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僕らはソラを謳う  作者: 千代里
二章
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二章・五話

「最初が前に向かって、次は場所を入れ替わり、右回りに回って、また入れ替わり、でしたっけ?」

「ヘイノ先生、そこは腕をとって右回りだったような……わっ」

 声を掛け合いながら、辿々しいステップを踏んでいたニコだったが、ヘイノのぎこちない動きに振り回されて転び掛けてしまう。

 慌ててヘイノが腕を掴んだおかげで、尻餅を打つような結果にこそならなかったものの、ニコもヘイノも浮かれた祭りの空気には不釣り合いな動悸に見舞われていた。

「ダンスって、思った以上に難しいですね……。ニコ、俺とペアを組んでいてはいつまで経っても踊りを楽しめないでしょうから、ヨニに頼んで交代してきましょうか」

 先ほどのようなミスは、その殆どがヘイノが原因で引き起こされたものだ。これ以上、上達しなさそうな自分のダンスに付き合わせるのは申し訳ないと、そのように提案したのだが、

「だ、大丈夫ですよ! ほら、ヘイノ先生もうまくなってきてます。さっきよりも、場所を入れ替わろうとしてぶつかる回数が減ってます!」

 教え子からの精一杯の激励に、ヘイノは苦笑しか返せなかった。

 

 昼食の後、芝居の開演までまだ時間があるからと広場にやってきた一同を迎えたのは、楽団が奏でる陽気な音楽に合わせて、思い思いにダンスに興じる人たちだった。

 そんな光景を目にして、真っ先に踊りの輪に加わろうと言い出したのはアザレアだ。

「さあ、ヨニ! エスコートを頼むわよ!」

「相変わらずいきなりだね!? そういう約束だったのは分かってるけどさ。あ、こら、引っ張るなってば!」

 当初の約束通り、アザレアはヨニを引っ張るようにダンスの輪の中へと飛び込んでいった。彼女の強引なステップに、ヨニも負けじと応じている。

「それなら、アナ。せっかくだから、オレたちも若い二人に倣おうか。それとも、アナはダンスは嫌いか?」

「あなたがエスコートしてくれるのなら、喜んでお相手になるわ、ザック。ただ、うっかり足を踏んでしまったら、ごめんなさいね」

「はっはっは。あんたならきっと羽のように軽いだろうから、踏まれても気づかないだろうさ。それで、ヘイノはどうする?」

「俺も、ニコと一緒に参加してみようと思います」

 ニコが踊る人々の様子を見て瞳を輝かせてるのを見て、ヘイノも参加すると言うと、予想通りニコの顔がパッと輝いた。

 かくして、ダンス初心者同士のぎこちないステップが踏まれることになったのである。

 ダンスといっても、格式のある家で行われる舞踏会でもっぱら主流となっている、男女が手と手を取り、二人が一つになったかのように二人のステップをぴったりと合わせて踊るようなものではない。

 広場で思い思いに踊りを楽しむ人たちのダンスは、互いに手をとってぐるぐる回ったり、かと思ったら手を離してその立ち位置を入れ替わるようにステップを踏んだり、あるいは思い思いに飛んだり跳ねたり回ったりしながら気楽に楽しむものだ。

 特にこれといった決まりはなく、時にはペア同士がくっついて大人数で手を繋いでぐるぐる回っているだけのチームもある。

 決まった振り付けはないものの、お互いに動きを合わせる必要はある。だが、それさえできれば誰でもできるような簡単な動きしかないため、子供たちですら気軽にペアを変えて、ちょっとした遊び感覚で楽しんでいた。

 だが、ヘイノの生真面目さはこの自由奔放なダンスとは相性が悪かったらしい。お互いの挙動を読み取るという臨機応変な動きを無理に型にはめようとした結果、何度もニコとぶつかり、或いは彼女を転ばしかけてしまっていた。

「ヘイノ先生の動きに私が合わせられるように頑張りますから! それなら上手くできるはずです、きっと!」

「うーん……でも、俺の方が体格が大きいから、どうしても俺の動きにニコが引きずられてしまってますよね。先ほども、俺の動きにニコが引きずられて、ニコが転びかけてしまったわけですから」

 ヘイノが自ら反省した通り、度々起きている転倒事故の原因の九割は、ヘイノのミスにニコが対応しきれないから生じたものだ。

 ヘイノはニコの動きに対応しようとして一歩出遅れたり、逆に早すぎてしまったりを繰り返している。対するニコは、これまたヘイノの動きに無理に合わせようとした結果、足がもつれたり、ヘイノとぶつかったりという有り様だ。

