第六十五話 竜語の学習
『それが逆鱗、ですか?』
『そうじゃ。この顎の下にあるひとつだけ逆さに生えた鱗じゃ。どんなに温厚な竜でも烈火のごとく怒りを爆発させるでな。死にたくなければ絶対に逆鱗に触れてはいかん。もちろん我も逆鱗に触れた者を容赦はできぬぞ』
少女と黒竜が竜語で会話している。
しばらく前からセラはエレイースに竜語を習っていて、ほんの数週間の間に日常的な会話は流暢にこなせるようになっていた。竜の姿のエレイースをセラはいくらか見上げて話しているが、少し距離を置けば首が疲れるほどではない。
エレイースが竜語で話した言葉をセラはそのまま理解できるため、聞き取るだけなら習う必要はないのだが、しゃべれるようになるにはエレイースの言葉を聞いて覚える必要があった。ただそれも一度聞けば細かい発声までそっくりそのまま覚えてしまうため、端から見ていると言語を習っているというより、単に知らない知識を教えてもらっているのに近い気がする。
どんどん言葉を覚えられるのでセラは楽しいし、教える側のエレイースも楽しい。ついでにそれを見ているルドルフも楽しかった。
竜語を習うというのはルドルフの思い付きで、単にセラの能力を試したかっただけだ。
魔術の修業とはまったく関係がないが、どこまで語学堪能になれるのか、という興味。ついでにもし今後竜に出会った時にきちんと話せれば助かることがあるかもしれない、という備え。まあ竜と会うことなど人間の短い生涯では本来ありはしないのだが。
竜というのは放っておけばずっと眠っているほど退屈に強い耐性を持った生き物だが、別に退屈が好きなわけではない。覚えていないほどの時間を一人で過ごしていたエレイースはルドルフの思い付きを歓迎し、今ではすっかりセラとの会話を楽しみにしていた。最初は恐る恐るだったセラも今ではエレイースと親しげに接している。
『この子はいつごろ生まれそうですか?』
『わからん。しかし前よりもずっと元気になっているのを感じる。この調子であれば十年もかからないかもしれん』
セラと話している間もエレイースは卵の側を離れない。
卵の様子はたしかに変化していて、以前は灰色に薄汚れた楕円形の単なる石というかんじだったのが、今では白くて透明感のある光を薄っすらとまとっており、神々しささえ感じる。生命力に満ちているという風だ。かつては長い間魔力の乏しい環境に置かれて死にかけていたのかもしれない。あるいは休眠していたか。
『この子が生まれたら是非、友になってやってほしい。竜の言葉を話せる人間は貴重じゃ』
『はい! よろこんで』
最初に会った時の人間嫌いの様子もどこへやらである。
『そういえば、この子の父竜はどこにいるのだ?』
話が卵に触れたので、前から気になっていたことを尋ねてみた。ルドルフも竜語はまあまあ話せる。
『さあ。この子を授かるのに契ったきりじゃな。竜の谷で待っていればいつかはやってくるかもしれんが、今どこにいるかはわからんの』
孤独を好む竜同士の雌雄がどこでお相手を見つけるのかというと、はるか海を越えて竜の谷という場所に向かうらしい。それが具体的にどこにあるのかはもちろん教えてくれないが、竜であれば誰に教えられなくても本能で場所はわかるそうだ。
『この子の父はサモアードという名の凛々しい緑竜でな……我が胸を射抜いたあの強いまなざしが今も忘れられぬわ……』
エレイースはうっとりと目を細めて昔を思い出しているようだ。だがそれからすこし物憂げな声になった。
『じゃが我はもう会えぬじゃろうな。竜の谷には行けぬ。アンデッドとなったこの身では他の竜に合わせる顔はない』
『……それは……なにやらすまぬな』
互いに落としどころを探った結果とはいえ、竜の誇りを汚してしまったことをルドルフは詫びた。
『よいのじゃ、よいのじゃ。この子さえ無事に生まれれば、我に心残りはない。そなたには感謝こそすれ、謝ってもらうことなど何ひとつないわ』
『私はアンデッドでもエレイースさんのこと好きですよ』
セラが笑顔を作ってエレイースに言った。
『うれしいことを言ってくれる。セラは本当にいい子じゃ』
それからエレイースは竜に伝わる昔話などをしてくれた。セラの語彙を増やすためである。人間の姫と竜の悲恋を扱った物語はセラにも興味深かったようだ。色恋沙汰の描写で意外に生々しくも際どい表現があって、ルドルフはセラに聞かせていいものかとドキッとしたが、セラはルドルフの心配などおかまいなしに黙って聞いていた。
