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幸福な未来と剥がれた鎧

 モーテルの敷地内にあるダイナー。揚げ油の臭いが漂う店内は朝食を摂る宿泊客で賑わっている。フレディとマリアは店の中央辺り、赤と白のチェック模様のクロスが掛けられたテーブルに向かい合い、トーストとコーヒーという軽い朝食を摂っていた。トーストをひとくちかじる度、コーヒーをひとくち飲む度に二人は視線を交わし合い微笑を浮かべる。二人にとって、人生で一番輝かしい朝になった。実際、肌を合わせることは叶わなくとも、お互いを求め合う気持ちはくすぐったいほどに感じられる。それだけで、とても満ち足りていた。

「お待たせしました」

ウェイトレスの声に顔を向けると、隣のテーブルに料理が運ばれたところだった。その席にいるのは老夫婦で、二人の前にスクランブルエッグとトーストが載った皿が置かれた。新しいコーヒーがカップに注がれると、妻は自分のそばにある砂糖を取り、夫のコーヒーに二振り入れる。一方、夫は自分のそばにある塩と胡椒を妻の方へ差し出した。砂糖を置いた妻は、ケチャップを夫へ手渡す。この一連の動作が、一言の会話もなくなされたことにフレディはいささか驚いた。お互いの好み、習慣、全てを知り尽くすほど長く連れ添ってきたのだろう。

 共に寄り添い続ける相手。自分の人生にそういった存在は現れるのだろうか。これまではジェイソンがそうだった。物心ついた時にはもう彼がそばにいて、色々なことから守ってくれた。血の繋がりはないが、たった一人の家族だった。天涯孤独。ジェイソンが死んだ時、悲しみと共にその言葉がフレディの身に重く圧し掛かった。

 ほとんど反射的にフレディはマリアの手を握っていた。

「ど、どうしたんですか?」

戸惑いながらはにかむマリアがやけに可愛く、できればこの手を二度と離したくない。

「あ、いや……その、ずっと一緒にいられたらなぁって。あの人たちみたいに」

顔から火が出そうな言葉も、今なら言えると思い口にした。というか、今言わなくてどうする、という気持ちが強かった。顔を真っ赤にしたマリアが隣のテーブルに目を向ける。肉付きのいい丸顔の妻が、細身の夫と微笑を交わしながら朝食を口に運んでいる。最初は微笑ましそうに見ていたマリアだったが、急に不安そうな翳がその表情をよぎった。

「どうしたの?」

「きっと、私のことを好きでいてくれるのなんて最初のうちだけだわ。歳をとったら、私は絶対太るもの。母親を見ていれば分かるんです」

マリアはそこで一旦口を噤んだものの、何かを決心したように強い口調で続けた。

「貧乏なので、決していい物を食べてるわけではないんです。それでも母は、歳をとるごとに太ってきたとか、体型が崩れてきたとか、すごく気にしていて。私、幸せになったら油断してきっと太ってしまうわ」

「そ、そうかなぁ……」

フレディはマリアの手を握ったまま、まだ見ぬ将来に思いを馳せた。

 輝く朝。そう今朝と同じような。目の前のテーブルには、湯気の立つコーヒーと卵に新鮮な野菜。それらの具を巻いたトルティーヤを頬張っているローティーンの男の子が隣の席にいる。顔つきも髪の色も自分と生き写しで、どうやら息子らしい。ただ父親と違うのは、学校であったことを楽しそうに喋る、とても活発な子供だということだ。どこかカルロスを思い出させる。

 すぐ横にある木枠の窓からは、小さいながらも花の咲く庭が見える。黄色、オレンジ、白の花が濃い緑に縁取られ、笑うように揺れている。

「ああっ! 今朝はチアの練習があるのに、遅れちゃう!」

バタバタと騒々しくダイニングに入ってきたのは、ハイティーンの女の子。大きなトートバッグを肩に掛け、長い黒髪をかき上げながらグラスに入ったオレンジジュースを勢い良く飲み干した。「はぁっ!」と息をついた顔はマリアにそっくりで、しかし若さのせいか、屈託もなくとても無防備に見える。

 外から車のクラクションが響いた。窓を覗くと、家の前に赤いシビックが停まっている。運転席には若い男。

「あ、来た! 行かなきゃ!」

「何だ? あれが彼氏なのか? おい、ちょと待ちなさい!」

「はいはい、行ってきます。パパ」

娘は素早く父親の頬にキスをしてキッチンに向かう。

「はい、お弁当。朝食は食べないの?」

「今ダイエット中だから。行ってきまぁす!」

「まったくもう」

キッチンからマリアの呆れた声が聞こえてくる。そちらへ顔を向けると、彼女の後姿が見えた。サンドイッチを袋に詰めながら、ラジオから流れる音楽に合わせて鼻歌を歌い身体を揺らしている。確かに、その身体の線は今よりも丸みを帯び、特に腰の辺りは幾割り増しか、といったところだ。だからといって、こうして生き生きとしている彼女は、今すぐに抱きしめたくなるほどに魅力的な女性であることは間違いない。