 およそ踊りとは言い難い動きばかりを繰り返してしまい、どうしたものかと二人が途方に暮れていると、

「お二人さん、随分と苦労しているみたいねー。ヘイノには、ダンスは難しかった?」

「まあ! ヘイノもニコも、まるでおじいちゃんとおばあちゃんみたいなしわくちゃの顔になってるじゃない。そんなしかめっ面、この素敵な音楽には似合わないわよ」

 軽やかな足取りでヘイノたちの前に姿を見せたのは、先ほどまで元気を爆発させるようなダンスを披露していたヨニとアザレアのペアだ。

 鳥が一対の翼を動かすかの如く、二人はごく自然に互いの動きを読み取り、自由闊達に広場を舞っていたのだった。

「遠くから見ていて思ったんだけどさ。ヘイノは、もう少し肩の力を抜いたら? まるで礼拝の時みたいにカチコチになっちゃってるし、あれじゃ合わせるニコが大変だよ」

「体の力を抜いた方がいいのは分かるんですが、自分でもどうしたら良いかわからないんです……」

 このままでは、芝居の開演までずっと、ニコはこの下手くそなパートナーに付き合い続けなくてはならなくなる。

 それなら、いっそ彼女をヨニに預けて、自分は皆を見守っていようかなどと思っていたのが、顔に出ていたのだろうか。アザレアがするりとヨニの腕から抜け出て、うなだれているヘイノの手を取った。

「じゃあ、今から私がヘイノのパートナーになるわ。私は誰かに合わせるのは得意だから、いい練習になると思うの。構わないわよね、ヨニ?」

「俺は気にしてないよ。じゃあ、パートナーはここで交代かな。ニコ、俺と組んで踊ってみる?」

「私は、ヘイノ先生が戻ってくるのを待ってます。ヘイノ先生、頑張ってきてください……!」

 ニコから期待を込めた眼差しを向けられ、今日は無理でも、この先彼女のダンスの相手を務められるぐらいには上達せねばと、ヘイノも決意を新たにする。

「さあ、行きましょ、ヘイノ! 言っておくけれど、私はそれなりに踊りにはうるさい方なのよ。覚悟しておいてね」

 ヘイノが何か言う前に、彼はアザレアの手に導かれるようにして再び踊りの輪の中に加わっていた。遠くから聞こえる軽快な音楽に合わせて、有無を言わさず、アザレアの足がステップを踏み始める。

 つられて、ヘイノも辿々しく彼女の後を追うも、やはりぎこちなさが拭えない。せめて彼女の足を踏むまいと、視線を地面へと向けた時だった。

「ヘイノ、下を向いてはだめ。顔を上げて、正面を向くこと。見つめるのは、地面ではなくて相手の顔よ」

 彼女の物言いは、宣言通り、これまでの朗らかさの裏側に厳しさの混ざったものだった。

 促されるままに、ヘイノは顔を上げる。自分の足が見えなくなった代わりに、「よくできました」とこちらへ微笑みかけるアザレアの顔が彼の視界に飛び込む。

「私の顔を見る余裕ができたら、今度は周りに少しずつ視野を広げるの。そうすれば、他の人がどんなふうに踊っているのかも見えてくるでしょう?」

 彼女の言うように、顔を上げれば自ずと視界に広場にいる人々の様子がわかるようになった。彼らの動きは全て、踊りを始めたばかりのヘイノにとっては良い見本になる。

 思えば、ヘイノはニコに怪我をさせてはならない、ニコの動きを完全と読み取らねばならないと、彼女の足下ばかりを気にしていて、肝心の相手の顔をほとんど見ていなかったのだ。

 身長差があるのだから、なおのこと意識しなければ彼女の顔なんて目に入らないと、少し考えれば分かりそうなものなのに。

 その間にも、アザレアにリードされながら、ヘイノは簡単なステップを踏んでいた。

 最初は左右に体を揺らす程度のものだったのが、徐々に足取りが確かになり、彼女のちょっとしたかけ声を合図にくるりとその場で回る。

 そうしているうちに、いつしか立ち位置を入れ替えるなどという複雑な動きまで、ヘイノは自然とこなせるようになっていた。

(どうして、アザレアさんとなら、俺はそれなりにちゃんと踊れているんだろう?)

