四月 高嶺の花と隣の席
【四月:高嶺の花と、届かない体温】
春の陽だまりが、埃の舞う教室を白く塗り潰している。
休み時間、黒板の横に設置されたテレビモニターには、
嫌というほど「彼女」が映っていた。
『――それでは聴いてください。芦田由綺で「恋の魔法」』
画面の向こう、まばゆいスポットライトを浴びて微笑む少女。
日本で一番忙しく、日本で一番愛されている小学生、芦田由綺。
けれど、僕――藤崎冬也にとって、彼女はモニターの中の住人ではなかった。
「……あ。また、忘れてる」
隣の席から、衣擦れの音と共に小さく、切ない吐息が漏れる。
僕は視線を横に向けた。
そこには、国民的アイドルとしての仮面を脱ぎ捨て、
一人の「困り果てた女の子」として立ち尽くす彼女がいた。
「芦田さん。また、教科書?」
「……うん。昨日、夜中まで収録があって……朝、慌てて準備したから」
彼女の指先が、空っぽの机の上を力なく彷徨う。
その指は少し震えているように見えた。
僕は黙って自分の椅子を彼女の方へ引き寄せた。ガタッ、と乾いた音が教室に響く。
「ほら、見せてあげるよ。一緒に見よう」
「えっ……あ、ありがとう、藤崎くん」
寄せられた二つの机。
わずか数センチの距離。
彼女がそっと僕の隣に身を寄せる。
その瞬間、春の風に乗って、彼女の髪から微かに甘い、花の香りがした。
教科書を見つめる彼女の横顔。
長い睫毛、透き通るような肌、そして少しだけ不安げに結ばれた唇。
――なんて、可愛いんだ。
心の中に留めておくはずだった言葉が、形になって零れ落ちた。
「え……?」
由綺が弾かれたようにこちらを見る。
その瞳が、僕の視線と真っ向からぶつかった。
彼女の頬が、見る間に林檎のように赤く染まっていく。
「……っ、ご、ごめん。
変な意味じゃなくて、その、本当に綺麗だなって思って」
「……ううん。
……嬉しい。藤崎くん、そんなこと言ってくれるんだ」
彼女は照れ隠しのように、開かれた教科書の端をぎゅっと握りしめた。
それが、全ての始まりだった。
それからの日々は、まるで誰かが書いたドラマの脚本のように進んでいった。
周りの目を盗んで交換した、メッセージアプリのID。
放課後、誰もいない特別教室で交わした、約束。
『冬也くん。
私……あなたが好き。
私、アイドルだけど……一人の女の子として、あなたの隣にいてもいいかな?』
震える声で告げられた告白。
僕は世界一の幸運を掴み取ったはずだった。
けれど、付き合い始めてすぐに、僕は思い知らされることになる。
「あ、迎えが来たみたい。……ごめんね、冬也くん」
放課後の校門。
僕の手を握ることも許されず、彼女は黒塗りの高級車へと吸い込まれていく。
土日も、祝日も、彼女のスケジュールは真っ黒な文字で埋め尽くされていた。
僕の恋人は、スマホの画面に表示される『おやすみ』の文字と、
深夜番組で歌う姿の中にしか存在しなかった。
握りしめたスマホの熱だけが、彼女との繋がりを証明している。
そんな、形のない恋愛に、僕の心は少しずつ削り取られていた。
「冬也! またそんな顔してスマホ眺めてんのかよ」
背中を強く叩かれ、現実へと引き戻される。
親友の九瀬明が、ニヤニヤとした笑みを浮かべて立っていた。
「……うるさいな。別に眺めてるだけだろ」
「いいから行くぞ。隣の高校の演劇部!
今日から大道具の搬入があるんだってよ。
手伝って恩を売っとけば、可愛い女子高生と仲良くなれるチャンスだろ?」
「明、お前そればっかり……。
僕は小学生だよ?
相手にされるわけないだろ」
「バカ言え。
小学生だからこそ『可愛いボランティア君』として可愛がってもらえるんじゃねーか。
ほら、行くぞ!」
強引に腕を引かれ、僕は溜息を吐きながら彼に従った。
正直、どこでもよかった。
由綺のいない放課後の、この埋めようのない空白から逃げ出せるのなら。
隣接する高校の旧校舎。
埃っぽくて、どこか懐かしい木の匂いと、舞台用化粧品の香りが混ざり合った独特の空間。
薄暗い講堂の中で、一つの強い光が僕の視界を射抜いた。
舞台の天井近く、キャットウォークから照明の角度を調整している影があった。
「よし、この角度。……あ、ごめん! 誰かそこにいる?」
鈴を転がしたような声。
バタバタと階段を下りてきたその人は、
顔を上気させ、おでこに滲んだ汗を手の甲で拭った。
「あら、小学生のボランティア君たち。今日も来てくれたの?」
桑島美咲先輩。
高校一年生の彼女は、僕たちを見ると、年下を慈しむような屈託のない笑顔を向けた。
アイドルである由綺が見せる「計算された笑顔」とは違う、
もっと無防備で、もっと熱を持った笑顔。
「こんにちは、美咲先輩。今日も手伝いに来ました!」
「ふふ、明くんは元気ね。
……そっちの君は?
ちょっと元気ないみたいだけど」
美咲先輩が、僕の顔を覗き込む。
近い。
由綺とは決して共有できない、物理的な距離の近さ。
彼女が動くたびに、制服の隙間から、体温を伴った微かな石鹸の香りが漂ってくる。
「……藤崎冬也です。
ちょっと、寝不足なだけで」
「ふーん、冬也くんね。
無理しちゃダメよ?
ほら、これ食べなさい。糖分補給」
先輩はポケットからイチゴ味の飴玉を取り出し、僕の手のひらにポンと置いた。
その時、一瞬だけ触れた彼女の指先は、驚くほど熱かった。
「ありがとうございます……」
「いいのよ。
さて、仕事再開!
冬也くん、悪いんだけど、あっちの暗幕を支えててくれるかな?」
はい、と返事をして僕は動く。
由綺とのメッセージのやり取りにはない、肉体的な労働と、すぐそばにある誰かの気配。
美咲先輩が舞台の上を走るたび、床が小さく揺れる。
その振動が、僕の足の裏から心臓へと伝わってくる。
テレビの中の由綺は、いつも完璧で、いつも遠い。
けれど、目の前で汗を流す美咲先輩は、手を伸ばせば届く場所にいた。
僕が求めているのは、液晶越しに愛を囁くアイドルなのか。
それとも、今こうして僕の名前を呼び、温かい視線をくれる一人の女性なのか。
春の夕暮れ、舞台袖の暗闇の中で。
僕は、自分の心が静かに、けれど確実に、別の熱を帯び始めていくのを感じていた。




