勇者の伝説
「パパ――目を開けて――パパぁ!」
幼い声が覚醒しかけた意識を無遠慮にかき回す中、マサキはゆっくりと目を開けた。
「パパ、よかった、よかったよわあああん!」
太陽の強い陽射しが視界を満たすと同時にタケルが胸に飛び込んできた。
「タケル……僕、は気を失って……アンリに……そうだ、アンリ、アンリは?」
「わかんない。ボクが気づいたら、ママはいなくなってて、それで、洞窟もなくなってて――」
「洞窟が、なくなった?」
マサキは自分が巨大なクレーターの真ん中にいることに気づいた。周りには半分溶けた燭台がいくつも転がっており、その向こうでは古龍と思しき巨体があおむけにノビているのが見えた。
「なん、だ、こりゃ……アンリがやったのか、それとも――」
マサキは胸元にいるタケルを見た。涙と鼻水でぐずぐずになった顔と、綺麗に抉られた大地とを見比べた。
――まさか、な。
「ねえ、パパ、ママは大丈夫かな……?」
「ああ、大丈夫さ。ママはパパなんかよりよっぽど丈夫だからな。きっと先に帰ったんだろう。さ、僕らも行こう。ほらいつまでも泣いてないで、勇者だろ?」
「――うん!」
マサキは気絶したローランを担いで立ち上がり、小さい勇者に手を差し伸べた。
幼い手の温もりを感じながら、マサキをかばって魔王に立ち向かったタケルを思い出した。
決して語られぬその伝説を、マサキは一人誇らしく思った。
*
瘴気と悪意に満ちた暗黒の城。人類の仇敵である魔王の根城――そこに一条の雷鳴が轟いた。呼応するように城門が開いた。
城内を熱心に掃除していた侍女が一斉に手を止め、深々と腰を折った。
「お帰りなさいませ、ナザエル様」
閃光の去ったその跡から、禍々しい鎧に身を包んだアンリが姿を現した。
居並ぶ侍女の中から、長と思しき女が前に進み出て、跪いた。
「お帰りなさいませ。予定よりもお早いお帰りでございますね――」
そう言って顔を上げた瞬間、侍女長は、あっと声を上げた。
「そ、そ、そのお姿、いかがなさいましたか!?」
あちこちが焼け焦げ、爛れ、ぶすぶすと燻るアンリの姿に侍女長が悲鳴をあげた。
「なんでもない」
「なんでもないことはございません! ああ……なんてこと、暗黒淵に映ゆる湖上の月が如き麗しき魔王様のお御髪が、お湯かける前のチキンラーメンのように成り果てて!」
「よい。気にするな」
「いけません。魔族の長ともあろう御方が、そのようなお姿で! ――お前たち、すぐに湯浴みの用意をなさい!」
「先に着替えてくる」
「え、あっ、そうですわね。でしたら私めがお召し替えのお手伝いを――」
「よい。ひとりでできる」
「え、さ、さようでございますか……」
侍女長を手で制しアンリは自室へと姿を消した。
――と思いきや、すぐさま扉が開け放たれた。
「じゃーん!」
「……じゃーん?」
真新しい紅の鎧に身を包んだ魔王が、諸手を広げて侍女の前に現れた。
「どうだこれは。よいだろう。よくないか?」
「え、ええ、よくお似合いでございますが……この後、どちらかへお出かけになるご予定がおありですか?」
「ううん、ない」
「え、ないのですか……?」
「あー、でもこれ血とかどばーって吐いた時に地味かな」
「血とかどばーっと吐く予定はおありなのですか!?」
「やっぱり白の方がいいかな。白に合う小物があったかな。あんまり着ないからな」
「あのあの、失礼ながら魔王様、そのお召し物はどういったご用向きで……?」
「うん? 勇者に倒されるとき用に決まっておろう」
「は?」
唖然とする侍女たちを尻目に、鎧の細部を検めながらアンリは首をかしげた。
「まあいい、来るまでに新調することにしよう。おい、今すぐに仕立屋を呼べ、一番ウデの良いやつをだぞ。それと軍部に伝えろ、勇者の進軍を食い止めろとな」
「はっ――まさか、ニンゲンめがまた懲りずに勇者を差し向けようとしておるのですか。今度こそ奴らを根絶やしにするのですね魔王様!」
「いや、足止めだけ。新しい服ができるまでね」
「魔王様」