「パパ、何で笑ってるの? キモいよ」

息子の方は、性格までカルロスに似ているらしい。

「いや、何でもないよ」

慌ててマリアから目を逸らして俯いた時、自分の手が目に入った。経年により多少節くれ立っており、薄っすらとだがそばかすのような染みも所々に見える。関節の皺には染み込んだオイルの汚れがあり、昔から得意だった機械いじりの仕事をしているのが分かって少し嬉しくなった。

 家の外では、娘が彼氏の車に乗り込んだところだ。母親に似て美人なのは喜ばしい限りだが、それだけに不安が募る。こういう時、親ならば子供に何と言えばいいのか、経験がないから分からないのだ。

「はぁ……心配だなぁ」

「大丈夫よ」

思わず零れ出た呟きを、テーブルにやって来たマリアに聞かれてしまった。

「あの子は、ああ見えてしっかりしてるのよ。信じてあげましょう」

コーヒーカップを持ち、にっこりとフレディに笑い掛けるマリア。その目尻には、小鳥が残した足跡のような皺が見える。それでも、深く吸い込まれそうな黒い瞳は美しさを失ってはいない。むしろ輝きは増している。笑うとできる目尻の皺は、これまでの年月を彼女が笑顔で過ごしてきたことの証だ。そう思っただけで幸せな気持ちになってくる。


 マリアは段々と不安になってきた。『歳をとったらきっと太る』と言った途端、フレディが放心したように固まってしまったのだ。きっと、将来醜く太った姿を想像し、幻滅してしまったに違いない。

「つまらないことを言わなければよかった」

マリアは後悔した。それでも自分の母親のことを考えると、きっとそうなのだと思う。

 外見の美しさを保ちさえすれば、いつかいい男が自分を見つけてくれる。そう信じていた母親は美貌が衰えていくことに怯え、何とか時間を止めようと無茶なダイエットに精を出しては体調を崩し、男に捨てられてはリバウンドを繰り返していた。その様は、見ていてただ滑稽なだけだ。

 しかし、もしそれが現実なのだとしたら。まだ若いから将来が見通せないだけで、あと十年後には母親と同じ道を辿るのだろうか。顔つきや身体つきもよく似ているし、遺伝子には逆らえないんじゃないか。そう考えるとマリアは絶望的な気分になった。

「いや……」

フレディの声が聞こえ、マリアは俯けていた顔を上げた。

「どんな姿になっても君は君だよ。歳を重ねていくお互いを見つめ合えるのって、すごく幸せなことだと思うし」

どこか遠い場所を見ているような、夢見心地なフレディの顔。家族というものを知らないが故に、憧れが強いだけなのかもしれない。だとしても、口先だけではなく、彼ならば一生大切にしてくれるのではないか、とさえ思えてくる。誠実というよりかは、バカ正直かバカ真面目。女を落とすための打算などフレディには似合わない。

 嬉しさに顔を真っ赤に染めて見つめると、フレディも恥ずかしそうに赤面して頭を掻いた。気持ちが通じ合った二人に言葉はいらない。朝食を摂る人々の喧騒の中、そこだけ時が止まったように見つめ合った。

「パパ、パパ! ほら見て!」

不意に店内に響いた子供の声で我に返り、二人同時に壁際のテーブルへ目を向けた。半円形の席に黒人の親子三人が並んで座っている。三歳か四歳くらいの男の子が、自分の鼻にミニトマトをあてておどけているのを両親に見てもらいたがっているのだ。父親は楽しそうに笑い、母親も吹き出しそうになるのを堪えながらも「食べ物で遊ばないのよ」と優しく窘めている。微笑ましいかぎりの光景で、マリアは目を細めた。フレディもまた、口元を緩めて彼らを眺めていたが、次第にその顔に翳が差してきた。

「ジェイソン……」

小さく呟いた時には、フレディの顔は悲痛に歪んでいた。

「ジェイソンの夢は、家庭を持って幸せに暮らすことだったんだ……」

今にも零れそうな涙を湛えた目を、あの微笑ましい家族に向けた。

「きっと、あんな風に……。だけど、だけど……」

フレディは突然、拳でテーブルを叩いた。

「あ、あの……大丈夫ですか?」

不安に陥ったマリアが声を掛けると、フレディは勢い良く顔を向けた。

「あいつだ! マシューズだ! あいつのせいで……」

「フレディ……」

 怒りに燃えるフレディには、もう目の前にいる自分のことなど見えていない。愛するジェイソンに起こった悲劇、それとマシューズに対する恨み。この問題が解決しなければ、フレディは前に進むことができない。マリアはテーブルに置かれたフレディの拳を両手で包み込んだ。

「彼を生き返らせることはできないけれど、せめて名誉だけでも取り戻してあげなくちゃ。真実を公表するようマシューズさんを説得しましょう」

マシューズが説得に応じるのか、いささか不安が残るものの、早く解決してほしい一心でそんな提案が口から出た。言ってしまってから「少し無謀だったかも」などと思う。しかし、フレディはうんうんと頷いている。

