第三十一話 高速詠唱
夕食時になって帰ってきたアリアナは、セラがもう中級のエナジーショットを習得したと聞いて「へぇー、すごいじゃない」と口にはしたが、特に驚いた様子はなかった。
これは単に魔術の習得の大変さがわかっていないだけである。その証拠に「一ヶ月ってなんだったの?」と笑っている。
が、その異常さがよくわかっているルドルフはアリアナに尋ねた。
「これは神子の異能なのか?」
アリアナは何を聞かれているのかわからないといった顔をした。
ルドルフはセラのそれを何らかの特殊な能力だと思った。そして神子はまさに『異能』と呼ばれる特別な力を神から授かる。よってそれらを結び付けてルドルフはセラの能力がその異能ではないかと思ったのである。
しかしセラは対外的には神子ということにしてあるが、まだ神子になるための試練を受けてはいないのだ。なのでアリアナに言わせるとセラが神子の異能を身につけているということはあり得ない。
アリアナのよくわからないという顔を見て、ルドルフもまたよくわからないという顔になった。
「魔術のことは詳しくないけど、そこまでおかしなことなの? セラちゃんは実際はまだ神子ではないのだけど……異能だとしたら技を盗む類の異能に似ている。見ただけで技を覚えてしまうという。武術ではよくあるけど、魔術だと初耳ね」
それからアリアナはセラのことをじっと見た。真剣な顔で見つめられてセラは少し緊張を見せる。
「うーん、やっぱり神子ではないわね。だから異能でもないはずよ」
「見てわかるものなのか?」
「まあね。何がとは言えないけど、神子の必ず持つ特徴がセラちゃんにはない」
「となると、単純に才能なのか? だとしたら間違いなく天才だな……」
セラは天才と言われて、居心地悪そうにもじもじと照れている。しかし言った方のルドルフはまだ少し腑に落ちない雰囲気をかもしだしていた。
「まあ深刻になることもないじゃない? 悪いことじゃなさそうだし」
「深刻になってるわけじゃないが、あまりに常識はずれなのでな。ただただ驚いているだけだ」
異能ではない、と断言したアリアナもルドルフの様子を見て少し考える顔となった。
それからややあって、アリアナは別のことを言った。
「第九層は私一人で大丈夫そうだから、その間はまだ何かほかの魔術を教えてあげたら。セラちゃんに負けないくらいに急ぐけど、こっちはあと七日くらいはかかるかしらね」
その言葉を聞いたセラはうれしそうな笑顔を見せる。それで明日以降もルドルフはこの弟子に魔術を教えることとなった。
翌朝、セラは珍しくちょっと得意になっていた。これほど得意げなセラさんは見たことがない。意気揚々とした気持ちがその表情から隠しきれずにじみ出ている。今日はどのような魔術を教えてもらえるのか楽しみで仕方がないといった様子でもある。
ひとつ思案したルドルフは、思い切ってセラにクリエイトウォーターの魔術を教えてみることにした。いつも毎日の飲み水を確保するのにも使っている魔術だ。
今まで使っていたエナジーショットやシールドはすべて無属性の魔術である。それに対してクリエイトウォーターは水属性の魔術になる。
「属性とは何か覚えているか?」
ルドルフは弟子に質問して魔術への理解度を試した。探索の合間を見てセラには座学で魔術の基礎的な知識を教えている。もともとセラはそうした魔術の知識に関してはほとんど無知に近かったが、ルドルフと過ごしたこの短い間に多くの基本を急速に身につけていた。
セラはすらすらと教えられた通りのことを答える。
魔術にはおおまかに同じ系統の魔術をまとめた属性というくくりがあり、基礎の基礎となる無属性のほかに、地水火風の基本四属性、雷氷光闇の上位四属性が一般的なものである。そのほかにいくつかの希少属性と呼ばれるものがあるが、希少属性を扱える魔術師は極めて少ない。
属性が異なると呪文の言葉はまったくと言っていいほど別物になる。たとえるならば属性ごとに異なる種族の言語があるようなものだ。実際、新たな属性に手を出すには言語習得に等しい時間と労力を要する。発音や発声まで完璧にしなくてはならないため、年単位の時間がかかることも珍しくない。ゆえに魔術師は自分が習得する属性を慎重に選ぶ。
魔術師の誰もが無属性からスタートするのは、その点で無属性が一番平易だからである。そして上位属性が上位と呼ばれるゆえんは習得の難しさによる。別に強力な効果を持つからというわけではない。
続いてセラがそれぞれの属性の説明まで始めそうになったところで、ルドルフは「よろしい」とその説明を切った。
ここで重要なのは、使ったことのない属性の魔術を習得するのはめちゃくちゃ大変、ということである。
思い切って教えてみることにした、というのはつまりそういうことで、これはセラは知らない属性の魔術も見よう見まね、聞こう聞きまねで習得できるのか? というちょっとした実験だった。もしそれが可能ならば、魔術師にとってひとつのトロフィーである九属性魔術師の称号も簡単に得られるということではないか!
