届いている、だけじゃ足りない
スタジオに入った瞬間、空気が違った。
静か。
でも、重い。
「今日、来るらしいぞ」
小さな声。
張り詰めた気配。
「……誰がですか」
マネージャーが隣でぼそっと言う。
「業界の化け物」
軽く笑う。
でも、その目は笑っていない。
「名前くらい聞いたことあるだろ」
少しだけ間。
「相楽悠真」
その名前で、空気が沈む。
一段、深く。
白瀬は何も言わず、視線を向ける。
ブースの外。
一人の男が立っている。
派手じゃない。
目立つわけでもない。
でも——
見てしまう。
視線が外せない。
目が合う。
一瞬。
それだけで、わかる。
見られた。
中まで。
「……新人か」
低い声。
感情が、薄い。
「白瀬玲です」
短く名乗る。
相楽は、わずかに頷くだけ。
興味があるのかないのか、わからない。
「昨日の、見た」
不意に言う。
心臓が、少しだけ強く鳴る。
「……ありがとうございます」
自然に出る言葉。
でも——
相楽は、首を傾ける。
「なんで礼?」
「……え」
「褒めてないけど」
空気が止まる。
「届いてたよ」
淡々と続ける。
「一人には」
息が詰まる。
「でもそれだけだ」
静かに落ちる言葉。
「それで満足してるなら、いいんじゃない」
何も言えない。
「……してません」
やっと出す。
相楽は、少しだけ目を細める。
「じゃあ、足りてないってわかってる?」
沈黙。
わかってる。
でも——
「……何が、ですか」
聞いてしまう。
相楽は一瞬考えて、
「全部」
あっさりと言う。
逃げ場がない。
「一人に届くのは、当たり前」
続ける。
「そこから先が、仕事だろ」
言葉が重い。
「一人に刺さるのは、偶然でも起きる」
視線が真っ直ぐ来る。
「でも、何人にも刺さるのは」
ほんの一瞬、間。
「技術だ」
完全に別の世界の話だった。
「……」
何も言えない。
「お前のは、まだ個人の感情だ」
淡々と切る。
「作品になってない」
その一言で、何かが崩れる。
「……っ」
胸の奥がざわつく。
否定したい。
でも、できない。
「……じゃあ」
絞り出す。
「どうすればいいんですか」
相楽は少しだけ考えて、
「知らない」
即答。
「自分で見つけろ」
それだけ。
完全に突き放す。
何も残らない。
答えも、ヒントも。
ただ——
足りない、だけが残る。
収録が始まる。
マイクの前。
息がうまく整わない。
さっきの言葉が離れない。
一人に刺さるのは、偶然。
違う。
そうじゃないはずだ。
でも——
揺れる。
「いきます」
声が落ちる。
始まる。
「……なんで来た」
出す。
でも——
ズレる。
意識する。
刺すことを。
複数に届くことを。
その瞬間——
崩れる。
浅い。
さっきまでの生が消える。
「……帰れ」
乗らない。
「来んな」
届かない。
自分でもわかる。
違う。
焦る。
でも止まらない。
「カット」
早い。
明らかに早い。
静寂。
誰も何も言わない。
それが一番きつい。
「……もう一回」
ディレクターの声。
でも同じ。
戻らない。
何度やっても。
ズレる。
届かない。
収録が終わる。
何も言わず外に出る。
呼吸が少し荒い。
壁にもたれる。
「……はぁ」
息を吐く。
手が、わずかに震えている。
「やられた?」
声。
黒崎。
いつの間にか隣にいる。
「……はい」
正直に言う。
黒崎は少しだけ笑う。
「だろうね」
軽く言う。
でも、その目は真剣だ。
「でもさ」
一歩近づく。
「間違ってないよ」
その一言で、ほんの少し呼吸が戻る。
「お前のやつ」
続ける。
「ちゃんと刺さる」
視線がまっすぐ来る。
「ただ」
少しだけ間。
「それだけじゃ、足りないだけ」
同じこと。
でも意味が違う。
否定じゃない。
拡張だ。
白瀬は何も言わない。
でも、理解はする。
まだ途中。
どっちも必要だ。
白瀬はゆっくり立ち上がる。
息を吸う。
吐く。
届くだけじゃ足りない。
でも——
それを捨てる必要もない。
「……めんどくさいな」
小さく呟く。
でも、少しだけ笑っていた。




