名前のない1人
翌日。
スタジオの空気は、静かだった。
騒がしくはない。
でも、どこか落ち着かない。
視線が、少しだけ増えている。
昨日の収録のせいだ。
「……おはようございます」
軽く頭を下げる。
返ってくる声が、少しだけ違う。
「おはよう、白瀬」
名前で呼ばれる。
ほんの少し前までは、
“あのイケメンの人”だったのに。
「……」
何も言わず、通り過ぎる。
別に、それが欲しかったわけじゃない。
⸻
スマホが震える。
画面を見る。
通知が、増えている。
SNS。
動画の切り抜き。
昨日の収録の一部。
音声だけの、短いクリップ。
再生数が、伸びている。
コメント欄。
“やばい”
“鳥肌立った”
“誰これ”
“顔じゃなくて声で来た”
指が、止まる。
スクロールする。
似たような言葉が、並ぶ。
評価。
反応。
全部、“声”に向いている。
「……」
画面を閉じる。
嬉しくないわけじゃない。
でも——
それだけじゃ、足りない。
⸻
スタジオの奥。
ディレクターが笑っている。
「昨日のやつ、反響すごいよ」
軽く手を振る。
「やっと来たな、って感じ」
「……ありがとうございます」
短く返す。
「黒崎と並べても、全然負けてない」
その一言に、
ほんの少しだけ、胸が動く。
でも。
「……まだです」
自然と、言葉が出る。
ディレクターが、少しだけ目を細める。
「いいね、その顔」
笑う。
「楽しみだわ」
⸻
収録が始まる。
今日は、別のシーン。
静かな会話。
激しさはない。
でも——
誤魔化しが効かない。
「……」
マイクの前。
息を整える。
出す。
削る。
乗せる。
全部、同時に。
昨日とは違う。
でも、繋がっている。
「……そうか」
短い台詞。
それだけで、
空気が変わる。
誰も気づかないくらい、わずかに。
でも——
確かに。
⸻
「カット」
声が落ちる。
「いいね」
短い一言。
それだけで十分だった。
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ブースを出る。
何も言わず、歩く。
その途中。
小さな声が、聞こえる。
「……あの人」
振り返らない。
でも、耳は拾う。
「昨日の人だよね」
「うん」
少しだけ、間。
「なんか……」
言葉を探している声。
「怖かった」
足が、止まる。
ほんの一瞬だけ。
「でも」
続く。
「目、離せなかった」
静かな声。
飾ってない。
誰かに見せるための言葉じゃない。
ただの、本音。
「……」
振り返らない。
そのまま、歩き出す。
⸻
外に出る。
空気が、少し冷たい。
深く、息を吸う。
吐く。
胸の奥が、静かに揺れている。
⸻
スマホが震える。
また通知。
でも、開かない。
代わりに、
さっきの声が、頭の中に残っている。
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“怖かった”
“目、離せなかった”
⸻
たった一人。
名前も知らない誰か。
でも——
確かに届いた。
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「……」
小さく、笑う。
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歓声じゃない。
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拍手でもない。
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たった一人の、
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無防備な言葉。
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それが——
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一番、深く刺さる。
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「……これでいい」
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呟く。
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誰にも聞こえない声で。
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⸻
その夜。
部屋。
静かな空間。
台本を開く。
でも、すぐに閉じる。
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代わりに、
目を閉じる。
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思い出す。
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あの瞬間。
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空気が止まったとき。
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黒崎が黙ったとき。
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誰かが、息を呑んだとき。
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そして——
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名前のない一人が、
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「怖い」と言ったとき。
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全部、繋がっている。
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⸻
「……まだ足りない」
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でも。
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方向は、間違ってない。
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それだけで、十分だった。
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スマホが、もう一度震える。
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画面を見る。
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黒崎。
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メッセージ。
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『見た』
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それだけ。
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短い。
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でも——
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重い。
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少しだけ、間。
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返信を打つ。
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『どうでした?』
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既読がつく。
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すぐに返ってくる。
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『一人、落ちてた』
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意味が、わかる。
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笑う。
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「……一人で十分だろ」
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小さく呟く。
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その声は、
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少しだけ、優しかった。




