雪の宮殿へ
雪は細かく、痛いほど冷たかった。
影月零は、石畳を打つ馬車の揺れで目を開けた。見知らぬ天井が揺れ、黒い軍装の裾が膝にかかっている。喉の奥に鉄の味が残っていた。
自分の名だけは分かった。
影月零。二十八歳。死んだはずの男。
だが、胸の内側には、別の人生の欠片まで押し込まれていた。雪の国、黒い宮殿、女帝直属の刃。今朝、その長に任じられるはずだった男の記憶だ。
膝の横に、黒革の筒が転がっていた。開けば、硬い羊皮紙が一本だけ入っている。
女帝直署の任命書だった。
新任の影の死神団団長、影月零。
墨の匂いがまだ新しい。つまりこの身体の前任は、つい先日まで別にいたということだ。
御者が前から叫んだ。
「見えましたぞ。雪宮です」
零は窓の外を見た。
白い吹雪の向こうに、黒銀の巨大な宮殿が浮かんでいた。尖塔は氷を突き、壁面には青白い灯りが脈のように走っている。温熱魔石の光だと、身体の記憶が教えた。
同時に、何の前触れもなく視界がひっくり返った。
銀髪の女が見える。
高い回廊。黒い衣。青い目。
白い喉へ、横から細い刃が吸い込まれる。
その女の背後で、護衛が二人、矢を受けて倒れる。柱の影、天井桟、回廊の曲がり角。死が立つ場所だけが、赤く輪郭を持って浮かび上がった。
零は息を止めた。
今のは幻ではない。死の寸前だけを切り抜いた、濃すぎる像だった。
馬車が止まるより先に、彼は扉を蹴り開けた。
「お、おい」
御者の声を置き去りにして、零は雪を踏み抜く。足は迷わない。身体が宮殿の構造を覚えている。正門から入って左、儀礼回廊、階段を二つ上がれば謁見へ続く長廊だ。
衛兵が制止の声を上げた。
「止まれ、どこの所属だ」
零は任命書の黒封を一瞬だけ見せ、答えず走った。足音が石に響く。肺へ氷の空気が刺さる。
回廊へ入る直前、また像が走る。
柱の影に潜む手。
引き金を絞る指。
零は考える前に剣を抜いた。
抜き打ちの一閃で、柱の裏へ斬り込む。刃先が肉を割った感触と同時に、短弩が床へ落ちた。
男が声もなく崩れる。
その先、白い雪明かりの中に、銀髪の女がいた。
黒銀のローブドレスに身を包み、数人の侍女と護衛を従えている。威圧のある立ち姿だった。だが零には、その喉へ迫る次の刃の線まで見えていた。
「伏せてください」
叫んだ声は、自分でも驚くほど低く、よく通った。
女がこちらを見る。
青い瞳が細まり、次の瞬間、零はその前へ踏み込んだ。




