不吉な予兆といつもの朝
急な斜面に作られた道路。眼下に広がる輝く海から目を逸らし、マリアは車の窓ガラスに頭をもたせかけて溜息をついた。顔を俯けると、シフトノブと手錠で繋がれた自分の左手が目に入る。そして耳には、見知らぬ男の荒い息遣い。
何故こんなことになってしまったのか。そんなことを考えながら顔を前に向けると強い陽射しに目が眩み、一瞬だけ視界から全てのものが消え失せた。それと同時に今朝の出来事が頭に甦る。
キッチンの大きな窓へ目を向けたマリアは、グレープフルーツを切る手を止めた。それまで輝いていた朝日が急に翳り、代わりに濃い灰色の雲が湧き上がっていたのだ。太陽に雲がかかることなど珍しくもない。しかし一日の始まりである朝にその瞬間を目にし、さらに理由のつかない胸騒ぎを覚えてしまったことが気になるのだ。
マリアは緩やかな曲線を描く形の良い眉をひそめ、禍々しく太陽に覆いかぶさった雲の一番濃い灰色の部分に目を凝らした。そこに不自然な黒い小さな点が見えたからだ。実際それはずっと手前にあったのだろうが、わけの分からない不安にさいなまれるマリアには、黄泉の国の出入り口のように見える雲の合間から出現してきたように思われた。黒い点は次第に大きくなっていく。こちらへ近付いてきているのが分かった。
何故なのか、それから目が離せない。段々と黒い点だったものが形を成してきた。両翼が見える。それは一回大きく羽ばたいたまま、翼を広げてこちらへ滑空してくる。マリアの心臓が激しく鼓動し始めた。握っているナイフは小刻みに震えているため、カッティングボードに当たりこつこつと音を立てている。迫り来るそれが、頭から角を生やし先端が尖った尻尾を持つ三又の槍を握った悪魔に見えたのだ。マリアは胸の前で素早く十字を切った。
ガラスをぶち破り飛び込んできそうな勢いで飛来してきたそれは、窓の手前で素早く頭をもたげ、焦げ茶色に黒い斑点のある腹を見せたかと思うと窓枠の上部へ姿を消した。なんのことはない、鷹だった。マリアは顔を上向かせて窓枠を見つめたまま、依然として激しく打ち鳴らす鼓動を落ち着かせるため大きく息を吐いた。
腕時計を見る。七時二十分だ。あと十分ほどでマシューズがダイニングのテーブルに着く。マリアは気を取り直しグレープフルーツにナイフの刃をあてた。くし型にして皮を飾り切りにし、金の縁取りがついた皿に盛り付けていく。そうしているうちに先程の不吉な予感は頭の中から締め出されていった。
重厚な扉が開く音でマシューズがダイニングに入ってきたのが分かり、マリアはフルーツを盛った皿とエッグスタンドに載せた固ゆで卵を持ってキッチンを出た。マシューズに半熟卵は出さない。黄身が流れ出してシルクのガウンが汚れるのを嫌うからだ、と前任者から聞かされた。彼女もまたマリアと同じメキシコ人であり、その時にはマシューズから苛立った口調で叱責されたらしい。しかし、マリアが誤って生卵を出したところでマシューズは声を荒げたりなどしないだろう。
「おはようございます」
「おはよう。マリア、今日も美しいね」
テーブルに着きながらマシューズは漂白したような白い歯を覗かせた。
「恐れ入ります」
マリアは無表情を崩さず礼儀正しく応じながらマシューズの前に朝食を置いた。
毎朝繰り返されるやり取り。広く手入れの行き届いた庭が見え、柔らかな朝陽が降り注ぐ窓を背に、マシューズがねっとりと絡みつくような視線を投げてくる。しかし、そんなものにいちいち反応していては、この仕事は務まらない。
さらにプロテイン入り特製ジュースのグラスを置いたマリアの手を握ろうと、マシューズの指が忍び寄ってくる。それが到着する前にマリアはさり気なく手を引っ込めた。フォークを手に取るマシューズの残念そうな顔には気付かぬ振りで、マリアは一歩後ろへ下がる。雇い主には失礼にならないよう、それでいてその気はないことをはっきり示さなければならない。それくらいは心得ている。
少しばかりの果物を口に運ぶマシューズ。彼曰く、朝の栄養はプロテイン入りのジュースとサプリメントで充分であり、果物とゆで卵は咀嚼することで脳に満足感を与えるだけのものらしい。科学的にはそれが正解なのかも知れないが、その考え方にマリアは首を傾げる。食事というのは、栄養を摂るということ以外にも何か意味があるものだろう。例えば、美味しいものを味わいたいという欲求。そして生きていることへの喜び。
食べ物があるということがどんなに有り難いことか、貧しい幼少時代を過ごしたマリアは痛いほどに分かっている。しかし医師であり、大病院の院長という職にあるマシューズにそんなことを意見してもしょうがない。
朝食を終えたマシューズが立ち上がる。がっしりとした体躯に五十代半ばにして豊かな茶色の髪。彼をよく知らない人間ならせいぜい四十前後にしか見えないだろうが、歳を知っているマリアには不自然に思えて仕方がない。ただ、それも問いただすのは無粋の極みだ。家人の事情には極力踏み込まず、不可解だと思われる生活習慣にも動じずそれに合わせる。これがメイドの心得だ。
「マリア、今日は君の誕生日だったね。なるべく早く帰ってくるから、お祝いをしよう」
普通、使用人の誕生日を盛大に祝うものだろうか。ましてやこの家で働き始めてまだ六ヶ月だ。マシューズが何故自分の誕生日を知っているのか、紹介所から送られた経歴の内容を全て憶えているのかと思うと鳥肌が立ってくる。そんな感情を押し殺し、マリアは控えめに首を振った。
「私のためにパーティーなど、もったいないことはおやめ下さい」
「何を言ってるんだ、マリア」
マシューズが微笑みながらマリアの肩に手を置いた。
「別にパーティーを企画しているわけじゃない。レストランを予約しておくから、二人で食事でもしよう」
マシューズの邪な意図が痛いほどに感じられるが、マリアは嫌な顔ひとつせずに無邪気を装って口を開いた。
「それでは、お嬢様もご一緒に……」
マシューズが一瞬だけ嫌悪感も露に眉を寄せた。
彼は、別居中の妻に顔も性格もそっくりな娘のシャロンを嫌っているのだ。
「シャロンはきっと、今夜も出掛けるんだろう」
マシューズの言葉に、そうだろうとマリアも思った。娘のことに関心のないマシューズが知っているかは定かでないが、大学生の彼女は毎晩のように夜遊びに出掛けている。
これまでも、マシューズからの誘いに何だかんだと理由をつけて逃げ回っていたマリアだが、この時ばかりは困ってしまった。使用人を気遣う優しい主人を演じているが、頭の中で蠢いている下心がみえみえなのだ。何とか話をはぐらかせないものかと辺りを見回した時、窓から車の音が聞こえてきた。マリアは胸を撫で下ろし、肩に置かれたマシューズの手から逃れ窓に近付いた。やって来たのはマシューズの秘書をしているグラントだ。
迎えが来たことを告げたマリアは、食事の終わった皿を持ちキッチンへ戻った。




