虚構の光と蠢く闇
グラントは三十歳になったばかり。レジデントの身だが、インターンの時から究極のイエスマンとなり、この若さでマシューズの側近の座を勝ち取った。濃紺のスーツに赤いラインが入ったクリーム色のネクタイ、髪は真面目さをアピールするかのように横分けできれいに整えられている。
今日はこれから会議があるということの確認をした後、着替えるためにダイニングを出て行ったマシューズを見送ったグラントがマリアのいるキッチンへ入ってきた。
「やあ、マリア。シャロンは?」
目の保養とばかりにマリアの全身を不躾に眺め回しながら尋ねる。二重人格のグラントは、使用人であるマリアの前ではいたく横柄な態度に出る。明らかにマシューズの後継者を狙っており、娘のシャロンに色目を使っているのだ。この男の興味は、医療よりも病院の経営の方らしい。
「お嬢様はもうお出掛けになりました」
残った果物の皮を捨て、皿をディッシュウォッシャーに入れながら答える。実際シャロンが家を出たのは昨日の夕方だが、今現在も出掛けていることに変わりはない。まったくもって素行の悪いシャロンのことを、マシューズの側近とはいえ他人に口外するのは憚れる。真実とはいえ、これがシャロンの耳に入れば逆恨みされるのはこちらだし、できることなら雇い主の家族の問題に関わりたくはない。
グラントは残念そうに少しだけ顔をしかめた後、マリアが自分の朝食用にと作っておいたブリトーを一口だけかじって放り投げるようにカウンターへ戻した。激辛のエンチラーダソースが口に合わなかったようだ。
「ふん、メヒコの食い物だな」
吐き捨てるように呟きながら、勝手に開けた冷蔵庫の中からマシューズのミネラルウォーターを出して飲み下す。
マシューズが階段を下りてくる足音が聞こえると、見て見ぬ振りをしているマリアをキッチンに残し、グラントは欠伸をしながらダイニングへ向かう。あからさまに本性を晒しても、このメキシコ女のメイドはマシューズに言いつけたりしないと分かっているのだ。少しばかり頭の弱い女だと思っているのかも知れない。ただ、この家族のことに深く関わりたくないだけなのだが。
スーツに着替え玄関へ向かうマシューズの横をグラントがスケジュールを読み上げながら歩く。マリアはその後をついていきながら、今夜の食事の誘いを何とか断れないものかと考えていた。とてつもない身の危険を感じるのだ。
「それじゃマリア、会議が終わったらすぐに戻る。レストランはこっちで選んでおくからね」
まるで新妻にでも話すような口調のマシューズと、俯くマリアをグラントは冷めた目で交互に眺めている。
二人を見送ったマリアは、玄関の重い扉を閉めて溜息をつき浮かない顔でキッチンへと戻る。医者相手に仮病を使うのもどうかと思うし、先約があると言ったら、きっと色々詮索されるのだろう。グラントの歯型が付いた部分を切り落としたブリトーを口に運びながら頭を悩ませる。
朝食が済み、後片付けをしているところに外から激しいダンス音楽が大音量で響いてきた。窓から外を覗くと、ゲートから入ってきた車が玄関までの長いドライブウェイの中程まで達したところだった。それは黒い車体にオレンジ色のファイヤーパターンが描かれたヴァンで、シャロンの車ではない。おおかた昨夜知り合った男に送ってもらったのだろう。こんなことは珍しくもない。
シャロンを出迎えるために玄関の扉を開けると、さらに大きくなる音楽にマリアは顔をしかめる。車からふらふらとした足取りでシャロンが降りてきた。「ぎゃはは」と品のない笑い声を上げながらひらひらと運転席の男に手を振る。黒い髪を肩まで伸ばした男はにやけた笑みを浮べてシャロンに手を振り返したが、玄関に佇むマリアに気付くと呆けたように口を開け、しばらくしてからウィンクをしてきた。しかしマリアが表情を変えずにいると、肩をすくめて車をバックさせ敷地から出て行った。
高級ブランド品であるゴールドのショルダーバッグを引き摺りながらシャロンが歩いてくる。カールのついた長い金髪はもつれ、黒いレザーのベアトップの下からはたるみのある腹が覗いている。
「お帰りなさいませ」
礼儀正しく声を掛けるマリアの横を、低い唸り声を上げながらシャロンが通り過ぎる。酒臭い息と甘ったるいマリファナの匂いが鼻につき、マリアは呆れて首を振った。シャロンは現在医学を勉強しているはずなのだが、これでまともな医者になれるのだろうか。将来病気になったとしても、絶対この女にだけは診てもらいたくないとマリアは思う。
