序 宵闇に咲かぬ花
はじめまして。
この作品を見つけてくださり、ありがとうございます。
和風×異能×恋愛をテーマに、静かな和風幻想譚を目指して書いております。
虐げられた少女と、”黒焔”を纏う青年の物語を、少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。
九条家の朝は早い。
まだ空に夜の名残が滲む頃には、使用人たちはすでに動き始めている。
そんな屋敷の裏庭で、澪は一人、竹箒を動かしていた。
しゃ、しゃ、と乾いた音が静かな庭に響く。
春を迎えたばかりの庭には、淡い桜が散っている。
本来なら華やかで美しいはずの景色も、夜明け前の薄暗さの中ではどこか冷たく見えた。
吐いた息が白い。
澪は赤くなった指先をそっと握り込んだ。
冷たい水で廊下を拭き、庭石を洗い、誰より早く起きて仕事をすることは、もう当たり前になっていた。
九条家の嫡女。
そう呼ばれる立場でありながら、澪の扱いは侍女と大して変わらない。
いや、侍女たちの方がまだましなのかもしれなかった。
「……終わらせないと」
小さく呟き、再び箒を動かす。
風もないのに、足元に散っていた桜がふわりと舞い上がった。
淡い花弁が、澪の周囲を包むように揺れる。
まるで、何かが守ろうとするみたいに。
けれど、澪は気づかない。
ただ静かに、散った花弁を見つめるだけだった。
その時。
「澪様、まだ終わっていないのですか?」
冷えた声が背後から落ちた。
振り返ると、侍女の一人が呆れたように立っている。
「申し訳あります。すぐに終わらせます。」
澪は慌てて頭を下げた。
「本日は華鈴様のお客様がいらっしゃるのです。
見苦しい真似はなさらないでくださいね」
「……はい」
侍女はそれ以上何も言わず、踵を返す。
澪は小さく息を吐いた。
謝ることには慣れている。
そうしていれば、少なくとも面倒は増えないから。
空を見上げる。
夜と朝の境界が曖昧な宵闇色の空。
そこに浮かぶ月だけが、静かに澪を見下ろしていた。
ーー自分には、何もない。
愛されることも。
のぞまれることも。
誰かに必要とされることも。
そう思っていた。
だから、この時の澪はまだ知らない。
己の中に眠る力も。
やがて運命を共にする存在も。
何一つ。
◇
皇都の外れ。
黒い瘴気が夜の街を覆っていた。
「禍が増えています!」
「駄目です、抑えきれません!」
術師たちの悲鳴が飛び交う。
異形の影が地を這い、建物の壁を歪ませる。
瘴気に呑まれた男が苦しげに呻いた。
「東雲様を……!」
誰かが叫んだ、その瞬間だった。
轟、と。
黒い炎が夜を裂いた。
一瞬で空気が変わる。
影が焼ける。
禍が断末魔もなく崩れ落ちた。
黒焔。
禍を覆う、東雲家の炎。
その中心に立つ青年を見て、術師たちは息を呑む。
長い黒髪。
鋭い横顔。
そして、紫紺の瞳。
「東雲朔夜……」
誰かが畏れるように名を呼んだ。
朔夜は答えない。
ただ静かに刀を払う。
黒焔が残滓を焼き尽くし、瘴気が霧散していく。
圧倒的だった。
けれど術師たちは近づけない。
「黒蝕が移るぞ」
「目を合わせるな」
「東雲家の黒焔は危険だ」
囁き声が広がる。
朔夜はそれを聞いても、表情一つ変えなかった。
慣れている。
恐れられることにも。
距離を置かれることにも。
すべて。
討伐を終えた後、朔夜は一人、人気のない石橋の上に立った。
夜風が黒髪を揺らす。
掌に残る黒焔が、不安定に揺れた。
まるで感情を持つみたいに。
「……煩わしい」
低く呟く。
その声は夜の闇へ溶けていった。
誰もいない。
誰も触れない。
触れさせない。
それが東雲朔夜だった。
ふと、朔夜が空を見上げる。
宵闇色の空。
そこには、同じ月が浮かんでいた。
ーーこの時、まだ二人は出会っていなかった。
けれど、運命は静かに交わり始めていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
プロローグでは、澪と朔夜、それぞれの”孤独”を描きました。
次話から第一章が始まります。
少しずつ交わっていく二人の物語を、見守っていただけたら嬉しいです。
もし少しでも続きが気になると思っていただけましたら、
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