【前編】
「うわぁ……どこ、ここ……?」
八歳のエリスは、王都の賑やかな大通りからはずれた裏通りで、完全に立ち往生していた。
賑やかな市に夢中になるあまり、親の手を離れて迷子になってしまったのだ。
「まあいっか! この道をまっすぐ行けば、きっと広場に出るよね!」
泣き出すどころか、ガッツポーズを決めてズンズンと見知らぬ路地を進んでいく。そんなエリスの耳に、突如として激しい足音が飛び込んできた。
「ハァ……ハァ……っ! 見つけた……っ!」
「へ?」
曲がり角から飛び出してきたのは、肩で息をする一人の美しい青年だった。
父と同じ軍服を纏い、輝くような黄金の髪に、深く澄んだ紺碧の瞳。息を乱し、まるでこの広い王都の裏通りを何十箇所も片端から探し回ってきたかのように、その全身は汗に濡れている。
「だれ……?」
「……よかった。無事だ……っ」
青年は膝を折り、エリスとしっかりと目線を合わせると、震える手で彼女の小さな肩を抱きしめた。
安堵のあまり掠れた声で呟く彼の胸からは、ドクドクと激しい鼓動が伝わってくる。
その包み込むような温もりに、エリスの幼い胸はドキンと大きく跳ね上がった。
(なんてかっこいい人……!)
それが、エリスの初恋の瞬間だった。
その後、無事に家まで送り届けてくれた青年にお礼を言うと、彼は「王都では馬車が暴走することもあるから、左右を確認してね」と何度も言うと、名乗ることもなく、慌ただしく去っていったのだった。
◇
「パパ! 私、今日すごいの! 裏通りで迷子になったんだけど、すっごく格好いい人に助けてもらったの!」
夕方、帰宅した父親にエリスが興奮気味にそう告げると、父親は目を見張った。
「なんだって? 黄金の髪に、紺碧の瞳の軍人の青年だったか?」
「うん! そう!」
「ははっ、そいつは俺の友人であり、軍で部下でもあるクロードだな。お前が無事でよかった。今度、直接お礼に行こう」
後日、父親に連れられてクロードの屋敷を訪れたエリスは、そこで初めて彼がただの青年ではなく、二十二歳にして若き将軍として国を支える剣の達人『クロード様』だと知ることになる。
(将軍様、なんだ……! あんなに優しくしてくれたのに、すっごく偉い人なんだ……っ!)
憧れは、さらに深い恋心へと変わった。
「クロード様! 私に剣を教えてください!」
思い立ったら吉日、エリスは開口一番そう叫んだ。
クロードは困ったように微笑んだ。
「剣、かい? 女の子が習うには、少し厳しいかもしれないよ」
しかし、エリスの目は本気だった。
「私、クロード様みたいになりたいんです! お願いします!」
目を爛々と輝かせて迫るエリスに、クロードはふっと遠くを見るような目を向けた。
その瞳には、二十代前半の青年には似つかわしくない、深く老成した悲しみが一瞬だけ浮かんでいたように見えたが、すぐに優しく柔らかい笑みに変わる。
「……いいよ。ただし、稽古は容赦しないからね」
「はいっ! よろしくお願いします!」
その日から、エリスの猛特訓が始まった。
転んで膝をすりむいても、「へっちゃらです!」と泥だらけの笑顔で立ち上がるエリス。
そしてエリスのモチベーションは、何よりも「クロードへの大好きな気持ち」だった。
彼の立ち姿、踏み込みの角度、剣を振った後の残心の癖に至るまで、エリスは彼の一挙一動を穴が開くほど見つめ続けた。
数年の月日が流れる頃には、エリスの振るう木剣の軌道は、クロードの体の癖までも完璧に模倣した『完全なコピー』へと仕上がっていたのだった。
◇◇◇
十二歳になったエリスは、大人顔負けの剣技を身につけ、可憐な少女へと成長していた。
そんなある日、クロードから思いがけない打診を受ける。
「エリス。君が十八歳で成人するまでの期間限定でいい……俺と『契約婚約』を結んでくれないだろうか」
「へっ!? こ、婚約ですか!?」
飛び上がらんばかりに驚くエリスに、クロードは苦笑いを浮かべた。
「将軍職に就いてからというもの、社交界で寄ってくる高位貴族の令嬢たちに辟易していてね……『女避け』の盾になってほしいんだ。もちろん、君が成人したらこの婚約は綺麗に解消する」
「……なるほど! 女避けですね!」
真相など知る由もないエリスは、心の中でガッツポーズを決めていた。
(形だけの女避け? 望むところです! 成人するまでのあと六年で、絶対に本気の奥さんにして見せますからねー!)
