陥穽
大変遅くなりました。
雑貨屋の扉を開ければ、その名の通り雑多な品々で溢れ返っていた。
日用品は言うに及ばず、一見しただけでは用途不明な品まで、雑然と陳列してある。そんな様は、ここで揃わない物は無いのではないか、と思われる程。
小さな村の雑貨屋としては破格、と言っても良い品揃えであった。
人一人がやっと通れる程度の広さしかない通路を、ナミヴィアに引かれながら小太郎は進む。
絶妙な間隔で商品にぶつからない様に歩いている小太郎の姿は、傍から見れば目が見えているとしか思えない。
尤も、紙一重の間隔で歩けているのは、ナミヴィアの誘導が巧みとも取れなくもないのだが。
そんな二人は棚の商品を何一つ落とす事なく、店内の一番奥にあるカウンターへと辿り着いた。
「すみませーん」
鈴の音を鳴らしたかのような清々しいナミヴィアの声が、店内に響き渡る。
「はーい」
ナミヴィアの声に触発された様に、清流のせせらぎが宿ったとしか思えない声音が、カウンターの奥の、更に奥から足音と共に届けられた。
パタパタと少しだけ急ぎ足で現れたのは、二十代の半ばから後半の女性。
ややくすんだ感じの金髪を短く切り揃え、優しそうな眼差しと柔和な笑みを口元に浮かべた彼女が、この店の店主らしかった。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
良く尋ねられるのだろう。
彼女の口から零れた言葉は淀みがない。
「えっと、修理をお願いしたいんですけど……」
少しだけ遠慮がちにナミヴィアは告げた。
本来ならば小太郎が言うべき台詞なのだが、当の本人はナミヴィアに付き添う使用人が如く静かに後ろに控えている。
「修理、ですか?」
ナミヴィアへと真っ直ぐに視線を向けている女店主は、不思議そうに聞き返した。
それもそうだ。修理の必要そうな物を、ナミヴィア自身が手にして居ないのだから。
「はい」
返事と共にナミヴィアは、首を捻って後ろへと視線を向ける。
釣られて女店主も視線を向ければ、小太郎の腰に差さった無残にも折れ曲がった青杖が目に留まった。
「これはまた、随分と……」
余りの酷さに店主は、顔を顰めて言葉を失う。
無理もない。小太郎の腰に差さった青杖は、波打つ様に複数のヶ所で折れ曲がり、部分的には破断し掛けているのだから。
その表情を見たナミヴィアは、不安げな声を漏らす。
「無理、でしょうか?」
窺う様に発せられた問い掛けにも店主は難しい表情を崩さず、ナミヴィアの不安は更に高まった。
もしも修理が出来ないのであれば青杖を新調しなければならず、その場合は国へ再取得申請をするしかない。しかも、申請してから手元へ来るまでに、首都オウルですら一月以上もの日数を要する。
それだけならまだ、彼女もここまで不安に駆られはしない。
最大の問題が、イルーリア共和国でも辺境に近い位置にあるフィグ村では、何時手元に届くか予想が付かないからだった。
緊張した空気が漂う中、ナミヴィアが半ば諦めの気持ちで「再取得申請します」と口にしようとした時。
「ちょっと貸してもらえるかしら?」
店主がそう告げて来た。
小太郎は腰から青杖を抜き取り、無言で店主へと差し出す。
青杖をそっと手に取ると、表情は険しいまま、店主は真剣な眼差しを注ぎ始める。
手で触れても問題無さそうな折れ曲がっている部分は、感触を確かめる様に手でなぞる。破断している個所は手で触れない分、念入りに目視で細かく調べていた。
そして、一つ大きく息を吐くと、微笑みを浮かべた。
「何とかなりそうです。幸いな事に、魔術陣には影響がないようですから」
ナミヴィアは安堵の溜息を吐き、背後の小太郎からは弛緩した空気が漂う。
「ただ、少々お時間を頂かなければいけませんが……」
申し訳なさそうに告げる店主に対して、再申請をしなくて済んだナミヴィアは安堵の笑みを浮かべながら返した。
「どれくらい掛かりそうですか?」
「七――いえ、十日は掛かると思います。一度ばらして再調整した後、外装部分を新調しなければなりませんので」