『よい無聊の慰めになった。また会いに来ておくれ』
『さようなら。また近いうちに来ますね!』
夕方が近づく頃ルドルフとセラはエレイースと別れて寺院に戻った。
寺院に戻ってからセラはルドルフにひとつ質問をした。
「実は今日エレイースさんが話してくれた物語の中でよく意味のわからない言葉があって……」
心配していた際どい内容のところだった。聞くだけで言葉がわかるとはいえ、もともと知らない概念などは理解できないようだ。
「すまんがわからんな。俺も竜語はそれほど堪能というわけではないのだ」
そういう方面の説明はアリアナに任せたい、ということでルドルフは知らぬふりをした。
まだまだ語彙や言い回しを増やす余地はあるものの、とにもかくにもセラは竜語をすっかり習得した。ルドルフの実験は大成功を収めたといえる。常識外れの驚異的な能力だが、どんな能力を持っていようとセラはセラなのだからと、ルドルフはもうその出自を気にするのはやめていた。よく考えればおかしな能力を持つ知り合いならいくらでもいる。
ところでこの調子でほかの魔物の言葉も話せたりするのだろうか、とルドルフは考え巨人語でセラに話しかけてみたが、セラはまったく理解できなかった。竜語が特別なのか、あるいはネイティブの話す言葉でないとだめなのかもしれない。
ダンジョンの魔物は言葉を話さないので、セラは今まで魔物が言葉を話すということ自体を知らなかった。ダンジョンの外から来て住み着いているルドルフやエレイースは例外的な存在である。
吠えたりわめいたり、といったことはダンジョンの魔物でもあるが、それは言葉としての体をなしてはいない。単に狩りの対象とする冒険者にとってはあまり意識されないが、ダンジョンが不思議の力で生み出す作り物の魔物なのだ。それは魔術で作られるホムンクルスという人造人間に近い存在だとルドルフは感じている。
作り物ではない本来の魔物の中には言語を持つだけでなく、人間のように社会を築いているものも当たり前のようにいる。
この大陸では七割方の土地で魔物は駆逐されている。ゆえにこのグラナフォートの周辺でその本来の魔物を見ることはまずないが、人の手の及ばぬ死霊国の西側には、今も魔物の領域が広がっているはずだ。
これは皮肉なことだがリッチキングという強大な魔物がいるために、西の魔物たちは人間のいる側に足を踏み入れることができない。すべての侵入者を拒むリッチキングの領地はかの極北の魔王の軍勢をも阻み、結果的に人間たちの王国が持ちこたえる大きな助けになったことすらある。
ついでにそもそもの人間と魔物の関係の話をするならば、人間は善神に属する存在で、魔物は悪神に属する存在といわれている。そして常に争う宿命である。ルドルフの過去の記憶でもそれは正しい。今の彼自身は元人間のアンデッドということで、人間と魔物の中間にいるような存在になってしまっているが。
『善神も悪神も我の知ったことではないがの。そもほかの有象無象とともに魔物とひとくくりにされることすら心外というもの』
ルドルフがたまたまそんな話をした折、エレイースはつまらぬことのように言った。たしかに魔物の中でも竜はまた別格の、孤高の存在と言うべきかもしれない。
『ことに悪神の威光を笠に着て勘違いしている魔王などという輩は好かぬ。最近はとんと声をかけられることもないがの』
時に魔物の中から魔王という存在が現れることがある。魔王は多くの種類の魔物たちを一様に統率する力を持ち、配下に強力な魔物を集めようとするので、当然のように竜にも声をかけるのだろう。最近その機会がないのは、おそらくこの世界にずっと魔王が生まれていないせいだ。
アリアナから聞いた話では、魔王は割とちょくちょく生まれるものらしい。が、極北の魔王という未曽有の魔王が倒されてからは、長く空白期間が続いているそうだ。
ふとルドルフはエレイースの姿を見て、かつて自分たちが倒したその魔王のことを思い出す。
圧倒的な力で世界の五大陸を蹂躙し、人間の世界を終焉に至らしめんとした極北の魔王。
エルフからも間違いなく史上最悪の存在とされるその魔王は白銀の竜。前例にない竜の姿をした魔王であった。