 驚いている様子が伝わったのだろう。アザレアは軽く片目を瞑り、ヘイノをリードしつつくるっとその場で一回転した後、

「あなたは観察眼はあるようだもの。きちんと相手の顔を見れば、相手が何をしようとしているのか、自然と読み取れるだけの力はあったのよ」

「俺は、ずっと下を向いていたから、ニコの顔を、彼女がどんな動きをしたいのか正しく読み取れていなかった……ってことですか?」

「それもあると思うわ。それに、その『正しく』っていうのは、あまりこの場に相応しくないわね! もう少しおおらかに、間違えてもいいと思えるくらいの気持ちで楽しめばいいわ。周りが見えているんだから、誰かにぶつかってしまう心配だけはしなくていいでしょう?」

「そうですね。俺は上手くやらなくてはいけない、周りに迷惑をかけてはいけない、と気負っていたみたいです。……ニコには、迷惑をかけてしまいました」

「その言葉は本人に言ってあげるといいわ。とはいえ、あの子はあなたにそんな風に謝ってほしいと思ってないでしょうから、あなたの謝罪は次のダンスで示すといいんじゃない?」

 話しながら、今度はアザレアのリードなしで立ち位置を入れ替える。

 彼女のわずかな視線の動き、指先の力の入れ方、体の傾け方。

 アザレアの言うとおり、思い切って顔を上げて彼女の顔を見つめていれば、微かな挙動の一つが次に何をしようとしているのかを伝えてくれている。

 そうして幾らかの成功を重ねれば、自ずと気持ちにも余裕が生まれてくる。

 アザレアも、ヘイノのぎこちないステップが、幾分か滑らかになったのだと気が付いたのだろう。これまでとは違う動きをわざと織り交ぜてみせては、ついてこれるかしらとヘイノを誘う。

 ヘイノも負けじと、彼女の誘いに自ら足を踏み入れ、複雑な動きに合わせていく。具体的な合図もないのに、一度離れた二人の手が再びぴったりと重なったときは、思わず笑みが口元に浮かんだ。

「やっと笑顔を見せてくれたわね、ヘイノ!」

「そんなに、俺は強張った顔をしていましたか?」

「まあ、なんてこと! あなたに鏡を見せてあげたいくらいだったのよ! ヨニなんか、何度私の足を踏んでも、けろりとしているのに。あなたは私に足が掠めるだけで、この世界が終わるかのような顔をしていたわ!」

「俺も、ヨニと同じくらい大雑把になれたらいいんでしょうけど……ね!」

 ちょうど、話の区切りに音楽の終わりが重なり、ヘイノは大きく膝を落として一礼をする。対するアザレアも、軽く膝を曲げて淑女然とした礼を返した。

「さて、あなたをニコに返してあげましょうか。少しは時間も残っているようだし、今度はちゃんとリードしてあげるのよ」

「ええ、少しは自信が持てました。ありがとうございます、アザレアさん――っ、危ないっ!」

 咄嗟にヘイノはアザレアの腕へと手を伸ばした。だが、間に合わない――!

 どん、と軽い衝突音が響く。

 新たな曲に合わせて、やや乱暴な動きを見せていたダンスのひと組がアザレアへと勢いよくぶつかったのだ。弾き飛ばされるような形になった彼女を、今度こそヘイノは受け止めた。

「ありがとう、ヘイノ。まったく、びっくりしたわ」

 再び始まったダンスの輪の中を、なるべく他のペアにぶつからないように、注意しながら抜け出ようとしていたところだった。

 踊る側も、ダンスの輪から抜け出そうとする人には自然と道を譲るものなのだが、踊りに夢中になっていたのか、ヘイノたちに気がつかなかったペアがいたらしい。

「気をつけないといけませんね。すみません、怪我はありませんでしたか」

 ぶつかったペアにヘイノが声をかけると、ペアの一人である男性はこちらへと振り返り、頭を下げた。

「ああ、平気だよ。ごめんよ、つい夢中になってしまって」

 ぶつかってきた相手は、幸いにもアザレアよりも大柄な男性だったために、少しよろめいただけで済んだようだ。相手の女性は大丈夫だろうかと、ヘイノがそちらへと見やったときだった。

