第十四話 主君の許し、そして密約
和議の使者が去ったあと、堀江城には重い沈黙が落ちていた。
三度の逆襲で徳川軍を退けたとはいえ、兵は疲れ、矢も火薬も尽きかけている。
城下の民は疲弊し、堀川城で散った者たちの無念が胸にのしかかる。
基胤は広間に家臣を集め、静かに言った。
「……和議を受けるにしても、我らは今川家の家臣。
まずは氏真様の御意を仰がねばならぬ」
家臣たちは深く頷いた。
誰もがそれが武士として当然の道だと知っていた。
その日のうちに、基胤は密かに使者を駿府へ走らせた。
堀江城の現状、堀川城の悲劇、三度の逆襲、
そして徳川方からの和議の申し入れ――
すべてを包み隠さず伝えるよう命じた。
数日後、駿府から返書が届いた。
基胤は封を切り、静かに読み始めた。
『基胤、よくぞここまで耐えた。
堀川の者たちの死、我も胸が裂ける思いである。
そなたの忠義、まことに天晴れ。
和議、これを許す。
そなたの命、民の命を守れ。
氏真』
基胤は目を閉じた。
胸の奥に熱いものが込み上げた。
(氏真様……
この御言葉、決して忘れませぬ)
その夜、基胤は城を抜け、湖岸へ向かった。
月明かりの下、ひとりの武将が待っていた。
松平元康である。
互いに護衛も連れず、ただ二人だけ。
この場の存在を知る者は、誰もいない。
元康が静かに口を開いた。
「……基胤殿。
氏真様は、和議を許されたか」
「許された。
氏真様は、我らの忠義を労ってくださった」
元康は深く頷いた。
その表情には、安堵と痛みが入り混じっていた。
「基胤殿……
そなたが降る以上、私は約す」
元康は月を見上げ、言葉を絞り出した。
「氏真様の命は、決して奪わぬ。
そなたの主君を、私が殺すことはない」
基胤は息を呑んだ。
その言葉は、誰にも聞かせてはならぬものだった。
「……この約、我ら二人だけのものといたそう」
「うむ。
誰にも漏らしてはならぬ。
家臣にも、氏真様にも、決して」
二人は静かに頷き合った。
その瞬間、戦国の闇の中に、
誰にも知られぬ一本の細い絆が結ばれた。
翌朝、基胤は広間に石川数正と酒井忠次を迎えた。
「大沢基胤、和議に応じる。
松平元康殿の申し入れ、受け入れよう」
数正は深く礼をした。
「大沢殿のご決断、必ずや元康公にお伝えいたします」
忠次も静かに頭を下げた。
「堀江城の武名は、末代まで語り継がれましょう」
基胤は何も言わなかった。
ただ、湖面から吹く風が広間を通り抜け、
堀江城の戦いの終わりを告げていた。
こうして、堀江城攻防戦は幕を閉じた。
だが、月夜に交わされた密約だけは、
誰にも知られることなく、二人の胸に深く刻まれたままだった。