その日から間を置かずに、とある貴族からも縁談の打診があった。しかし既にエリスをクロードと婚約させていたため、父は誰に話すこともなく断りの手紙を書いていた。
◇
十六歳。エリスは凛とした美しさと健やかさを兼ね備えた乙女へと成長していた。
「クロード様ー! 今日の稽古、ありがとうございました! ご褒美にこれ、あーんしてください!」
「エリス……君はもう十六なんだから、もう少し慎みというものを……」
「えー! 婚約者同士じゃないですかー!」
二人の空気は、誰もが羨むほど甘く、親密だった。
ふとした瞬間にクロードが見せる、エリスを愛おしくてたまらないというような愛憐の視線。あと一歩で恋人同士になれそうな甘酸っぱい雰囲気が、何度も二人の間に流れた。
しかし、どれだけエリスが攻め込んでも、クロードのガードは鉄壁だった。
甘い空気になりかけると、クロードは必ずふっと寂しげに目元を和ませ、すっと一線を引いて距離を置くのだ。
(く~っ! 今日もガードが硬い! でも、私諦めませんからね!)
エリスは元気いっぱいに笑っていたが、クロードの胸中はいつも複雑な影に揺れていた。
愛おしそうに見つめながらも、なぜか彼は決してそれ以上の踏み込みを許してはくれなかった。
◇炎の中の遺言◇
十七歳の年。運命の牙は、突然牙を剥いた。
王都で大規模なクーデターが勃発したのだ。反乱分子の手によって街は炎に包まれ、悲鳴が響き渡る。
「エリス、こちらだ! 急ぐんだ!」
混乱する王都の中で、クロードの誘導は異常なほど完璧だった。
まるで「いつ、どこで、どの路地が崩落するか」をあらかじめ知っていたかのように、極めてスムーズに、完璧に安全な地下の隠れ家へとエリスを送り届ける。
「クロード様……! パパは!? パパはどうなるの!?」
「安心しなさい。お父上はまだ城内に残されている。俺が今から救い出してくる」
「だめ! 行かないで! クロード様までいなくなっちゃったら、私……!」
すがりつくエリスの手を、クロードは優しく解いた。
そして、一通の封蝋された手紙を彼女の手のひらに握らせる。
「これを……持っていてくれ」
「クロード様……?」
「エリス。無事に帰ってきたら……君が十八歳になったら、本当の結婚をしよう」
「……っ! はい! 絶対ですよ! 約束です!」
クロードは今までに一度も見せたことのない、切なさと温もりが入り混じった笑顔を咲かせてエリスを抱きしめた。
「また、会おうね」
クロードは囁くようにそう言って背を向けると、炎の渦巻く戦場へと駆け去っていった。
……それが、エリスが見たクロードの最後の姿だった。
◇
数日後。クーデターは鎮圧された。
クロードのおかげで父親は無傷で救出されたが――父親を庇い、孤軍奮闘したクロードは、深傷を負って戦死した。
「嘘……嘘でしょう、クロード様……っ!!」
冷たくなったクロードの遺体の前で、エリスは泣き叫んだ。
手渡された手紙を開くと、そこには彼の筆跡で、たった一言だけ書かれていた。
『エリスが18才になったら、結婚しよう』
「嫌……嫌よ! 約束したじゃない! また会おうって! 私を置いていかないで……っ! お願いだから、目を覚ましてよぉぉぉっ!!」
涙が溢れ、声が擦れても、クロードが応えてくれることはなかった。
自分の無力さと、彼を失った悲しみで、世界が真っ暗に塗り潰されていく。
手紙を胸に抱きしめ、絶望の淵でボロボロと涙をこぼしていた、その時。
エリスの首元――十二歳の誕生日にクロードから贈られた、アンティークのペンダントが、見たこともない目眩く強い光を放ち始めた。
「え……?」
光はエリスの全身を包み込み、視界を真っ白に染め上げていく。
(私……クロード様を失いたくない。絶対に、死なせたくない……!)
意識が遠のき、世界が巻き戻っていく感覚。
次にエリスが目を覚ました時――そこには、あたたかな木漏れ日が差し込む、懐かしい八歳の自室の天井があった。
小柄になった自分の手を見つめ、エリスは涙を拭い、力強く立ち上がる。
「待っていて、クロード様。今度は私が……絶対にあなたを助けて見せるから!」
太陽のような決意を胸に、エリスの二回目の人生が始まった。




