望めぬ救済と汚れた巣穴
市街地の外れ、酒場やいかがわしい店が建ち並ぶ路地で車は停まった。男はシフトノブから手錠を外すと自身の右手首に掛けた。マリアが逃げるのではないかと警戒しているようだ。
「降りるぞ」
「痛い!」
男が勢いよくドアを開け片脚を外に出すとマリアの腕が引っ張られ、思わず声を上げた。手錠で繋がれているのだから当たり前だ。
「あ……ど、どうしよう……」
それぞれのドアから出ることができないと分かった男は、ただおろおろとうろたえている。
「バカなの?」
男が逆上すると困るので、喉まで出かかった言葉をマリアは飲み込んだ。
苦労の末、助手席のドアから一緒に車を降りた。目の前には、落書きやたくさんの張り紙で壁が埋められている赤レンガ造りの古びたアパートがある。そして通りには、平日の午後だというのに何をするでもなく道端に座り込んでたむろしている者達がたくさんいる。比較的に治安が良いといわれるサンディエゴだが、どこの街にもこういう掃き溜めのような場所はあるものだ。
男は何やら荷物を取り出そうと乱雑な後部座席に上半身を突っ込んだ。自身で手錠を掛けた右手が利き腕らしいのだが、左手だけしか動かせないので思うようにいかず、悪態を洩らしながらもたもたしている。しかも男が動くたびにマリアの左手が引っ張られるのだ。この男の段取りの悪さには呆れるしかない。
それにしても、この辺りにたむろしている者達は、手錠で繋がれた男女を見て何かおかしいと思わないのだろうか。どう見たって異常だろう。現在進行形の犯罪が目の前で繰り広げられているというのに、ここの住民達はまったくの知らん振りだ。それがマリアには不可解だった。すると、似たような黒いレザーに身を包み赤いモヒカンまでお揃いにしたパンクスのカップルが、互いの首を太い鎖で繋ぎ仲睦まじく通り過ぎていくのが目に入り、マリアは納得すると同時に頭をうな垂れた。
この非常事態を誰かに気付いてもらうというのは甘い考えだと悟り、それならば自分からアピールしなければ、とマリアは辺りを見回した。自分が立っている歩道の先に一人の老婦人がいる。買い物袋を抱え、周りの大多数を占める無気力な住民とは違い、しっかりとした足取りでこちらへ向かって歩いてくる。あの老婦人ならば、きっとまともな感覚を持ち合わせているに違いない。そう思ったマリアは、男に気付かれないように、繋がれた手錠の余裕を保ったまま一歩後ろに下がった。
「私さらわれたんです。お願い、助けて!」
早足で通り過ぎようとした老婦人の腕を摑み、マリアは潜めた声で助けを求めた。立ち止まった老婦人は苛立たしげにマリアを睨みつけた。
「それがどうした? あたしの亭主はね、宇宙人にさらわれて頭ん中に未知のコンピューターを埋め込まれたって騒いで、今じゃ鉄格子のついた病室で一日中UFOを呼んでるよ! まったくもう、こっちは生きてくだけで精一杯だってのに!」
吐き捨てるように言い放つと、腕を摑んでいるマリアの手を振りほどき、肩をいからせて大股で歩き去った。ただ呆然とするしかない彼女を残して。
そうこうしているうちに男がモスグリーンのナップザックを取り出し、アパートの中へマリアを連れて入った。薄暗い通路の片側に、色褪せた青い金属のドアが幾つも並んでいる。中には何かの督促状がべたべたと重ねて張られている部屋もある。マリアはきょろきょろと辺りを見回しながら、人間二人がやっとすれ違うことが出来る程度の狭い階段を上る男について行く。スナック菓子の空袋や紙コップなどのゴミが散乱する二階の廊下を歩き、突き当りのドアの前で男は立ち止まった。
「いいか、大声出すなよ」
ジーンズのポケットを探りながら、すぐ背後に立つマリアに警告する。アパートに入ったあたりから絶望に打ちひしがれているマリアは黙って頷いた。
鍵を開け、男がドアノブを回した時、突然隣の部屋のドアが勢いよく開いた。
