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届かぬ思いと怒りの咆哮


「何やってるのよ! あのクソ女!」

シャロンが吠えた。出掛ける時間になり、身支度も整えガレージに降りたが車がない。言いつけたことも守らずに何をやっているのか。何よりセレブである自分が、あの無能なメイドを捜して家中を駆け回っているのが許せない。戻ってきたら酷い目に遭わせてやる。そう息巻き、肩をいからせ頭からは湯気が立ち昇っている。

 もう少しでぶち破りそうなほど、勢いよくリビングのドアを開けた時だった。すぐ横の壁に掛けられた電話が鳴った。シャロンはしばらくその電話を睨みつける。誰も出ない。自分の携帯でもない家の電話に何故出なければいけないのか。電話の取次ぎなど使用人の仕事だろう。腹立たしくて仕方ないが、もしかしたらバカメイドからの電話で、渋滞にはまっているとかスピード違反で警察に捕まっているとかの連絡かもしれない。そうなら思いきり罵倒してやろうと思い受話器を取った。

「マ、マ、マ、マシューズか? お、お前の……む、娘は預かった。か、返して……ほ、欲しかったら俺の言うことを聞くか? いや、き、聞くんだ!」

てっきりあのメキシコ女かと思っていたのに、聞き慣れない男の声だった。しかも上擦っていてところどころ裏返り、しどろもどろで聞き取りづらい。こんな訳の分からない電話に付き合っている場合じゃないのだ。

「……いいか、俺の要求は──」

「あんたバッカじゃないの!」

大声でそれだけ言い放つと、シャロンは受話器を叩きつけた。


 足元はゴミだらけの電話ボックスの中。キンキンと痛む耳から離した受話器を男は呆然と見つめている。今のはいったい何なのか。考えてもよく分からない。男は首を傾げながら受話器を戻した。しばらく電話機を見つめていたが、ひとまず出直すつもりでボックスを後にし、一ブロック先のアパートへ向かって歩き出した。


 部屋に一人残されたマリアは、何とか逃げ出せないものかと縛られた手足をばたつかせた。しかし椅子がぎしぎしと鳴っただけで解くことはできない。疲れて諦めたところへ微かに音楽が聞こえてきた。耳を澄ますと、それはファンファーレのような明るい音楽で、その後に大きな笑い声が聞こえる。どうやら隣の部屋の中年女性がテレビを見ているらしい。見るからに安普請のアパートだ。壁なんて、きっとファストフード・チェーンのハンバーガー・パテほどの厚みしかないだろう。そしてあの男は「騒ぐな」「大声を出すな」と警告した。ということは、マリアが騒いで大声を出せば、あの男にとって不都合なことが起きるのだろう。すなわちそれは、マリアにとって都合が良いということだ。男は隣人を恐れているようだし、あの女性なら助け出してくれるかもしれない。

 この汚い部屋の空気には抵抗があるが背に腹は換えられない。マリアは口を開けると思い切り息を吸い込んだ。

「誰か! 助けて! 殺される!」

「うるさい! もっと静かにやれ! このエロガキ!」

隣人が大きな声で怒鳴り、壁を激しく叩いてきた。その衝撃で壁に接した本棚の上から写真立てが落ちる。どうやら、とてつもなく厄介な勘違いをされてしまったようだ。

「ああ……」

絶望を滲ませた呻き声を上げ首を振ったマリアは、キッチンに積み上げられた汚れた食器に蝿が集っているのに気付き身震いした。


 グラントが運転する車の後部座席でふんぞり返るマシューズ。彼はブリーフケースの中の小さな薬のビンを眺めてにやついていた。

「これをワインにでも混ぜれば……」

もちろん医者の処方箋がなければ絶対に入手できない代物だ。これがあれば、たとえ岩のように堅物な尼僧でも思いのままにできる。そこらへんのガキ共が濫用しているような、不純物の多いエクスタシーとはわけが違う。

「クックックッ……」

「何です?」

つい漏れ出てしまった笑い声をグラントに聞かれてしまった。マシューズは緩みきった口元を強く引き締めた。

「何でもない。運転に集中しろ。早く帰りたいんだ」

「あ、はい。失礼しました」

威圧的なマシューズの声に恐れおののき、グラントは前を向くと車のスピードを上げた。

 はやる気持ちを抑え邸の入口を開けたマシューズだったが、マリアが出迎えに来ないことに疑問を覚えた。すると、どたどたとけたたましい音を立てて誰かが階段を駆け下りてくる。このガサツさ、マリアでは有り得ない。

 案の定、マリアではなくシャロンが、近寄る者は誰彼構わずぶっ飛ばしそうな勢いで突進してきた。

「マリアは?」

「マリアはどこだ?」

二人同時に口を開き、顔を見合わせた。


 男は何度も首を傾げながら自分の部屋があるアパートへ戻ってきた。ドアの前で足を止め、額に手をあてて電話での遣り取りについて考えを巡らそうとする。すると隣の部屋のドアが開き、再び大家の女性が姿を現した。その表情は家賃の支払いが遅れていることへの怒りではなく、見下すような冷笑が浮かんでいる。

「ふんっ! 呆れ返るほどの早さだね。彼女も可哀想に。家賃もそれぐらい早く払えばいいのに!」

言い捨てると部屋の中に入り、大きな音を立ててドアを閉めた。何のことか男にはさっぱり理解出来ないが、とりあえずバカにするためだけに部屋から出てきたのだということは分かった。

 ドアを開けるとすぐ、部屋を出てきた時と同じように椅子に座っている女の姿が見える。俯いており、長い黒髪で隠れていて表情は見えない。

「おい」

声を掛けると、女は疲れきった顔を上げた。男はこの時、初めてまともに女を見た。おそらく怯えているのだろう、長い睫毛に縁取られた目には陰が差し、ピンクの薔薇の花びらのような唇は微かに震えている。

 自分がしたことを改めて自覚した男はその姿を哀れに感じ、女の前に胡坐をかいて座りこんだ。電話に出た人物がどういう関係なのかは分からないが、おそらくはこの女の家族だろう。しかし、家族が誘拐されたというのに、何の関心もないようだった。

「お前……家族と上手くいってないのか?」

いきなり質問をしたことで、女は困惑したように眉をひそめた。


 マシューズ親子が首を傾げている中、邸のインターホンが鳴った。グラントが開けたドアから入ってきたのは二人の制服警官だ。

「シャロン・マシューズさんは?」

「私だけど、何なのよ?」

高飛車に両手を腰にあて、つんと鼻を上向かせながらシャロンが警官の前に歩み出た。二人の警官は微妙な空気で暫し互いの顔を見合わせてから口を開いた。

「実は、シーダーヒルの山道で、あなたが所有する車が事故を起こしましてね──」

警官が説明を終える前に、シャロンはいきなりその胸倉を摑んだ。

「あのクソ女! 殺してやる!」


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