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夢の残骸と黄昏の恋人たち

 何かを探すように、フレディは車を走らせていく。時折速度を落としては、左右をキョロキョロと見渡したりするのだ。最初は警察を警戒しているのかとマリアは思った。でも、走っているのは街中ではなく、崖の切り立つ海岸線に沿った片側一車線の道路だ。たまにすれ違うのは高級セダンや観光客のレンタカーばかりで、パトカーなど一度も目にしていない。約束までの二時間で、いったい何をしようというのか。

「よし、ここだ」

少し出っ張った崖の地形に沿って、待避所兼休憩所のようなスペースがあり、フレディは右にハンドルをきってそこへ入った。

 崖ギリギリに設置されたフェンスまで車のフロントを寄せると、フレディは固くサイドブレーキを引いた。所々に茶色の葉が茂る枝の隙間から差してくる日差しに目を眇める。車を降りてフェンスまで行くと、眼下には夕陽に照らされた海が広がっていた。


 先ほどの犯人からの電話。どこから掛けられたものかが分かった。郊外にある雑貨店の公衆電話だ。そして、その近くには監禁場所にうってつけな空き家がある。しかも、その空き家の前の持ち主がジェイソン・クロフォードだということも判明した。マリアがそこにいる可能性は極めて高い。

 今朝、モーテルの駐車場から掛かってきた電話。そこからは人質になっているマリアの声も聞こえてきた。ひとまず彼女は無事だってことだ。しかし、さっきの電話じゃマリアの声は聞こえてこなかった。それはどういうことか。ふたりは砂漠のモーテルから、ジェイソン・クロフォードのものだった空き家に移動した。そして、何らかの理由で犯人ひとりが電話を掛けに空き家を出た。人質は空き家に残してきたか、それとも……。最悪の事態が頭に浮かぶ。

 ハケットの言う通り、犯人は誘拐犯の割に良いヤツで、人質を生かしていればいいが……。もどかしさに腹の奥がチリチリと痛んできた。

 犯人の指定した時間まで二時間ある。

「よし! 行くぞ」

立ち上がった俺を、ハケットは口を開けた間抜け面で見上げている。

「桟橋ですかぁ? まだ早いでしょう?」

バカか。素直に犯人の指示に従うつもりでいるのか。

「この空き家だ! 人質がそこにいるかもしれないだろ!」

「昨日から移動しっぱなしで、もう疲れましたよ。せっかく、あと二時間はゆっくりできると思ったのに……」

ああ! もう我慢できない。

「貴様、昨夜は俺が運転する車の助手席で爆睡してやがっただろうが! 俺に向かって『疲れた』とか二度と言うな!」

気付いた時には、俺はハケットの胸倉を掴み、ヤツの爪先は二センチくらい床から浮いていた。

 ハケットを床に下ろし、上がり過ぎた血圧を戻すべく深呼吸を繰り返す。

「先輩、目が血走ってますよ! 怖い!」

全然寝てないんだから当たり前だろ。ていうか、少しは自分の言動を反省しろ。

「君も大変だね」

分析官が口に手を添え、ハケットの耳元で囁く。内緒話のつもりだろうが、聞こえてるんだよ。


 マスタングのボンネットの上。使い古しの擦り切れたラグを敷き、ふたりで肩を寄せ合って、太平洋に沈む夕日を眺めている。この下の海はビーチではないから、奇声を上げてバカ騒ぎしている見るに堪えないボンボンサーファーはいない。沖の方には、鼻持ちならない金持ちのクルーザーが見えるが、この絵画のような景色のいい引き立て役になっているだけだ。

 隣にいるマリアを盗み見る。夕陽を浴びた横顔は形容しがたいほどに美しく、こんな女性がなぜ自分のような男と一緒にいてくれるのか。彼女を見つめていると、ふとそんな疑問が頭の中を漂う。

「いやいや、違う違う」

フレディは心の中で呟き、頭を振った。

「俺が誘拐したからだよ」

それを忘れてはいけない、とフレディは唇を引き締めた。

 もしこの計画を断念していたら、マリアと出会うことはなかった。未だにお互いの存在すら知らず、この先もふたつの人生が交わることはないだろう。

「もっと違う状況で出会いたかった……」

後悔しても遅い。いつまでも逃げ続けるわけにはいかない。こんな状態ではマリアも困るだろうし、それに何より、ジェイソンとの約束を果たさなければ。

 唇を噛みしめたフレディの頬を、日が暮れてきて急に涼しくなった風が撫でていった。

「寒くない?」

ノースリーブのワンピース姿のマリアに訊いた。彼女は俯きがちに小さく首を振り、「大丈夫」と唇の動きだけで伝えた。それがやせ我慢であることはすぐに分かった。腕が微かに震えている。彼女に掛けてやれる上着も持っていない。フレディはマリアの肩に腕を回し、小刻みに震えているその身体を引き寄せた。普段なら恥ずかしくて絶対にできないことだが、寒さにふるえている彼女を黙って見ていることは耐えられなかった。