「謝る必要なんてないわよ、ロジャー! ぼーっとしてるそっちの方が悪いに決まっているんだから!!」

 音楽の音色すらかき消すような、甲高い非難の声。

 さながら舞台俳優のごとき芝居がかった大音声に、ヘイノもアザレアも一瞬圧倒されてしまった。

 ロジャーという名前らしい男性を押しのけて姿を見せたのは、彼とは対照的に小柄な少女だった。

 黙って微笑んでいれば、如何にも淑女然とした礼儀正しい令嬢に見えただろう。だが、あいにく今の彼女は可愛らしい瞳をつり上げて、視線に力を込めてこちらを睨んでいた。

 まだ成人はしていないのか、ウェーブのかかったブロンドが豊かに背中に流れている。毛皮でできた襟巻きの下には、艶めいた紫の生地でできたドレスが見えた。

「特にそっちの派手な色の髪のあなた! わたくしのロジャーに色目を使うなんて、いったいどういうつもり!?」

「オルカ、俺は別にそういうつもりで言ったわけじゃ……。ただ、見慣れない綺麗な子がいるねって、そう言っただけじゃないか」

 どうやら、ロジャーという男性がアザレアの容姿を見て褒めたのが、オルカという少女の怒りに触れたらしい。この様子なら、ぶつかったのも偶然ではなく、わざとであったかもしれない。

 興奮しきった様子のオルカを、どうやって宥めようかとヘイノが言葉に迷っている間に、ずいとアザレアが前に出た。

「私、別に色目なんて使ってないわ。そこの人が私を魅力的だと感じたのは、単にそう見えたからというだけでしょ?」

 そして、今度はロジャーの方を見やると、

「私のことを噂するのは構わないけれど、賞賛の言葉なら、どうせなら直に聞かせてもらえると嬉しいわね」

「ああ、いや……確かに、それはそうだったね。陰口のような形になってごめんよ」

 穏やかに言葉を交わすアザレアとロジャー。だが、その勝手な和解を、オルカは自分への侮辱と受け取ったらしい。

「な……っ、あなた、見たところよそ者でしょ!? よそ者がクルマラの娘にそんな口を聞いていいと思ってるの!?」

「ねえ、ヘイノ。クルマラって誰だったかしら」

「クルマラさんは、今回の生誕祭にあわせて旅芸人の一座を呼んでくれた、町の名士の方ですよ。ほら、あそこの丘に屋敷が見えるでしょう」

 アナから教えてもらった内容を伝えると、アザレアも一座の一員として思い当たる節があったらしい。ああ、と軽く頷いてから、

「でも、それが私の口の自由を奪う理由にはならないわね。他の方がどうかは知らないけれど」

「アザレアさん。そちらの方を煽るようなことを、あまり言わないでください」

 オルカが興奮しきっているからも理由ではあるが、ヘイノは彼女の容姿を見た瞬間から、内心どうやって彼女と接すればよいのだろうかと悩んでいた。

 彼女は、パユヴェシ村やティモで出会ってきた人々とは、根本としている考え方が違うのではないか。少なくとも、そんな疑念を持つだけの理由がそこにはあった。

「オルカ、もういいだろ。ぶつかったことは向こうも謝ってたんだから。それに、君が無理に僕を振り回したのも良くなかったよ」

「あなたは黙ってて、ロジャー! どうせ、あたしの面倒を見るのなんてうんざりだって、そう思っているんでしょ! お父様もそうよ。ずっと書斎にこもって商談ばかりに夢中になって……!」

「そんな風に感情的になるものじゃないよ。また、頭痛が酷くなってしまうだろう。そこの二人、彼女の面倒は僕が見ておくから。迷惑かけてすまなかったね」

 ロジャーは素早く二人に謝罪の言葉を送ると、まだ怒りが冷めやらぬと言った様子のオルカをやや強引にエスコートしつつ、広場の端へと行ってしまった。

 このまま踊りの輪の中で突っ立っていても、二度目の事故を生みかねない。ヘイノはアザレアと連れだって、こちらも広場の外れへと向かった。

 折しも、そこにはヨニを筆頭とした四人が待ち構えて、どこかハラハラした様子でこちらを見つめていた。

「おかえり、ヘイノ。何か揉めていたみたいだけど、大丈夫だった? 何を言っていたかまでは分からなかったけれど、こっちまで声が聞こえてたよ」

 真っ先に駆け寄ってきたヨニが、ヘイノとアザレアを交互に心配そうに見つめる。

「俺とアザレアさんが戻ろうとしたときに、踊っていたペアとぶつかってしまったんです。女性の方の方が、アナさんが前に話していたクルマラさんの娘さんだったようで、大層な剣幕で叱られてしまいまして」