「夕方まで寝るから。アンタはあたしの車取ってきて」
「はい……どちらへ?」
シャロンがだるそうにマリアへ顔を向けた。くまなのか、アイラインとマスカラが落ちたのか、目の下が真っ黒だ。
「いつもの所よ」
さも面倒臭そうに吐き捨てたシャロンは、そのまま二階にある自分の部屋へ行くため階段を上がっていく。きっと服も着替えず化粧も落とさずにベッドへ飛び込むのだろう。
医者の娘で、しかも自身も医学を志す身でありながら自堕落なシャロンの後姿を見送ったマリアは、ひとつ溜息をついた。彼女の身持ちの悪さは誰が何を言っても直らない。マリアはそれを分かっている。自分の母親と同じだ。
昨日、半日かけて念入りに掃除をした甲斐があった。汚れが目立ちそうな場所だけ手早く拭き掃除をし、それが終わるとシャロンの車を取りに行くため邸を出た。高台のため目の前には青い空が見え、その下には高級住宅街の大きな屋根がまばらに見える。きれいに整えられた作り物のような椰子の木が並ぶ道を歩いていく。カールズバッドの市街地へ行くためにバスに乗るのだ。
バスの席は半分ぐらいが埋まっている。ほとんどがスパニッシュと黒人だ。ここラ・コスタの街に並ぶ邸宅で働く者達である。全米でも屈指の高級住宅地だ。ここに住んでいる白人はバスになど乗らないだろう。
マリア自身は車を持っている。ダウンタウンの外れに住んでいるロージー叔母さんを訪ねるために買った中古車だ。今は帰りにシャロンの車を運転しなければいけないため、こうしてバスに乗っている。マシューズ家で働き始めてたった六ヶ月の間だが、シャロンにこんなことを言いつけられるのは両手の指でも数え切れない。しかし、わがままでヒステリックな彼女を怒らせるわけにもいかない。金持ちの家に生まれて恵まれ過ぎた生活を送っているのに、なぜ不平や不満ばかり言うのか、マリアには理解ができない。
この路線バスに乗るうちに顔見知りになったキューバ人の老婦人と挨拶を交わして隣に座り、他愛もない天候の話などで時間を潰す。
市街地に着いたのは正午近くだった。バスを降りたマリアは老婦人に別れを告げ、歓楽街への近道である路地に入る。きらびやかな表通りから一変、未回収のゴミ箱に溢れたゴミが異臭を放つ薄暗い通りだ。エアコンの巨大な室外機からは、むっとする熱風が吹きつけてくる。ここは高級レストランの裏手にあたり、金持ちの客達に快適な温度で食事をさせるため、こうして不快な熱気を見えにくいゴミ溜めに集めているのだ。そんな中、レストランの汚れた制服を着た若いスパニッシュの男が、額に玉のような汗を浮べて空のビンが詰まったケースを積み上げている。マリアはその男の背後を通り過ぎ、シャロンが夜な夜な通い続けるクラブを目指す。
光が差す所には必ず陰が出来る。輝くような生活を送る金持ちを陰で支える者達が存在するのだ。安い賃金で重労働を強いられる外国人達。たとえ仕事内容が同じであっても、アメリカ人と比べると彼らの給料はうんと安くなる。いつまで経ってもその垣根は越えられない。ここは近くて遠い国。マリアにはそう思えてならなかった。
昼間のこの時間、クラブは閉まっているが建物の裏に公営の駐車場があり、そこはほぼ満車の状態だ。狭いボックスにいる黒人の管理人は、マリアに気付くとシャロンから預かったキーを出し、車が止まっている場所を教えてくれた。
シルバーのポルシェ911カレラに乗り込む。閉めきった車内は蒸し風呂のような暑さで、イグニッションを回すと窓を全開にした。ポルシェ特有の大きなエンジン音が振動と共に響き渡る。それに少し遅れてカーステレオが作動し、スラングを連発するラップが大音量で流れ出した。停止ボタンを押し、代わりにラジオをオンにする。しばらくチューナーを探ると『ラ・クカラーチャ』を流しているチャンネルがあり、そこで指を止める。ガットギターが刻む軽快なリズムに合わせて指でハンドルを叩きながら駐車場の出口へ向かう。
ガソリンが残り少ないことに気付き、給油のついでに昼食は何にしようかと考えているマリアは、駐車場の向かいにあるカフェから一人の男がじっとこちらを見つめているのには気付かなかった。