「それと差し向ける魔物には全員に武具と金を持たせるように伝えろ。途中で困らないようにな! でもあんまたくさん持たせるなよ、あの子、途中でお菓子とか買っちゃうから!」
「あの、魔王様、あの」
「あ、そうだ。私が倒されたと同時にファンファーレがプァーッ! ってなって、花火がどーん! ってあがるようにできる?」
「魔王様?」
*
夕刻、終業を告げる鐘がなった。
マサキ・ナツルは、以前より少し狭くなった書斎で一人大きく伸びをした。未だに残る筋肉痛が、身体のあちこちで悲鳴をあげた。
顔をしかめながら、書斎の壁へ視線を移した。
抜き身の聖剣が一振り架けられていた。
その隣にオモチャのように短い剣が一振り架けられていた。
並べてみるとまるで親子のようだとマサキは思った。
子ども用の、オモチャの剣――しかし、それも紛れもなく聖剣だった。少なくともマサキにとっては、何よりも誇らしい聖剣だった。
タケルの勇者でっち上げ事件から一週間が過ぎた。
マサキは一粒種のタケルを王都に残し、単身魔王討伐のために出征した――一応、そういうことで丸く収まっている。タケルは王都で相変わらず勇者を目指している。影響があったといえば、マサキが仕事場を王都から移さざるを得なくなってしまったと、そのぐらいだ。
必要なものはローランと、事情を知る彼の部下が用意してくれる。
隠遁生活を余儀なくされてはいたが、本当の意味で勇者を引退できたともいえた。
「アンリはどうしてるだろうか」
キュクロプスの洞窟から姿を消したきり、アンリはめっきり姿を現さなくなった。
タケル宛の手紙もない。――魔王討伐の旅に出ているということになっているのだから、当然といえば当然だが。
――おとなしいとそれはそれで、さみしいものなんだよな。
そんなことを考えてるとき、呼び鈴がなった。二度、二度、三度と、間隔を置いて鳴らす――ローランか、その関係者だけが知る暗号だ。
「マサキ、俺だ」
ドア越しに野太い声が聞こえた。開けると、無骨な大男が立っていた。
「ああ、山賊おじさんか」
「誰が山賊おじさんだ。せっかくビッグニュースを持ってきてやったってのに」
「ビッグニュース……?」
「ああ、それも二つだ。ただし、悪いニュースと良いニュースがある、どっちから聞きたい?」
「まあ、悪いニュース、かな」
「悪いニュースはこれだ」
ローランはマサキの目の前に号外を一枚広げた。
そこには大きく「魔王軍、宣戦布告!」の文字が躍っていた。
「向こうが停戦協定を一方的に破棄してきやがった。全面戦争を仕掛けるつもりでいるらしい。活発な動きはまだないが、変異古龍種を見かけたという情報もあるし……マサキ? マサキ、おーい、マサキ? 聞いてる?」
「効いてる」
「精神的ダメージの話じゃなくて」
マサキは猛烈な立ちくらみに襲われていた。号外に踊る文字もそうだが、その一面を飾る、ノリノリの妻の姿がショックに拍車をかけた。
「まあショックだよな。わかる。けど安心しろ、まだ良いニュースが残ってる」
「いやもうだいぶお腹いっぱいだ。胸焼けがすごい」
「まあそう言うな、グッドでビッグなニュースは、こいつだ!」
ローランは胸元からもう一枚の号外を取り出した。
そこにはさらに大きな文字で「勇者タケル、出征!」と書かれていた。
「どぉーだ! あのタケルくんだ、でっち上げなんかじゃないぞ! 実を言うとな、俺が陛下へ直に推挙したんだ。あのキュクロプスの洞窟での彼の戦い――お前は気絶していたし、俺も意識がもうろうとしていたからよく覚えてはいないが、とにかく凄まじかった。俺が手も足も出なかった化け物を、一撃だ、一撃だぞ! やはりカエルの子はカエル、勇者の子は勇者だな! 陛下もいたくお喜びで――マサキ? あれ? マサキ? マサキ、白目? グッドニュースなのに白目? おい、おいって……おーい誰かお水もってきて! マサキが立ったまま気絶してるー! ……」
伝説は受け継がれ、次代の勇者が新たな旅立ちを迎える。
家族団らんの日は、まだ遠い。