「ちょっとアンタ! 今月の家賃はどうしたんだい? 早いとこ払ってもらわないと困るんだよ!」
赤毛にカーラーを巻き、黄色い小花模様の色褪せた青地のワンピースを着た小太りの中年女性が腰に両手をあて大声で怒鳴りだした。
「あ──」
マリアは助けを求めようと声を上げた。しかし男は慌ててその口を塞ぎ、マリアを自室のドアの内側へ押しやった。
「すいません! あの……二、三日中に払いますから……」
男はおどおどし、上擦った声で応える。
「まったく! 女連れ込んでる暇があるなら、さっさと家賃払いな!」
どうやらこの辺の住民は、誰もが何かに対して腹を立てているらしい。マリアがそんなことを考えている間に、アパートの建物全体を揺るがす程の、ドアが閉まる大きな音が響いてきた。恐怖に身を縮こまらせていた男は大きな息をつくとマリアの背中を押して自室へ入った。
あまり日当たりのよくない薄暗い部屋。風通しも悪く埃臭い。あきらかに脱いだままの汚れた服や、ジャンクフードの箱などが無造作に散らばる中でマリアは椅子に座らされている。両手は背もたれの後ろで手錠を掛けられ、両足首も椅子の脚と一緒にロープで縛られてしまった。
男は相変わらず滝のような汗をかいていて、動くたびに不快な匂いが漂ってくる。自身でもこの状況にかなり緊張しているのだろうし、あの大家らしい女性が相当怖いようだ。今はそわそわしながら腕を組み、部屋中を歩き回っている。
こんな男の言いなりになっている自分が情けなくてマリアは泣きたくなってきた。
「あの……」
マリアが声を掛けると男は弾かれたように顔を向けたが、すぐに目線を逸らした。この男は最初からそうなのだ。決してマリアと目を合わせようとしない。
「な、何だよ」
「お金だったら、バッグの中に財布があります。そこから好きなだけ取っていいですから、私を放してください」
男はそっぽを向いたまま「ふんっ」と嘲るように鼻を鳴らした。
「お前ら金持ちはみんなそれだ。金で何でも解決できると思ってやがる。金の問題じゃないんだ!」
それなら何が目的なのか。ふと頭をよぎった考えにマリアは身震いした。男は腕を組み、落ち着かなげに部屋の中を歩き続けている。
「あ、あなたは……私をレイプして殺すつもりですか?」
単刀直入に尋ねたマリアは唇をきつく結び男を睨みつけた。そんなことをすれば、生きたまま地獄の火に焼かれるぞ、と脅して思いとどまらせるつもりで。
「な、何言ってんだよ!」
男は立ち止まり、心外だとばかりに真っ赤な顔で声を荒げた。
「そんなことするもんか! 俺がそんな人間に見えるか? まったく、人を何だと思ってるんだ!」
「……人さらい」
「ぐっ……」
マリアの指摘に男は言葉をつまらせた。
それから男は再び部屋の中を歩き回る。自分がしでかしたことをやっと認識したのか、先程よりも大量の汗をかいている。
「俺の目的はそんなことじゃない……」
男はぶつぶつと呟き、急に足を止めるとマリアを指差した。
「そうだ! お前の親父がやったことを償わせるんだ」
「は? いえ、私には親父なんて……」
首を振りながら否定したマリアを遮り、男は勢いよく部屋の入口へ向かった。
「そうだ、電話だ! マシューズに俺の要求を突きつけてやる! 電話番号だって知ってるんだからな! まったく、親に買ってもらった外車で夜遊びしやがって! いいか、騒ぐなよ」
ドアノブに手を掛けた男はマリアに言い捨てた。
「あの……ちょっと……」
声を掛けたマリアを部屋に置き去りにし、男は外へ飛び出していった。
あの男がとてつもない誤解をしていることが理解できた。マシューズと何か関係があるようだが、自分を娘のシャロンと間違えているのだ。
「ああ……神様」
椅子に縛り付けられたまま取り残されたマリアは、染みだらけの天井を仰いで呟いた。