「よし、では今から水属性の魔術を使う。クリエイトウォーターの魔術だ。よく見ておくように」
「はい!」
セラが期待のまなざしで見守る中、ルドルフはいつものようにクリエイトウォーターの魔術を使った。ルドルフのかざした手から水が生み出され、その目の前に置かれたコップの中に注がれていく。コップいっぱいに水が貯まったところで水の生成は止まった。
「では、真似てやってみろ」
しかしセラは先ほどの勢いとは裏腹に困惑した顔を見せた。
「えっと……あれ?」
どうやら呪文をうまく再現できないようだ。すっかりできると思っていたことが、実際にはできないので狼狽している。
「どうすればいいのか、わからないです……」
ルドルフがもう一度クリエイトウォーターの魔術を使ってみてもうまくいかなかったので、セラはわかりやすく意気消沈してしまった。昨日、ルドルフが中級のエナジーショットの魔術を使ってくれた時のように、自分がそれを理解できた、という感覚がわいてこないのだという。
うーん、使ったことがない属性の魔術はさすがに難しいか。ルドルフがそんな感想を抱いた、しかし瞬間、頭の内側をひとつの閃きが打った。
「ならばこれはどうだ?」
ルドルフはまたクリエイトウォーターの魔術を使う。だが今度はいつもしているのと同じようではなく、基本の呪文に忠実に、時間をかけて丁寧に唱えた。いったん空にしたコップが再び水でいっぱいになる。
「あ、なんだか……」
セラはとたんに腑に落ちた顔となった。そして聞いた通りに呪文を唱えると、見事にクリエイトウォーターの魔術が発動した。セラのかざした手から生み出された水がコップに注がれる。すでにいっぱいだった水が大きくあふれた。
「やった……! できた!」
セラが自分でも驚いたように目を見開いている。コップの水と同じに全身から感動があふれていた。
「なるほど、どうやら高速詠唱したものはダメなようだな」
この実験からわかったことはふたつあった。ひとつはセラは属性に関係なく見た魔術を習得できるということ。それともうひとつは呪文の節を省略したりして短縮した詠唱からは、うまく魔術を習得できないということだ。
最初にルドルフが唱えたクリエイトウォーターの呪文は、いつもやるような高速詠唱のものだった。
魔術の呪文は覚えたらそれで終わりというものではなく、そこからより威力を高めたり、より素早く発動できるようにしたり、より少ない魔力で発動できるようにしたり、と魔術ごとに色々と磨いて熟練度を高めていく余地がある。
高速詠唱はそのうち素早く魔術を発動させるための技術で、凝縮、軽量化、最適化、分割、抽象化、階層化、再定義、短節化、類型転用など、もろもろの細かい手管を駆使して、一秒でも、コンマ一秒でも早く詠唱を終わらせようとするものだ。それにより呪文は端折ったような形になる。
やりすぎると普通に詠唱するのに比べて大きく効果が落ちることもあるが、それでも高速に魔術を発動できる利便性は計り知れない。なので多くの魔術師は高速詠唱を当たり前のように使うのだが……セラはどうやらそういったアレンジした詠唱からは呪文の内容をうまくトレースできないらしい。
真似できる時と真似できない時との違い。ルドルフからそう説明されてセラも納得した。
「高速詠唱……」
彼女も高速詠唱についてはルドルフの座学で知っている。しかし今まで実際にそれがどんなものかを具体的に意識してはいなかったようだ。師匠が自分が唱えるより短い呪文であっさり魔術を使うのはそういうことなのだと、改めて得心のいった顔をした。
一方のルドルフは、思わぬセラの能力の制約に、少し残念なような、少しほっとしたような気持ちになった。ルドルフは普段は常に高速詠唱を使っているので、セラがその魔術を不意に習得することもなかったのだろう。今までこの能力に気がつかなかったのはそのためだ。
「師匠が中級のエナジーショットを使うところを見せてくれますか? 私にお手本として見せてくれたようなものではなく、師匠がいつも通りに使うやり方で」
真面目な顔でルドルフを見上げてセラが言った。ルドルフは、何かに気がついたな、と感じつつ、言われたままに中級のエナジーショットを放つ。
ルドルフの使う中級のエナジーショットの詠唱は極めて速い。たった一節の呪文で発動して目標に飛んでいく。簡単に唱えているように見えるが、その一節の中に凄まじい経験と技術が詰め込まれている。磨きに磨いた高速詠唱のそれである。それはセラが一発撃つ間に十発、いや二十発は撃てそうな詠唱速度だった。
セラはルドルフの魔術を見た後、少し考えてから言った。
「新しい魔術をたくさん覚えるよりも、今覚えている魔術を高速詠唱できるようになった方がいいですよね?」
なるほどそう来たか、とルドルフは弟子が短い間にまた成長しつつあることに内心喜びを覚えた。魔術を瞬時に習得するという希少な才能を持っていながら、それに溺れる様子がない。
そう、呪文を覚えて魔術を習得するというのは、魔術を使いこなす第一歩にしかすぎないのだ。
おかしな方向に調子に乗りそうなら、少し手綱を取って軌道修正しなければならないかとも考えていたが、それはまったくの杞憂だった。
「悪くない着眼点だ。多くの魔術を下手に使う魔術師は下、少しの魔術を上手に使う魔術師が上、だからな。ではこれから少しずつ高速詠唱のための技術を色々と教えてやろう」
ルドルフは威厳を込めたポーカーフェイスでそう言ったつもりだったが、その目には緑の炎が嬉しそうにチラチラと揺れている。骸骨のくせに意外と表情のわかりやすい男であった。