店主の言葉を受けたナミヴィアがチラリ、と後ろへ目をやると、小太郎が小さく頷いた。
「お願いします」
「賜りました。それと……」
笑顔で快く引き受けてくれたのだがその直後、店主は言い難そうに困った表情を浮かべた。
何故そんな表情を浮かべたのかは、ナミヴィアも察しが付いた。
「幾らくらい掛かりそうですか?」
自分から料金の事を言わずに済んで店主はほっとしたのか、安心した表情を浮かべていた。
「二十三万テソくらいになるかと思います」
くらい、と言うのだから、もう少し掛かる可能性もあるが、ナミヴィアが小太郎の方を確認すると、問題ない、とばかりに大きく頷いていた。
「大丈夫です」
この一言で店主は、今度こそ満面の笑みを浮かべた。
「それでは、十日後にお引渡し致します」
「はい、よろしくお願いします」
「本日は当店をご利用頂き、誠にありがとうございました」
店主は深々と腰を折り、礼を述べた。
二人も軽く会釈を返すと、入った時と同じように棚の物を器用に躱しながら、扉を開けて店外へと出て行った。
二人の姿が扉に遮られて見えなくなった瞬間、顔を挙げる途中の店主の口元がこの上もなく邪悪な笑みを浮かべた様にも見えたが、扉が完全に閉まった時には何時もの柔和な表情を浮かべながら、店の奥へと戻って行った。
*
ナミヴィアに腕を引かれながら、小太郎は村の通りを歩く。
この行為が必要無い事くらい、彼女も重々承知しているのだが、盲目の者が杖無しで普通に歩いていると悪目立ちをするので、現状ではこれがベストと言えた。
尤も、腕を引く、と言うよりも、腕を組む、と言った方が良いくらい密着しているので、別の意味で二人は目立っていたが。
そんな二人を見掛けた村人達は、すれ違うと同時に温かな眼差しを向け、挨拶を投げ掛ける。
当然の如く二人も挨拶を返し、その様は既に村人の一員に見えなくもない。
無論、本当に溶け込んだ訳ではないのだが、フィグ村の住民が二人を好意的に受け止めている現れとも言えるだろう。
雑貨屋の次に二人が足を向けたのは、教会だった。
小さな村なので大きさは然程でもないが、村の家々と比べればかなり立派な造りだ。
屋根は村で一番の高さを誇り、その上には教会の象徴たる十字を掲げ、白い石で組まれた壁は清涼感に溢れている。窓の一部には色硝子を使い、神の使いとされる天使が様々な姿で描かれ、入り口の扉は一番高い所で三メートル程もある木製で、上部は優雅なアーチを形作る両開きの扉であり、鉄の板で補強されて強度を持たせていた。
その扉へと続く階段は堅牢な石組で、数段上った所にある。
重量感のある扉を開ければ、身廊の一番奥にある色硝子を背景にした教会の象徴たる十字がまず目に飛び込み、その手前、一段下がった所に祭壇が設けられている。更にもう一段下がると講壇があった。
身廊の真上の天井は高く幾つものアーチが連なっており、そこに沿って何本もの柱で支えている。そこを挟んで長椅子が何列も続き、長椅子の両端は側廊が走っていた。内部は色硝子から取り込まれた光で幻想的な雰囲気を醸し出し、荘厳な雰囲気さえある。
別世界。
この場所は、現世と隔絶された場なのだと、ナミヴィアは何時も思う。
敬虔な信徒でなくとも謙虚な気持ちに成り、懺悔を始めてしまいそうな気持ちが沸き起こる。
だが隣にいる者に目を向ければ、そんな気持ちも直ぐに吹き飛んだ。
何故か面白くも無さそうに口をへの字に曲げて、不満そうな雰囲気な纏わせて居たのだから。
「何か不満でもあるの?」
思わず、といった感じでナミヴィアの口が滑った。
「――いや」
「顔に出てるわよ? 〝ここに居たくない〟って」
図星だったのか小太郎は口を噤み、ここ迄で結構、と言わんばかりに組んでいた腕を解くと、一人で更に奥へ進もうする。
用事があると言うから、ナミヴィアは彼と共にここへと足を運んだのに、これ以上は付いて来なくても良い、という態度を取られた彼女は、カチンと来たのか不機嫌な表情を露わにした。
確かに彼は杖さえあれば一人で訪れる事が出来たであろうし、人目さえ気にしなければ杖無しでも問題ない。だが、目立つ訳にはいかない、と言う理由でナミヴィアに同行を頼んでいた。
