第9章 地方の変貌(4)12月5日(日)
◆ 12月5日(日)午後2時
◇ 武生市 藤原家の農地
北川は、藤原の案内で農地を訪れていた。
荒れた田んぼが、冬の陽光の下で静かに広がっている。雑草が伸び放題で、素人目には荒廃しているようにしか見えない。
「ここを、来年から開墾する」
藤原の視線の先に、一台の車が止まった。降りてきたのは、グレーのコートを着た中年男性。
「石森、久しぶり」
石森直哉、47歳。藤原の厚労省同期。社会・援護局で生活保護制度改革を進めている。
「藤原、本当に農園をやるのか?」
石森の顔には、同期らしい親しみがあった。しかし、その目は冷静に周囲を観察している。
「ああ。秋までは準備に専念する。その後は...補助金申請の手伝いでもして小銭を稼ぐよ。20年間書類ばかり書いてきたからな、申請書作成なら得意だ」
石森が苦笑した。
「補助金申請職人か。元キャリア官僚の末路としては...」
「上等だろう。地元の農家や中小企業の役に立てる」
石森が田んぼを歩き始めた。土を踏みしめる音が、静かな農地に響く。
「広いな。2ヘクタールって、東京ドームの半分くらいか」
「そんなところだ。用水路も通っているし、県の農業指導員は『基盤はしっかりしている』と言ってた」
北川は、二人のやり取りを見守っていた。同期だが、タイプは全く違う。藤原は地方出身の苦労人、石森は都市部エリート。
「ところで、石森。お前はなぜ福井を調査先に?」
石森が振り返った。その表情に、一瞬プライベートな親しみが浮かんだ。
「藤原、福井県の生産年齢人口と老年人口の割合だが、知ってるか?」
「ああ、そういうことか」藤原が納得したような表情に変わった。厳密には畑違いだが、同じ厚労省官僚として傾向は把握している。
「正確には57%と32%、都道府県で順位づけすると24位と26位だ。日本の縮図ってところだな。生活保護制度の改革案を作るために、地方の実態を見るにはちょうどいいんだよ。特に、高齢者の貧困問題と若年層への影響について」
藤原の顔が曇った。
「杉浦研究室の理論か」
「よく知ってるな」
「内部資料を少し見た」
石森が笑った。それは苦笑でも、冷笑でもなかった。ただの、職務上の笑み。
「藤原、お前が農園でやろうとしていること。俺は支持するよ」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だ。独身の高齢者に働く場所を作る。それは必要なことだ」
石森の声には、真摯な使命感があった。
「俺たちがやっていることは、日本の未来のためだ。それは分かっているだろう?」
藤原は黙って頷いた。
石森が帰った後、藤原は一人で田んぼに残った。霜で白くなった枯れ草を見回しながら、農地の端に積もった落ち葉を集めていた。来春の堆肥にするつもりだ。手を止めて、ふと考え込んだ。
厚労省にいた頃は、毎日エクセルと睨めっこだった。財政検証、将来推計、給付と負担のバランス。数字は嘘をつかない。2031年に枯渇するという現実も、母親手当で年9兆円が消えるという計算も、全て正確だった。独身者への影響も、地方の変化も、予想はしていた。コンビニで年金保険料の督促状を破り捨てる若者の姿も見ていた。でも、それは政治が決めることだと自分に言い聞かせていた。官僚の仕事は選択肢を示すこと。選ぶのは政治家の責任だと。
今、落ち葉を集めながら思う。この作業は誰も評価しない。グラフにも載らない。政策評価の対象でもない。それでも、確実に土は豊かになっていく。春には、ここに何かが芽吹くだろう。数字では測れない、小さな希望が。
携帯が鳴った。東京の後輩からだった。
「藤原さん、農業を選ばれたんですね」
優秀な後輩は、批判も助言もしなかった。ただ、理解しようとしている。
「効率だけじゃないものを、探しているんですか」
「そうかもしれない」
藤原は空を見上げた。
「毎日数字を追いかけて『みんなのため』って言いながら、実は誰の顔も見ていなかった。今は違う」
電話を切った後、藤原は気づいた。総理談話が作り出した「産め増やせ」の空気。それも必要だったのかもしれない。でも、本当に大切なのは、目の前の一人一人と向き合うことかもしれない。
