叶わぬ退避と追いすがる白い荒れ馬
会議室へ向かうマシューズの横で、携帯端末を操作しながらグラントが口を開いた。
「ご存知ですか? ダグラス・テック、開発した健康器具で怪我人が続出した──もうあの会社はだめそうですね。今さっき株価も最安値をつけましたよ。確か特別室のクレイトン氏は、この会社の筆頭株主でしたね」
「今日中に精算を済ませて退院させろ」
「いいんですか? 三十年来の友人では?」
グラントが意地の悪い笑みを浮べ茶化すように尋ねたが、マシューズは顔色も変えずにふんと鼻を鳴らしただけだった。
「それも今日で終わりだ。この私の友人でいる価値など、あの男にはもはやない。どうせスキャンダルでマスコミから隠してやっているだけだ。病気でもなんでもない。早く追い出せ」
相変わらず口元ににやけた笑みを浮べたまま、会議室のドアを開けたグラントはマシューズを促した。
マリアは街外れのガソリンスタンドへ車を乗り入れた。もっと駐車場に近い所にもガソリンスタンドはいくつもあったが、ここに併設されたスナックスタンドで売っているチリドッグが気に入っているからだ。今日のランチはここに決めた。
ポルシェから降りたマリアに誰もが目を奪われる。スタンドのスタッフも客も、男も女も。高級車から出てきた美しい彼女を、女優かモデルだとでも思ったのだろう。比翼仕立ての白いシャツ、黒いロングパンツというシンプルな服装がほっそりとした身体を包み、マリアの類稀な容姿をさらに際立たせている。
マリアがメイドという仕事を普段着でこなしているのには訳がある。面接で初めてマシューズに会った時、マリアはスーツ姿で膝丈のタイトスカートを穿いていた。目の前のソファに座り、露になったマリアの膝の辺りをマシューズは食い入るように見つめていたのだ。採用を即決したマシューズは、これまでこの家で働いてきたメイドに着用させてきた、ふくらはぎが隠れる丈の地味な制服を「着なくても良い」とマリアに伝えた。
「こんな服じゃ、まるで使用人みたいだからね」
使用人に何を言っているのか。理解が出来ずに首を傾げたマリアだったが、とにかく仕事を得られたことにほっとした。
マシューズ家の前に何件か面接を受けたが、採用には至らなかったのだ。相手が女性の場合、マリアの美しさには警戒するようだ。おそらく自分の夫がこのメキシコ女を見た途端に鼻の下を伸ばすと予想するのだろう。起こり得ると容易く予想できるトラブルは事前に排除する。当然のことだ。
いくら雇い主が邪な気持ちを抱いているといっても、やっと得られた仕事なのだ。できることなら、このまま続けていたい。働かなければ、どうにもならないからだ。
チリドッグとアイスコーヒーをテイクアウトにしポルシェに戻る。すっきりとした苦味のアイスコーヒーを一口飲み、チリドッグが入った紙袋を助手席に置くと車を発進させた。それに続くように、路肩に停まっていた白いマスタングが走り出した。
車内の時計はちょうど一時を表示した。チリドッグを買うために遠回りをしてしまったが、シャロンが目を覚ますまでには邸に戻ることが出来るだろう。行きのバスが通った道とは違う、アップダウンの激しい山道をラ・コスタ目指して車を走らせる。片側一車線ずつの道路で、両脇に密生する背の高い杉が空を覆い隠し、ほぼ真上にあるはずの太陽も光を射すことが出来ない。この薄暗い山道を走っていると、どうしても今朝マシューズから誘われたことに考えが及ぶ。何か、食事が中止になるような事態でも起こればいい。誰かが急病になるとか。
「ダメよ。何言ってるの……」
ふと湧いた不謹慎な考えを戒めるためにマリアは自分自身に向かって呟いた。
誰かの不幸を願うなどもってのほかだ。それでも今夜起こりうる事態を考えると気が気でない。もし拒んだとしたら、仕事を失うことになりはしないか、と。マリアは重たい気持ちで溜息をつき周囲に視線を遣った。相変わらずの薄暗い山道、対向車線にも前方にも車の姿はない。一人ぼっちだ。差し伸べられる誰かの手もない。急に孤独感に襲われ涙が出そうになる。