「あの子、ヘイノが謝ってるのに聞こえなかったみたいね。そのうえ、私に一方的に難癖をつけたのよ。一緒にいた男の人が、私の話をしていたからって、ただそれだけで!」

 アザレアは腰に手を当て、何があったかを簡単に周りの面々へと説明した。

「そのご息女の行動が褒められたものではなかったとしても、大きな問題にならなくてよかったわね。クルマラさんは、あなたの劇団の後援者でもあるのだから」

 一通り話を聞いた後、アナがまず冷静に状況を分析する。

「そうそう、どこかで聞いたことがある名前だと思ったのよね。止めてくれてありがと、ヘイノ。座長さんに恥をかかせるところだったわ」

 アザレアは正式な団員ではないらしいが、世話になっている以上、要らぬ迷惑はかけたくないのだろう。いつもは自信満々の彼女も、この時ばかりはほっとした様子を見せていた。

「ヘイノが揉め事をそのままにしてきたなんて、珍しいね。てっきり、いつもみたいに、お互いの言い分を聞いて、納得させるまで話し合ってくるのかと思ってたよ」

 ヨニがそんな風に自分のことを評価してくれるというのは、ヘイノにとって驚きつつも誇らしくもあった。

 だが、その褒め言葉を今ばかりは素直に受け取っていいものか。そんな躊躇の気持ちが顔にでてしまったらしい。

「……何かあったの?」

「あの女性……オルカさんを見て、少し驚いてしまったんです。俺も、最初は司祭と名乗り出ようかと考えていました。こういった楽しい場面で喧嘩するのは良くないって言えば、それで彼女も納得してくれるかと思ったのですが」

 ヘイノは、無意識に自分の首にさげているペンダントの鎖に指を絡める。

 これを言うべきか、悩んでいる間にも口は勝手に動いてしまっていた。

「……あの人の首に、とても大きな白い石の飾りがついたペンダントがあったんです」

 白い石をあしらった装飾品は司祭の証。そして、司祭以外の民間人が身につけるのは避けるべき色だ。それは、年端もいかぬ子供ならいざ知らず、オルカぐらいの年頃の少女なら知っているべき常識である。

 けれども、彼女の首元には、まるでドレスの紫を引き立てるかのように純白の大ぶりの石が輝いていた。

(あれが目に入った時、あの人は俺の知っている世界とは異なる人のように思えてしまった)

 だから、ヘイノはすぐにアザレアを連れて、その場を立ち去ることを選んだのだ。

 けれども、冷静に考えれば、彼女はただ白い石を身につけていただけだ。司祭の証を模したものをアクセサリーとして堂々と身に纏っていたからといって、会話を諦めていい理由にはならないのではないか。

「それは、関わらなくて正解だったと思うよ」

 だが、ヘイノが前言を翻す前に、ヨニの硬い声が彼の耳を打つ。

 たかだか、司祭の証に似たものを身につけていた。ちょっと一般的な常識から外れているかもしれないが、それだけのことじゃないか――そう考えているのは、どうやらヘイノだけだったらしい。

 ニコは信じられないと言わんばかりに目を見開き、ヨニも嫌なものでも見たかのように眉根を寄せている。

「そんな奴を相手にして、ヘイノが司祭だって名乗ったとしても、そんなの関係ないって無礼な態度を取られるだけだったろうし」

「ですが、ヨニ。そのような考え方は、やや偏狭ではありませんか。まるで、司祭が自分の権利をひけらかしているようにも取れますよ」

 たとえ相手がどんな無礼を働こうと、相手に対して公平に接しようとする気持ちを捨てない。それこそが司祭のあるべき姿ではないかとヘイノは問うが、ヨニは渋い顔を崩さなかった。

「でも、司祭さまは皆様に始祖の言葉を伝える、尊敬されるべき大切なお仕事です。なのに、司祭さまではないのに、司祭さまの真似のような格好をするのは、私はとても失礼なことだと思います!」