 マリアは驚いた様子もなければ、身を固くすることもなかった。まるで、ずっと前から恋人同士だったような、自然な仕草で二人は身を寄せ合った。

 もう一度冷たい風が吹いてくると、マリアの顔に掛かった髪を優しく払い、蒼ざめた彼女の唇に自分の唇を重ねた。出会いからの短い間に、こんなにもふたりの絆が深まり嬉しく思うとともに、もしかしたらこの景色のせいかもしれない、ともフレディは考えた。理由なんてなんでもいい。多分、自分の人生で今が一番幸せなのだろう。

『世界一美しい恋人と、マスタングでドライブデートをする』

いつかジェイソンと話した自分の夢を思い出した。

「その先を考えろ。幸福な未来を」

ジェイソンはそう言っていたけれど、今感じているマリアの肌と唇のぬくもりが余りにも心地よくて、他のことなどフレディには考えられない。今朝見た幻想のことなど、頭からすっかり消え去っていた。

「そっかぁ……」

マリアを抱きしめたまま、フレディは溜息をついた。

「俺の夢はもう……叶っちゃってるんだよな……」


 丘の中腹に建つ空き家。そこは『夢の残骸』。一歩足を踏み入れた瞬間に俺が抱いた印象だ。売り出し中らしいが、夕暮れの薄暗さの中では、廃墟にさえ思える。なんか、切なくなってきた。

 ぬかるんだ前庭には、真新しいタイヤの跡。俺の見立てに狂いはなかった。だがしかし、家中くまなく捜したものの、人質も犯人もいない。短い間に二度も空振りに終わった特殊部隊の隊長は、やれやれとばかりに首を振り、労うというよりも憐れみを込めたように俺の肩を叩いていきやがった。

 改装中のキッチンカウンターには一本の倒れたロウソク。家の中は全体的に薄っすらと埃で覆われているが、ロウソクはつやつやときれいなままだ。この家の電気が止まっているのは分かるが、キャンドルの灯りの中でふたりきりってのは、少しばかりロマンティック過ぎやしないか。そして、ロウソクが倒れた時にできたと思われるカウンターの焦げ跡。こういうちょっとした生活感が俺を苛立たせる。

「マリア……あの冴えない男と、いったい何をしているんだ?」

俺の呟きなんか耳に入るわけもないハケットは、しきりにリビングの床をライトで照らしている。

「先輩、ちょっとこれ見てください」

床の上にいくつも残る靴跡。特殊部隊員のコンバットブーツに紛れ、不鮮明なものがある。床を擦ったような跡もあれば、爪先の向きもバラバラだ。そして明らかにサイズの小さな女物の靴。ここで何か激しい動きがあったということだ。これはいったい……。

「ここで争いでもあったんでしょうか?」

「いいや」

鈍いハケットのために、俺はカウンターの上にあるラジオのスイッチを入れた。軽快なジャズが流れてくる。音楽専門チャンネルだ。

「…………」

 とてつもなくモヤモヤしたものが俺の身体中を駆け巡り、こめかみの血管が爆発しそうになる。


 フレディの腕に抱かれ、マリアは遠い昔に誰かと見た夕日のことをふと思い出した。有頂天だったあの少女は、その後谷底に突き落とされる。この恋も悲しい結末になるのだろうか。

「夕陽は嫌い」

マリアは胸の中で呟いた。

 昼間の太陽はいつまでもジリジリとすべてを焦がしていくくせに、夕陽はほんのひと時だけあまりにも美しく優しく、そしてあっという間に海に沈んでしまう。尊い時間は、瞬く間にこの手から滑り落ちていく。

 本当はこのまま、二人でどこか遠くへ逃げてしまいたい。でも、この問題が解決しない限り、フレディの心を手に入れることはできないとマリアは分かっている。そして、ジェイソンとの約束を果たしたとして、彼は無事でいられるのか。

「はぁ……」

どちらに転んでも、幸せな結末など期待できない。

「大丈夫だよ」

マリアの不安を察したのか、フレディが囁いた。どこか、自分自身に言い聞かせているような気がする。

 フレディには申し訳ないが、『大丈夫』という言葉を聞いて、さらに心配だけが募る。離れたくない思いが堪えきれず、マリアはフレディが着ているTシャツの胸の辺りを握りしめた。もう、皺になるとかどうでもいい。すると、肩を抱くフレディの腕にも力がこもる。ふたりの肌が触れている場所だけ熱が上がっていく。

 ふと、マリアは海に目を向けた。すでに濃紫の残照だけが空と海を染め、太陽はその姿を消していた。


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