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 緑葉樹の森の中に、たった一本の桜の木があった。

 険しい山中であり、村の民が時折、獣を狩ったり、薪や木の実を採りに来るくらいで、普段は人気もない。村からはわずかに一本の林道が細く続いており、この林道をたどって一刻ほども山を上り続けると、ようやく峠に差しかかり、視界が開ける。

 そして眼下に、緑葉樹の海の中で、淡紅色の桜が鮮やかに現れるのである。

 峠を下った先は、わずかに森が開け、その中央にたった一本の桜が枝を広げており、緑色の情景に溶け込みながら、静かに、しかし誰の目も惹き付けて離さないほどの存在感を示している。大樹といっていい。幹は大人でも抱えられないほどに太く、根元から見上げれば、枝は広く空に張り出し、淡紅色の花が可憐に、しかし鮮やかに、視界一杯に咲き誇っている。

 この一本の桜は、いつからそこにあったのか、村の長老でさえも知らない。村の長老が生まれた時から既に大樹であったという老木である。

 老桜がこの山に根を下ろしたときには、世は太平であったかもしれない。しかし、今、時代は戦国乱世。将軍家の権威は凋落し、下剋上の嵐が吹き荒れ、世は乱れ切っている。この山深い村を山賊がしばしば襲うようになったのも、その余波といっていい。

 しかしながら、戦火も剣槍の響きも、この一本の桜には届かない。あまりに険しい山が殺伐とした時代の空気を拒み、一種の聖域を創り出しているかのようであった。

 そして、三人の少年少女にとっては、春にはこの桜の木の下で遊ぶのが、何よりも楽しみであった。




「いい天気だなあ、そう


 緑の中の一本の桜の木の根元で、俊介しゅんすけは仰向けに手足を投げ出していた。桜の花の間から差しこむ木漏れ日が暖かい。息は、まだ弾んでいる。峠を一気に駆け上がってきたのだから、当然だ。


「そうだねえ、しゅん。小春日和って、こういうのをいうんだろうねえ」


 と、隣で同じように仰向けになりながら話す蒼一郎そういちろうも、まだ息が整わないらしい。

 蒼一郎は、俊介の幼馴染で、年齢も同じ十七歳になる。竹馬の友といっていい。幼い頃から何をするのも一緒で、春、この一本の桜に会いに来るのも、必ず一緒だった。

 もう一人の少女と、いつも三人で。

 くすくすと、蒼一郎が笑いだした。


「さつき、怒ってるだろうねえ」


 と、もう一人の、同じ年齢の幼馴染の名をいった。


「ああ。考えてみれば、弁当全部、持たせっ放しだからなあ」


 俊介も、つい苦笑いしてしまう。

 いつもどおり、三人で林道を歩いていたのだが、途中、俊介と蒼一郎で競争することになり、さつきを置いて来てしまったのである。


「まあ、悪いのは、全部、蒼だからねえ」

「何をいうか。お前が嘘をつくからだろうが」

「嘘じゃないよ。実際、僕のほうが足が速かったじゃないか」

「馬鹿野郎、俺のほうが速かっただろうが」


 ひとしきり二人でいい合いをしていたが、馬鹿馬鹿しくなってしまい、しまいには笑い出してしまった。

 さあっと冷たい風が吹き、淡紅色の桜の花びらが舞いあがった。

 この桜の木の下で見る木漏れ日と、この淡い桜吹雪が、俊介も蒼一郎も大好きだった。

 そして、さつきも。


「なあ、蒼」


 と、俊介は声をかけた。


「なんだい、俊」


 と、どこかのんびりとした声で蒼一郎が答える。


「俺は、さつきが好きだ」

「………そうかあ」


 蒼一郎の答えが、一瞬遅れた。


「お前も、さつきのことが好きなんだろう?」

「大好きだよ」


 と、蒼一郎はにっこりと笑った。


「ち。はっきりといいやがる」


 頭をかきながら、俊介は身体を起こした。あぐらをかきながら、仰向けのままの蒼一郎を見やって、ため息をつく。

 蒼一郎の笑顔は、どこか人を喰ったようなところがあった。しかし爽やかで、嫌味がない。時折、俊介は蒼一郎と喧嘩する。喧嘩といっても大抵は俊介の短気が原因なのであるが、しかし、いつも最後はこの笑顔で怒気をそがれてしまう。