「俺もニコと同じ意見だな。ヘイノが言うように、公平に礼儀正しくってのも大事だけど、それは非常識な振る舞いを許していいとはならないでしょ」

「ですが、礼儀をたとえ知らない人にも、始祖の言葉を伝える努力を諦めるべきではないでしょう。それでは、何のための司祭か、分からなくなってしまうのではありませんか」

 ヘイノのささやかな疑問に、ヨニもニコも自らの常識を根拠に返事をしている。

 だが、ヨニたちに強く否定されればされるほど、ヘイノも己の意見を曲げてなるものかと言葉に力がこもる。

 その矢先、パンパンと手を打つ乾いた音が響いた。白熱しかかった三人の熱を冷ませたのは、アナだった。

「ヨニ、それにニコも。あなた達の意見も全てが間違っているとは言わないけれど、少々言葉が強すぎるところはあるわよ」

 続いて、アナは言葉の行き場を無くしているヘイノへと、いつもの落ち着いた様子の視線を送り、

「ヘイノ、もしあなたが司祭に対する市井の人々の姿勢について、思うところがあるのなら、それを突き詰めて考えてみなさい。きっと、あなたの成長に繋がるでしょうから」

「……はい、わかりました。アナさん」

「それと、ヨニ。相手がこちらの望む礼儀を必ずしも身につけているとも限らないわ。そのことも踏まえて、今の自分の発言を振り返ってみるといいでしょう。いい機会だから、心を落ち着けて、ヘイノの意見にも耳を傾けてごらんなさい。それが、結果的にあなたの考えに新たな視野を与えるでしょうから」

 二人の見習いへと言葉を送る様子を目にして、ニコも自分も何か助言をもらえるのだろうかと、アナを熱心に見つめる。だが、彼女は小さな笑みこそ見せたものの、ゆっくりと首を横に振った。

「私は、あなたの保護者ではないから、こうあるべしという指導はできないわ。ただ、今日あったことを、シニッカさんにお話しして、一緒に考える時間を作ってみるといいでしょう。シニッカさんなら、一緒にたくさん考えてくれるはずよ」

 小さく頷くニコに笑みを返した後、アナは広場に面した庁舎に掲げられた時計を見上げた。

「そろそろお芝居の開演時刻ね。移動して、席に座る準備をしておきましょう」

 この話はこれで終わりと言わんばかりに、アナは先頭を切って歩き出す。その後ろをヨニやニコ、黙って様子を見守っていたアザレアもついて行った。

「あれがアナの指導のやり方かあ。まさに司祭の鑑って感じだな」

「アナさんはいつもああやって、俺たちに必要な言葉をかけてくれるんです」

 これまた、一同のやりとりを沈黙と共に見つめていたザックが、感想のような一言を零す。

 ヘイノにとっては、アナが頭ごなしに自分の意見を否定しなかったことが嬉しかった。

 ヨニやニコの考えに同調するのは容易い。だが、ヘイノが自分自身で掴みかけた答えを肯定されるのは、まるでもっと深い自分自身への肯定のように感じられて、

(記憶がない『俺』自身も、受け入れてもらえてる気がする……なんて、そんな風に考えるのは感傷が過ぎるかな)

 春の匂いを含んだ風に髪を遊ばせながら、少しずつ遠ざかるアナの背中めがけて歩き始めていると、その隣をザックも歩き始めた。

「でも、正直ちょっと意外だな。ヘイノみたいな真面目な奴なら、司祭の証に似たものを司祭じゃない奴がつけてるのを見たら、礼儀のなってない不信心者だーって言い出すかと思ったのに」

 ザックの言うように、それこそが一般的な考えなのだろう。けれども、今ならはっきりと、ヘイノは自分の意見を口に出来る。

「たしかに、面食らいはしました。きっと、ヨニやニコのような反応の方が普通なんだろうとも思います。ですが……一般的な考えとは違う振る舞いをしているからといって、その人が話す価値もない非常識な人間だと決めつけるのは、何か違うと思うんです」

 もし、あの場でもっと落ち着いて言葉を交わせていたら、あの二人とは新たな友人になれたかもしれない。そんな可能性があったことを、ヘイノは諦めたくなかった。

「……へえ、ヘイノはそういう風に考えるのか。本の話でも気が合うなとは思ってたが、そいつを聞いて、ますます気に入った! どうせなら、明日もティモに来ないか? お前といると、なかなか面白い時間を過ごせそうだ」

「その前に、まずはアナさんたちに追いつきましょう。迷子になったら、お芝居どころじゃなくなってしまいますよ!」

 突然ばしばしと背中を叩かれた上に、ザックは次の外出の予定まで持ちかけてきた。だが、今のヘイノにはザックの申し出に答える余裕はなかった。

 一足先に駆け出したヘイノの背中を見つめながら、ザックは嬉しげに目を細めて呟く。

「あんな風に考える司祭……いや、そういう人間を見たのは、いつぶりかな。偏見に目が濁った連中を見過ぎて、オレも一緒に目が濁っちまったのかもしれない」

 そうして、彼もまたヘイノたちの後を追って、石畳を蹴りあげ、走り出した。

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