それなのに最後の最後でこんな態度を取られてしまったら、ナミヴィアで無くとも怒りが湧くのは必然。
「ちょっと、何よ今の態度はっ! 悪目立ちしたくないから、ってあんたから言って来たんじゃないの! だからあたしも来たのに!」
結果、静寂が漂う教会内に、彼女の怒声が響き渡る羽目となった。
怒鳴られた所為か、それとも自分でも不味い事をしたと、感じたのかは分からない。
小太郎の歩みは半歩程前へ出た時点で止まる。
同時にナミヴィアの足も僅かに遅れて半歩分前へと動き、小太郎に向かって更に文句を言おうと彼女が口を開き掛けた時、
「喧嘩腰はいけませんよ。それでは相手の方も理由を話し難くなるだけです」
柔らかく温かみのある声が諭して来た。
開き掛けた口を噤んで顔を向ければ、そこには目を細めて穏やかな笑みを浮かべる、老年に差し掛かり始めた人物が、簡素な黒い祭服に身を包んでこちらへ向かって歩を進めていた。
何時姿を見せたのかは定かではないが、恥ずかしい場面を見られたからか、ナミヴィアが内心で狼狽えていると、頭上から声が降ってきた。
「これは俺の不徳が招いた事です。どうか、お許し願いたい」
そちらへと目線を移せば、小太郎が深々と腰を折って謝罪していた。
余りにも早過ぎる変わり身にナミヴィアは、呆れを通り越して先程とは違った怒りすら湧き始める。
一発ぶち込んでやろうかしら? と物騒な思いが浮かび、腰の銃へと手を伸ばし掛けたが、今ここでそれをやればどんな結果を招くか等、分かり切った事。
なので彼女は拳を握り締めてグッと堪え、小太郎を横目で睨み付けるだけに留めた。
温かな目線を向けながら二人の傍まで来た人物は、小太郎の懺悔とも言えない謝罪を聞き、頷いた。
「正直に話した貴方を、神はお許しになられました。しかし、日々の努力を怠らず、精進する事だけは忘れないで下さい。それこそが神の教えに沿う事なのですから」
胸前で十字を切り、両手を組んで厳かに伝える。
敬虔な信徒は斯く在るべし、といった雰囲気で小太郎は再度頭を下げて、礼を述べた。
「神の寛大な御心に、感謝致します」
その言葉に司祭は深く頷き、満足げな微笑みを浮かべた。
この遣り取り自体、教会内では特別珍しいものではない。
但し、この場合は、小太郎が相手では無ければ、と注釈が付く。
小太郎自身、この宗教の洗礼を受けていないので信者でもないし、況してや神を敬ってもいない。それは教会へ入った時の態度を見れば明らかであり、宗教自体を疎ましく思っている節すらある。
そんな人物が神の御心などと口にするのだから、滑稽としか言いようがない。
ただ彼は、宗教を否定する事だけはしない。
何故ならば、それで救われる者もいると知っているから。
しかし、それを知らないナミヴィアが心の内で「敬ってないくせに、何が感謝しますよ」と罵っていた事は、たぶん神でさえも気付きはしなかっただろう。
無論、小太郎と司祭もそれは同じだ。
そんな二人を前にして、慈愛に満ちた笑みを浮かべる司祭は、一つの勘違いをしていた。
詰まり――、
「お二人がここを訪れたのは、もしかして、婚儀の日取りの相談ですかな?」
村での評判と、二人が揃って教会へ来た事に加えて、先程のちょっとした悶着も、この勘違いに拍車を掛けていたのは言うまでもない。
言われた二人の顔は、目に見える速さで赤く染まって行く。
ナミヴィアなど耳まで染め抜き、頭のてっぺんから湯気でも噴き出しそうな程だ、しかも俯いて何やらぶつぶつと呟きながら、口の端が少しだけ緩んでいる。
「いや、これは失礼。私が口にすべき事ではありませんでしたね」
そう言いながらも司祭は更に笑みを濃くして、初々しい反応を示す二人を見詰めていた。
微妙に嬉しそうなナミヴィアに対して、顔を赤くしながらも小太郎の表情は、何時もと同じ憮然としたもの。
心情としては、嬉しくないと言えば嘘になる。
だがここへと赴いた理由が、それを顔に出す事を良しとしなかった。
小太郎の中では、何よりも優先すべき事柄であったからだ。
「司祭様、お尋ねしたい事があります」