 蒼一郎は良い男だ。

 俊介は、八分の誇らしさと二分の悔しさとともにそう思う。多少口の悪いところはあるが、穏やかで情の細やかな男である。そして、十五歳の頃から俊介とともに戦場に出るようになったが、戦場の蒼一郎は、勇敢で、しかし誰よりも冷静で、判断は常に的確だった。猪突しがちな俊介を抑え、背中をいつも守ってくれたのが、蒼一郎だった。戦場から生きて帰って来ているのは、蒼一郎がいたからだ。それは俊介にとって疑いようのない事実だった。

 蒼一郎は、将来は村の長となるであろうが、それさえ蒼一郎には役不足に違いない。乱世である。機会さえあれば、侍大将にもなれる男だった。

 そして、さつきもまた、蒼一郎に想いを寄せているのだと思う。俊介は、さつきとは喧嘩ばかりしているような気がするが、蒼一郎と話すさつきは、いつも楽しそうに、明るく笑っている。さつきが蒼一郎に惚れるのも当然だと思いつつ、それに心の痛みを覚えるようになったのは、いつの頃からだっただろうか。


「しかし俺は、このままお前に譲る気はない」


 と、俊介はいった。


「さつきが見ているのはお前かもしれんが、いつか振り向かせて、俺の嫁にする」

「はあ?」


 と、蒼一郎も身体を起こして、俊介に視線を移した。まじまじと、信じられないものを見るような目である。


「な、なんだ?」


 と、俊介も蒼一郎を見返した。


「俊、お前、ホントに馬鹿だねえ」

「何だと、馬鹿とは聞き捨てならんぞ!」

「いやいやいや」


 と、蒼一郎はぽんぽんっと俊介の肩を叩いた。


「まあ、それならそれでいいよ。僕だって、負けを認める気はないからね」

「それならそれで、とはどういう意味だ。馬鹿にするといくら蒼でも許さんぞ!!」


 俊介が蒼一郎に詰め寄った、そのとき。


「こらぁーーーっ!!!」


 と、元気の良い怒声が降ってきた。


「山の中に、かよわい女の子一人残して行くとは、どういうことだぁっ!!!」


 峠の上で、小柄な少女が仁王立ちでこちらに指をつきつけ、見下ろしていた。


「しかも、荷物全部私に持たせるなんて、ひどいじゃない!」


 幼馴染のさつきである。少女の足元には、三人分のおにぎりを包んだ大きな風呂敷と水筒が置かれている。


「大喰らいのあんた達がいるから、おにぎりも水筒も、重いんだからね!!」

「かよわいって、お前」


 と、俊介は声を上げる。


「薙刀持たせたら、大抵の村の男はさつきに敵わないじゃないか」

「そういう問題じゃないでしょ!!」


 さつきは怒りながら、両手で風呂敷包みと水筒を抱えて、峠道を駆け下りてくる。


「それが男のすることか、っていってるんでしょ!」


 そういうさつきは、一人で重い荷物を抱えて峠道を上ってきたにしては、息一つ乱しておらず、足取りも軽やかである。事実、さつきは幼い頃から男と混じって武術の鍛錬もしており、その腕前は男顔負けである。それは、身のこなしの軽やかさからも察せされた。


