回鳴った。
由綺は素早くマスクを戻し、帽子を深く被り直した。
さっきまでの、僕の肩で震えていた「隣の席の女の子」は、
一瞬にして「国民的アイドル・芦田由綺」へと変貌する。
「バイバイ、冬也くん。……大好きだよ」
彼女は一度も振り返らず、車へと走っていった。
残されたのは、夕闇に染まりゆく公園と、
僕の唇に残った微かなイチゴの香りと、冷たさだけ。
僕は一人、ベンチに座り続けた。
スマホを取り出すと、美咲先輩からメッセージが届いていた。
『冬也くん、急用は大丈夫だった?
イチゴサンド、冬也くんの分だけラップして冷蔵庫に入れといたから。
明日、食べに来てね。おやすみ』
美咲先輩の「イチゴ」。
由綺の「イチゴ」。
唇に残る冷たい感触と、画面に表示された温かい言葉。
僕は自分の指先を見つめた。
由綺とキスをしたはずなのに。
世界で一番幸せな男の子になったはずなのに。
僕の心は、どうしようもない空腹感に苛まれていた。
それは、由綺という「星」に触れた代償としての、深い、深い孤独だった。




