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貪欲な狐と汗だくの狼  


 マシューズが院長室に戻るとすぐ扉にノックがあり、経理課のミス・オコナーが入ってきた。

「今月もERは赤字を出しそうですね。昨夜も、道端に倒れていたっていうホームレスの糖尿病患者を受け入れていましたし。もちろん私が今朝追い出しましたけどね」

「まったく、あんなお荷物は閉鎖してしまえばいいんだ」

この病院の救急救命室長は暑苦しいほどの熱血漢で困る。マシューズが忌々しげに顔をしかめると、オコナーは緩んだ口元を手で隠しながら言葉を返した。

「それでも、去年みたいなこともありましたし」

マシューズは低い唸り声を上げて頷いた。

 一年ほど前、視察旅行と称してバカンスに来ていた政府高官と、清純派として人気の若手女優が繋がった状態で緊急搬送されてきたのだ。その後は双方の関係者から多額の口止め料が入ってきた。もし、あの二人が別の病院に搬送されていたとしたら、マシューズは悔しくて地団駄を踏んでいただろう。政府高官と女優との不倫ほど極端な例ではなくとも、ここ界隈ではそういったセレブ達の不都合な秘め事も多い。上手く隠れ蓑になってやることで、税金の掛からない収益がもたらされる。

 腕を組み思案するマシューズの前で、オコナーは身体をくねらせながらソファーに浅く腰掛けた。マシューズに絡みつくような視線を投げ掛けながら着ているジャケットのボタンをひとつ外すと深い胸の谷間が現れた。下には何も着けていないのが見て取れる。さらにゆっくりと長い脚を組み、真っ赤な口元を引き上げて誘うように笑いかけた。

 三十代半ばのオコナーとは五年前から関係がある。肉感的でセクシーな彼女には楽しませてもらったが、マリアと比べるとその魅力も色褪せて見える。厚い化粧のせいか目も口も大き過ぎるし、おまけに男を誘う態度には品のなさを感じてしまう。そよ風に揺られる可憐なすみれがマリアだとしたら、オコナーはどぎつい腐臭で誘い出した虫を喰らう食虫植物だ。

 胃がむかむかしてきたマシューズは、ウツボカズラの誘いを無視しジャケットを着込んだ。今夜はマリアとの食事があり、その後のことはもちろん抜け目なく計画済みなのだ。いくら見た目は若いといっても既に五十を超えているわけだし、スタミナはマリアのためにとっておきたい。

 マシューズにその気がないと分かったオコナーは、目玉をぐるっと回して立ち上がった。

「あまりドクターをいじめないで下さいね。クロフォードの時みたいなことが何回も起こると、病院の評判に関わりますから」

「ふんっ」

オコナーの忠告をマシューズが鼻であしらうと、ドアにノックがありグラントが入ってきた。一刻も早く帰りたいマシューズは、オコナーが来る前に電話で呼び出していたのだ。

「あんまり患者をないがしろにしたらダメよ」

点数稼ぎのため診察を切り上げてやって来たグラントの頬をオコナーが両手で挟み、冷やかしの言葉を掛けた。真っ赤なネイルが血を思わせる。グラントは嫌そうに顔をしかめて後退った。

「まるでハエトリグサだな」

マシューズは口の中で呟くと、部屋を出て行くオコナーを見送った。


 ロックが解除されたドアを男は勢いよく開け、マリアの細い手首を乱暴に摑んだ。

「ちょ、ちょっと……」

「いいから一緒に来い!」

有無を言わせぬ男の剣幕にすっかりたじろいでしまったマリアは、抵抗すらできずに車外へ出された。左手を男に摑まれ、右手には自分のバッグを持ってはいるが何かが足りない。振り向くと助手席にそれがあった。

「チリドッグ……」

「うるさい! こっちへ来い!」

助手席へ手を伸ばそうとしたマリアの肩を引き戻し男が怒鳴る。その声に怯えたマリアは、引き摺られるようにマスタングの助手席へ押し込まれた。さらに男はポケットから出した手錠でシフトノブとマリアを繋ぐ。この男が誰なのか分からないが、とにかく自分は囚われてしまったという事実に呆然とするしかない。

 運転席に男が乗り込み、ギアを変えるためシフトノブを動かした。マリアの左手がそれに連動して引っ張られ、金属が柔肌にこすれて痛みが走る。汗で湿った髪に覆われて男の目は見えないが、口はきつく一文字に結ばれている。しかし肩も小鼻も呼吸と共に大きく動いており、男がかなり焦っているのだと分かる。

 マスタングが走り出すと、マリアはドアが開いたまま置き去りにされたポルシェを振り返った。せっかく遠回りまでした買ったチリドッグを乗せたまま、その姿は小さくなっていく。

「あ、あの……忘れ物が……」

「黙ってろよ!」

控えめに声を掛けたつもりのマリアだったが、男の切羽詰った叱責に身を縮こまらせた。

 すると、停まっているポルシェの後ろから突然巨大なトレーラーが現れた。坂を上りきった勢いのまま、トレーラーは無人のポルシェに大きなクラクションを鳴らす。しかし、動くはずもない。誰も乗っていないのだから。トレーラーは軋むような甲高いブレーキ音を上げ、ハンドルを左にきった。しかし完全に避けるには間に合わず、ポルシェの左後部にトレーラーの右前部が激突した。

 それからのことはマリアの目にはスローモーションで映った。弾き飛ばされたポルシェは沿道にそびえ立つ杉の大木にルーフからぶち当たった。その瞬間に浮かんだのは目を吊り上げたシャロンの顔だ。ものすごい剣幕で「弁償しろ」と迫られるに決まっている。あんな高級車の修理代など自分に払えるとは思えない。しかも車内はチリソースだらけになっているだろう。困ったことになった。

 蒼ざめたマリアだったが事態はそれだけに留まらず、突然の爆音と共にポルシェが炎に包まれた。衝撃に首をすくめるも、その目は大きく見開かれ、真っ黒な煙に縁取られた赤い炎を呆然と見つめているだけだ。

「あ……あ……く、車が……」

口が塞がらないため、からからに乾いており、遠ざかって行く炎を見ながらやっと口に出した言葉は途切れ途切れだった。

 あの状態では、もはや修理どころの話ではない。「新しいポルシェを買え」と迫られるだろう。マリアの背筋を冷たい汗が伝った。元はといえば、この事態の発端はこの男だ。何とかしてこの男に車の金を出させることは出来ないか。マリアはそっと運転席に顔を向けた。

「くそっ! くそっ! やっちまった……本当にやっちまった……」

男は車が爆発したことなどまるで気付いていないようで、ハンドルを抱え込むように前に身を乗り出し、滝のような汗をだらだらと流して汚い言葉を呟いている。まともな話などできるわけがない。マリアは溜息をついた。


 なぜこんなことになったのか。やはり今朝、鳥が悪魔に見えたのは予兆だったのだ。もっと用心するべきだったのに、それを怠った自分にも責任があるのではないか。今さら悔やんでも仕方がないが、これから自分がどうなるのか考えるととてつもない恐怖が込み上げる。

 ただひとつだけ明るい面を挙げるとすれば、誘われていた今夜のマシューズとの食事が確実に中止となったことだ。


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