そんな小太郎の、何時ものぶっきら棒さの欠片もない言葉使いは、ニヨニヨとしていたナミヴィアの顔を一瞬で向けさせ、驚きに目を見開かせた。
照れ隠しにも似た真剣な態度を見せる小太郎に、司祭も浮かべていた笑みを消して厳かな表情に変わった。
「何ですかな?」
自分で聞きたい事が有ると口にしながら、小太郎は僅かに迷いを見せる。
だが結局の所、何れは聞かなければならない事だと覚悟を決め、意を決して口を開いた。
「――司祭様は、ご存知ないですか? 神と、対話出来る場所を」
司祭は眉間に皺を寄せて険しい表情を取り、ナミヴィアは目を丸くして絶句した。
何故、小太郎が神との対話を望むのかは分からない。だが、信徒でもなく、況してや聖人でもない者が対話など出来る筈もない。しかも、聖人ですら自らが望んでの対話など出来ないのだ。
しかし、ほぼ実現不可能な事を聞く彼の声には、切実な思いが込められていた。
小太郎はその思いを口にはしなかったが、司祭は険しい表情のまま顎に手を当てて、考え込んだ。
一方、ナミヴィアは驚きで言葉を失ってはいたものの、暫くして我に返った後、小太郎の放った質問を反芻して呆れていた。
「あんたねえ、神様と対話なんて出来る訳ないじゃない。あたしでも夢で御告げを聞いたとか、そういうのしか知らないのよ? それに――」
「聖地ならば、或いは……」
どこか小太郎の問いを肯定する様な響きを持った司祭の声に、ナミヴィアは話を止めて顔を向けた。
「そ、それはどこに――!」
だが小太郎の反応は違った。
つっと前へ出て、司祭の両肩をガシっと掴んだのだ。
咄嗟の事にナミヴィアも止める事が出来ず、迸る気配に声も掛けられなかった。
そこには絶望の中にあってやっと見付けた微かな希望の光を離すまいとする、鬼気迫るものがあったからだ。
突然の行為に驚きで目を見開くも司祭は直ぐに柔和な表情を取り戻し、指が食い込み始めた小太郎の手を優しく包み込んで、肩から降ろした。
「慌てないで下さい。神は何時でも貴方を見守って居られるのですから」
諭され、優しい力に触れた小太郎は、自分の気持ちが酷く急いてしまっていた事に気が付かされた。
「す、済みません」
深々と腰を折って謝罪した小太郎に、司祭は優しさの中に真剣さを混ぜ込んだ表情を向ける。
「貴方が何を欲して神との対話を求めて居るのかは分かりませんし、可能性など、それこそ砂漠に混じった一粒の麦を探す様なものでしょう。本来ならば不可能です、と言ってしまいたいのですが、神の子でもありイリス教教祖のイリス様と、そのお弟子様達が聖地で神と対話をした、とも聖典にはあります。ですから、可能である、と言えなくもありません。ただ、聖地へと赴く為には、洗礼を受けて入信して頂く必要があります。でなければ聖地の場所は、絶対にお教えする事は出来ません」
この話を聞いた小太郎の口元には、葛藤が見て取れた。
目的の為にはこの方法が一番手っ取り早い事も分かっているし、他の方法――例えば力ずく――では不可能に近い事も察していた。
だが、心情的に宗教と言うものを快く思っていない彼には、強い抵抗感があった。
そんな小太郎の事を察したのか、無理強いはしませんが、と前置きをして、
「本来、入信したての信徒の方には教義をお教えする為に数日間通って頂くのですが、今回に限りそれは後回しにして、私が知る限りの聖地に関する事をお教えしましょう」
甘言とも取れる提案をして来た。
小太郎の心は揺れる。
しかし、即決だけはしなかった。
「暫く、考えさせて、下さい」
やっとそれだけを絞り出し、頭を下げてから背を向けた。
司祭は悩む背中を向けた小太郎に、温かな眼差しを向けながら口を開いた。
「己が心と対話し、存分に悩みなさい。そして答えを見付けたならば、またここに来なさい。その時まで、今日の神の御導きが無駄にならぬよう、祈っていますよ」
教会の外へと向かって歩を踏み出した小太郎の腕をナミヴィアは慌てて取りながら、心配そうな表情で、彼の横顔を見詰める。
そして司祭を含めた三人は、教会の奥の片隅から視線を注ぐ者が居た事など、終ぞ気が付く事は無かった。