「さすがだねえ、さつき。余裕そうだよね」


 と、蒼一郎が冷静に、さつきの火に油を注ぐ。


「俊なら分かるけど、蒼、あんたまでいうか!」

「ちょっと待て。俺なら分かるとはどういう意味だ!」

「言葉通りの意味よ!」


 と、さつきは答えを叩き返す。

「もう怒った。このおにぎり、あんた達に分けてあげないからね!」

「それこそちょっと待て!」


と、俊介は抗議する。


「それは横暴だ。俺もにぎったんだ。お前が一人占めするのは筋が通らないだろう」

「私だってにぎったよ。でもここに来るまで、あんたはほとんど風呂敷も水筒も持ってないでしょうが!」

「そ、それはそうだが………」


 事実なので、俊介は反論できない。


「そのお米、僕の家のものなんだけどなあ」


 と、蒼一郎が声を上げるが、さつきの権幕に、既に腰が引けている。


「それがどうしたの。前は私の家のお米だったでしょうが!」

「分かった」


 ぽんっと蒼一郎は手を合わせた。


「僕が悪かった。このとおり。だからおにぎり分けて」

「あ、この野郎。抜け駆けしやがった」


 俊介は蒼一郎を睨みつけるが。


「よし、蒼は素直だね」


 と、さつきは満足そうに頷き、視線を転じた。


「で、俊は?」

「む」

「なあ、俊」


 と、のんびり声をかけるのは蒼一郎である。


「分が悪いよ。素直に謝れば?」

「ち。いまひとつ釈然としないが、認めよう。申し訳ない」


 舌打ちしつつ、俊介は軽く頭を下げた。


「あははは。俊はかわいくないなあ。まあ、仕方ないか。許してあげよう」


 と、さつきは腰に手を当てて笑った。さつきの笑顔は明るく華やかで、誰よりも美しい。俊介はそう思う。

 実のところ、さつきは、とりたてて美人というわけでもない。顔立ちはむしろ平凡といっていい。しかし、元気の良い率直な言動と明るい表情は、彼女の印象を光彩に満ち溢れたものにする。さつきを美しく思うとすれば、それは、彼女のひととなりによるものであろう。


「さて。じゃあどいて、どいて」


 と、さつきは強引に二人を押しのける。


「わわ、ちょっと待ってくれないかな」

「おいおい、何をするんだ、この馬鹿」


 蒼一郎と俊介が抗議するが、さつきはどこ吹く風で、二人の間に座り込む。


「いいでしょ、ここから見る景色が一番いいんだからさ。あんた達は先に着いてもう堪能したでしょ」


 さつきは笑い飛ばし、その場で手足を投げ出して寝転がった。


「わあ。やっぱり綺麗だねえ。来た甲斐があったなあ」


 さつきは目を細めて天を見上げた。視線の先は桜が満開で、その頬を、木漏れ日が淡く照らしている。


「また、来年も来ようね」


 さり気ないさつきの言葉の中に、僅かに影が差すのを、俊介は気がついた。

 その影は、恐怖と言い換えてもよい。

 乱世である。特に俊介と蒼一郎は、領主の命令や山賊の襲撃のため、しばしば戦場に立たざるをえない。この緑の中の一本の桜を今年三人揃って見られたことは、来年を保証するものでは決してない。

 幼い頃から、三人はいつも一緒だった。三人が三人でいられなくなる。それは、三人にとって恐怖以外の何物でもない。口には出さないが、俊介と蒼一郎が戦場に出て以来、さつきがそれを一番恐れていることは、俊介にもよく分かっていた。

 しかし。


「そうだねえ」


 と、むしろ間延びした言葉で答えたのは、蒼一郎である。まるで、さつきの言葉の重さに気づいていないかのような、まったくいつもどおりの、のんびりとした口調である。


「こんなに綺麗なんだから、来ないともったいないよねえ」


 蒼一郎が気づいていないはずはない。俊介は心の中で否定した。さつきの恐怖は、俊介にとっても蒼一郎にとっても、等しく共有しているはずだった。

 さつきの気持ちを知りつつ、知らぬ顔でさり気なく答え、安心させてやる。それが、蒼一郎という男だった。


「いうまでもない。来るに決まってるさ」


 俊介はいった。さり気なさを装ったつもりだが、少し力が入ってしまったかもしれない。やはり、蒼一郎にはかなわない。そう思ってしまう。


「うん。そうだよね」


 と、嬉しそうに笑ったのは、さつきである。

 やはりさつきには笑顔がよく似合う。元気の良さと明るさがさつきであり、笑顔を翳らせてしまう姿は見たくなかった。

 そのためにも、今日のような平穏な日が一日でも長く続けばよい。俊介は心からそう思った。


ありがとうございます。

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