独身の高齢者が農園で働く姿を想像した。誰かに「3人産め」と言われることもなく、ただ野菜を育てる。それは小さな尊厳の回復かもしれない。
そして、農園は単なる農業の場所じゃない。補助金申請の相談で農家と繋がり、収穫物を通じて地域と繋がり、独身者同士も繋がる。何重もの繋がりが、この地域を内側から強くしていく。効率では測れない、本当の意味での社会保障かもしれない。
藤原は、遠くの山並みを見つめた。来年の春、ここに何人かの独身者が集まって、一緒に種をまく。年金制度を守るために作った政策が生み出した社会の分断。せめて地域で、小さな居場所を作ることから始めたい。
◆ 12月10日(金)午後4時
◇ 福井新聞社 編集局
北川は、年末特集の記事を書いていた。
「2027年 福井の変貌」
今年一年で、福井は大きく変わった。結婚ラッシュ、ベビーブーム、3世代同居の復活、東京からのUターン。
しかし、その陰で、取り残された人々もいる。独身者、特に中年男性の孤立。彼らは、まるで透明人間のように扱われ始めている。
電話が鳴った。
「北川さん、また取材依頼です」
岡崎真由が受話器を渡す。
「はい、福井新聞、北川です」
「北川君、藤原だ」
藤原健一からだった。
「実は、君に相談がある」
◆ 12月20日(月)午後6時
◇ 福井市内 居酒屋「越前」
北川は、藤原と二人で飲んでいた。
カウンターの隅、他の客から離れた席。藤原は、手帳を取り出した。
「退職後の計画を詰めているんだ。地元の農家を回って、どんな支援が必要か聞き取りをしている」
メモには、訪問予定の農家の名前と、必要とされる補助金の種類が並んでいる。まだ現職の身では正式な相談は受けられないが、情報収集だけはしているようだ。
「それで、今日の相談というのは?」
藤原は、スマートフォンでニュースサイトを開いた。
「最近、気になる動きがある」
画面には、政策関連のニュース記事が並んでいた。独身税の詳細検討、年金改革の議論。どれも既に発表された政策ばかりだ。
「これは表の話だ。でも裏では、もっと大きな動きがある」
藤原は声をひそめた。
「先日、就農予定地を案内していた時に、厚労省の同期が見に来てくれたろ?彼から聞いた話だが、東大と野村総研が共同で何か新しい理論を作っているらしい。人口動態と社会保障の関係を数理的に扱う何か」
「ああ、生活保護制度改革担当の」
「そうだ。だが、どうやら新しい理論の現場実装も視野に入っているらしい。まだ正式には動いていないが、2028年度から試験的に導入する話が出ているそうだ。高齢化率が全国平均で、3世代同居が多い福井が候補地の一つだとも」
藤原は複雑な表情を浮かべた。
「理論的には面白い試みだと思う。でも...」
日本酒をゆっくりと口に運ぶ。
「地元の人間として見ると、また東京の実験台かという気持ちもある。それに、どんなに精緻な理論でも、人の幸せは数式では表せない」
北川は画面を見つめた。断片的な情報だが、何かが動き始めているのは確かだ。
「なぜ、このことを俺に?」
「記者として追ってほしいんだ。真実を記録する義務があるだろう」
藤原の目は、真剣だった。
「俺は地域の実態を見ながら、できることをしていく。君は記者として、真実を伝えてくれ」
カウンターの向こうで、常連客たちが農作物の話で盛り上がっている。藤原はその様子に目をやった。
「あの人たちを見てると分かる。農協も青年団も、同窓会も寺の檀家も、全部が重なり合って支え合っている。その重層性こそが、本当の強さなんだ」
北川は頷いた。記者としての使命感が、胸に湧き上がる。
◆ 12月25日(土)午前10時
◇ 武生市 実家
北川は、実家の大掃除を手伝っていた。
母(72歳)が、仏壇の掃除をしながら話しかけてきた。
「誠一、あんたも3人目作らんの?」
突然の問いに、北川は手を止めた。
「皆、産んでるやろ。うちの隣の山田さんとこも、40過ぎて妊娠したって」
母の言葉に、悪意はない。ただ、素朴に孫が欲しいだけだ。しかし、その言葉の裏にある同調圧力を、北川は感じていた。
「みんなが産むから、自分も産む」
それは、自然な感情なのか、それとも作られた空気なのか。




