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第10章 115万人の衝撃(2)1月5日 金曜日 午前10時

◆ 1月5日 金曜日 午前10時


◇ 内閣官房 人事局


伊勢野勝己、42歳。野村総合研究所の上席研究員として、昨年末に専務から突然の打診を受けていた。


「伊勢野さん、お待たせしました」


内閣官房の人事担当・小林が入室した。


「野村総研から高い評価を伺っています。総理婚現象の分析、拝見しました」小林は書類を開いた。「実は、内閣府で新しいプロジェクトを立ち上げる予定でして」


伊勢野は姿勢を正した。まさか政府中枢から声がかかるとは。


「エンカウント仮説をご存知ですか」小林が続けた。「東大の片瀬朔実助教の研究です。これを政策化するチームを作りたい」


「片瀬先生の研究は存じ上げています」伊勢野は答えた。「昨年のセミナーで拝聴しました」


「では話が早い」小林は身を乗り出した。「2月1日付けで、内閣府参事官補佐として出向していただけませんか。野村総研には籍を残したままで結構です」


伊勢野は深呼吸した。政策分析の専門家として、ついに政府中枢で働くチャンス。


「今後、片瀬先生にも声をかける予定です」小林が続けた。「もう一人、厚労省の石森直哉さんにも」



◆ 1月12日 金曜日 午後3時


◇ 東京大学社会科学研究所 片瀬研究室


片瀬のもとに、内閣官房から正式な連絡が入った。


「片瀬先生、内閣官房人事局の佐藤です。エンカウント政策について、正式にご協力をお願いしたく」


片瀬は驚いた。政府が自分の研究に本格的に動き出すとは。


「2月から新しいプロジェクトチームを立ち上げます。4月の社人研移籍も踏まえて、継続的にご参加いただければ」


「分かりました」片瀬は答えた。「理論の実装には慎重さが必要ですが、協力させていただきます」



◆ 1月15日 月曜日 午前10時


◇ 東京・渋谷 産婦人科クリニック


妊娠初期の検査を受ける女性たちで、待合室は溢れていた。


「今月に入って、妊娠検査薬の陽性反応で来院される方が急増しています」看護師が院長に報告した。「去年の4月から5月にかけての第一波とは違う、新しい波です」


院長の山本医師は頷いた。「談話から9ヶ月。最初の出産ラッシュと重なって、医療現場は限界に近い」


診察室では、32歳の女性が不安そうに座っていた。


「妊娠7週目ですね」山本は超音波画像を見せた。「順調ですよ。予定日は9月上旬です」


女性は安堵の表情を見せた。「実は、周りの友人がみんな『2人目でクリア』とか『あと1人でクリア達成』とか言っていて...私もようやく1人目で、クリアへの第一歩です」


山本は複雑な表情になった。「クリア」という言葉が定着してから、出産がまるでゲームの達成目標のように語られるようになった。経済的に余裕があった層は、この「クリアブーム」に真っ先に乗った。



◆ 1月20日 土曜日 午後2時


◇ 厚生労働省 社会・援護局


石森直哉、47歳。藤原健一の同期として厚労省に入省し、今は生活保護制度改革を担当している。内閣官房から呼び出しを受けていた。


「石森さん」内閣官房の小林が現れた。「2月から立ち上がるプロジェクトに参加していただきたい」


石森は驚いた。「私は生活保護担当ですが」


「だからこそです」小林は説明した。「高齢者の貧困問題と少子化は表裏一体。あなたの知見が必要なんです」


「エンカウント政策について、片瀬先生、伊勢野さんと一緒に検討していただきたい」



◆ 同日 午後6時


◇ 東京・世田谷 産婦人科クリニック


個人クリニックの院長である山本医師は、カルテの山を前にため息をついた。予約は3ヶ月先まで埋まっている。


「先生、また新規の問い合わせです」受付の看護師が言った。「42歳の方で、体外受精を希望されています」


山本は首を横に振った。「申し訳ないが、新規は受けられない」


看護師は困った顔をした。「でも先生、この方、去年の4月から不妊治療を始めて——」


「総理談話の後か」山本は立ち上がった。


診察室に入ると、疲れ切った表情の女性が座っていた。結婚15年目、これまで自然妊娠を待っていたが、談話を聞いて慌てて治療を始めたという。


「可能性はありますか」女性は必死だった。


山本は正直に答えた。「42歳での体外受精の成功率は、10%程度です。それでも——」


「やります」女性は即答した。「後悔したくないんです」


山本は頷いた。高齢出産のリスクを説明しながら、同時に希望も伝えた。医療の進歩により、40代での出産も珍しくなくなっている。



◆ 1月25日 木曜日 午前10時


◇ 野村総合研究所 伊勢野の執務室


伊勢野は、2月1日の出向を前に、引き継ぎ準備を進めていた。片瀬朔実には個人的に連絡を取っておきたい。


電話をかけた。「片瀬先生、野村総研の伊勢野です。実は私も2月から内閣府に出向することになりまして」


「そうなんですか」片瀬の声が聞こえた。「私も4月から社人研に移籍予定です」


「エンカウント政策のプロジェクトでご一緒することになりそうです。2月に入ったら、正式にお会いできればと」


「こちらこそ、よろしくお願いします」



◆ 同日 午後3時


◇ 福井県庁 知事室


福井県知事の岩川は、内閣府からの提案書を読み返していた。「高齢者活躍推進モデル事業」。予算は年間50億円。


「50億円...」岩川は眼鏡を外して目頭を押さえた。「これは大きな予算ですね」


伊勢野は身を乗り出した。「福井県だからこそ、この事業の価値があるんです」


「というと?」


「三世代同居率が全国1位。しかし同時に、独居高齢者も増えている。この両極端な状況こそが、新しいモデルを作る土壌になります」


岩川は資料のページをめくった。施設の完成予想図、運営計画、職員配置。どれも詳細に練られている。


「駅前の一等地に建設するんですね」岩川が地図を指差した。「若い人の目につきやすい場所だ」


「はい」伊勢野は慎重に言葉を選んだ。「高齢者が社会から隔離されるのではなく、日常の風景の中に溶け込む。それが重要だと考えています」


岩川は立ち上がり、窓から福井の街並みを眺めた。「高齢者に生きがいを与え、若者には...何を与えるんですか?」


伊勢野は一瞬沈黙した。「現実です。家族の大切さという現実を」


「現実、ですか」岩川は振り返った。鋭い視線が伊勢野を捉える。「何か別の狙いがあるような気がしますが」


「高齢者の幸せが、結果的に若い世代の人生設計に良い影響を与える。そう信じています」


岩川は深くため息をついた。そして、書類にサインした。


「福井を実験場にするつもりなら、せめて成功させてください」


知事は、期せずして核心を突いていた。


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