右手の甲で目元を拭った時、バックミラーに映る白いマスタングに気付いた。ポルシェといえども、マリアはゆっくりと走っていた。これはシャロンの車であり自分のものではない。スピードを出し過ぎて警察に捕まったり、事故などで車を傷付けようものならシャロンに何をされるか分からない。マリアはいつもきっちりと法定速度を守っている。
あのマスタングはきっと、このポルシェを抜かして先を急ぎたいのだろう。そう思い、道路が直線になったところでマリアは、心持ち右に車を寄せるとファザード・ランプを点灯した。しかし後ろを走るマスタングは前に出ようとしない。運転手は相当な慎重派なのかと考えていると道路は上り勾配になり、マリアはアクセルを軽く踏んだ。前方には、両側から張り出した庇のように生い茂る杉の深い緑と青い空だけが見える。ふと覚えた開放感に後続車のことを忘れた。まるで大空に向かって離陸していくような感覚がしたのだ。
坂の頂上に辿り着いたときだった。自分のすぐ左側にある窓に、白い車の姿が覗いた。運転手の顔は見えないが、てっきり慎重な人物かと思っていたのに、こんな見通しの悪い坂道で追い越しを掛けるなんて、とマリアは少し困惑した。
しばらくすると、マスタングの特徴的な縦に並んだテールライトが見えた。遠目からは真っ白に見えたが、こうして近くに来るとずいぶん汚れているのが分かる。リアウィンドウは埃と汚れで曇っているし、車体にも灰色の条がいくつも入っている。埃が積もった上に雨にでも打たれたのだろう。この辺りで雨が降ったのは一ヶ月も前だから、長い間洗車もしていないのは明らかだ。
そんなことを考えながらも、下り坂でついついスピードが上がりそうになりブレーキペダルに足を置いた時だった。マリアを追い越したマスタングが急にハンドルを右に切った。慌てるマリアの目の前に、いななきのような甲高い金属音を上げたマスタングが、助手席側を向けて停止する。ブレーキペダルに足を置いていたマリアはすぐに反応することができ、強く踏み込むとポルシェはつんのめるように停止した。マリアの用心深さと高性能ブレーキのおかげで衝突せずに済んだが、危うくハンドルに額をぶつけそうになった。
いったいどういうつもりなのか。困惑と激しい鼓動にただ呆気に取られるしかないマリアの目の前で、マスタングの運転席のドアが開き男が一人降りてきた。センターライン近くの車の後部を回り込み、肩をいからせてこちらへ大股で近付いてくる。マリアは恐怖を覚え、急いでドアのロックが掛かっているか確認した。
「車から降りろ!」
案の定、男はポルシェの窓を叩いて声を張り上げた。顎の辺りまで伸びたぼさぼさのダークブロンドで顔はよく見えないが、そこから覗く殺気を帯びた青い目と一瞬視線が合った。おそらく二十代の若者だ。
自分であんな運転をしておいて何を怒っているのか。それともクスリでもやっているのだろうか。マリアのこめかみから汗が一筋流れてくる。
「ドアを開けろよ!」
「嫌です!」
マリアは至極当然な反応をしたつもりだったが、なぜか男はひどくうろたえ始めた。窓を叩く汚れた手は小刻みに震え、汗で湿った髪をかき上げると涙の浮かんだ目が覗く。まさか拒否されるとは思いもしなかったというように。
マリアは通報しようとバッグから携帯電話を取り出したが、動揺しているため手が滑って落としてしまった。アクセルペダルの下にある携帯電話を拾おうとシートベルトを外したところで男が再び窓を叩く。
「おい! 開けろってば!」
切羽詰った男の顔。何か、ただごとではない雰囲気。もしかしたら、あのマスタングの中には病人でも乗っているのかもしれない。マリアからは見えないが、後部座席で誰かが横になって苦しんでいるのかもしれない。今は病院に運ぶ途中で、運悪く車が故障してしまったのだとしたら……。
この男は助けを求めているのかもしれない。現に男が着ているTシャツは汗でぐっしょりと濡れている。車が急停止してからのほんの数分間にかいた汗ではないだろう。
シートベルトのバックルから手を離したマリアは、自分の胸の間をベルトがするすると上がっていく間、眉間に皺を寄せて悩み続けた。命に関わるようなことだったらどうする。この男が威圧的なのは、ただ気が動転しているだけかもしれない。それなのに見捨てていくことなどできない。
マリアは震える手でドアのロックを解除した。この決断が重大な結果をもたらすとも知らずに。