「そうだよな……失敗をジェイソンに押し付けて、自分はのうのうと暮らしてるんだもんな。娘だって、ジェイソンの話じゃ、まだ学生のはずなのに高い車を乗り回して遊びまくりで……。まったく、許せないよな」

シャロンの車の話題が出て、マリアは大事なことを思い出した。

「その車のことなんですけど……」

 マリアが誘拐された時、シャロンのポルシェがトレーラーに追突されて大破し、炎上したことを説明した。フレディの顔がみるみる蒼ざめていく。

「そ、そんなことがあったなんて……知らなかった」

「やっぱり」

そうだと思っていた。あの時フレディは自分のしでかした事に興奮していて、他の出来事など眼に入らなかったのだ。

「シャロン様はかなり強引な方ですから、きっと賠償を迫られるでしょうね」

勾配の激しい山道の真ん中に車を放置する形になったのだ。原因を作ったのはこちらで、追突したトレーラーの運転手には気の毒だったと言うほかない。たとえジェイソンの件が解決したとしても、それはシャロンには何の関係も無いことだ。悪魔のような形相で唾を飛ばし、口汚く罵られる場面を想像したマリアは、ぶるるっと身体を震わせた。

「そ、それはダメだよ。そうだ! 俺にいい考えがある」

フレディは勢い良く立ち上がり、残ったコーヒーを一気に飲み干すと店を出て行った。急いで朝食の代金をテーブルに置き、マリアもフレディの後を追った。


 シャロンの寝室。キングサイズのベッドの上。グラントは首まで上げた上掛けの端を両手で握り締め、恍惚の表情を浮かべていた。いきなり部屋に引っ張り込まれ、獣のようなシャロンに身包みはがされたのだ。それは猫がネズミをなぶり殺しにするように、いたぶられ罵られ辱められた。最初は驚き恐怖したものの、それを通り越すと今まで被っていた理性という殻が外れたような、野生を剥き出しにされた開放感が訪れた。めくるめくような体験。まさか自分にこんな素質があるとは思わなかった。

 隣で大いびきをかいているシャロンに顔を向ける。そのどこまでもふてぶてしい態度にたまらなく胸が疼く。今まで彼女に好意を持ったことなど一度もなかった。色目を使ってきたのは金と地位のためだ。しかし、こうしてシャロンに襲われ、色々な意味で覚醒した。今まで周りにいなかったタイプの女だ。

「僕の女王様」

腕に擦り寄ると、いびきをかいて寝ていたシャロンは豚のように鼻を鳴らし、細く眼を開けてグラントを睨みつけた。

「うざいんだよ、○△□☆野郎」

普段なら耳が腐りそうな罵声も、今の彼女の口から聞くと全然嫌じゃない。この身を甘美に切り裂く鋭いナイフのようだ。

「ああ、もっと言ってほしい」

呟きながら眠りに落ちてゆく。シャロンが部屋を出て行く時の、騒々しく開け閉めするドアの音を聞きながら。


 酒の臭いやら、その他の想像したくない不快な臭気が漂うマシューズ家のリビングルーム。あの信じがたいほどのバカ娘が催したパーティーのせいだ。まったく、自分勝手にもほどがある。そのうえ、大勢のパーティー客の前で事件のことを喋りやがって。本当にロクな奴がいない。

 マシューズが受けた脅迫というのは、スパムメールの類の身内の悪戯だった、ということにして外に集まっていたマスコミに説明し、事件性は無いと断言して追い返した。モスだけは、納得いかないと言わんばかりの不満顔で渋々帰っていった。急場しのぎの嘘が効果を発揮したわけだが、それでも早急に事件を解決しなければ、マスコミを欺き続けるのは難しいだろう。特にモスは要注意だ。長い付き合いだから分かるが、あいつの嗅覚は侮れない。

 何はともあれ、昨夜の捜査ではそれなりの収穫があった。しかし、肝心なのは人質の救出と犯人の逮捕だ。奴は今どこにいる?

 睡眠不足ではあるが、集中力には自信がある。『こどもの家』を出た後、フレディ・クロフォードについて調べるよう依頼した分析官が操作するPCのモニターを注視する。それにしても、驚くほど作業が進んでいない。普段は優秀な分析官なのに。

「もう忘れたほうがいいですよ」

分析官をハケットが隣りで慰めている。なんでも、トラウマになりそうな恐怖体験をしたとか。こうしている間にも、人質の生命は危険に晒されてるってのに。

「あ~あ、喉渇いたぁ」

シャロンがだらだらとした足取りで入ってきた。ぼさぼさ頭でTシャツを身に付け、その下は下着のショーツしか穿いていない。若い娘があられもない姿でリビングルームを通り抜け、キッチンに入っていく。家族以外の人間がいることなど、まるで眼中にないようだ。

 そんなものを見たら母親に叱られるのだろう、ハケットは手で眼を覆っている。まぁ、ホラー映画と同じ扱いってことだ。分析官は胎児のように身体を丸め、呻き声を上げながらぶるぶると震え出した。トラウマの原因はやっぱり彼女か。

「まったく……」

頼むから仕事をしてくれよ。

 神など信じちゃいないが、何らかの力が働いて捜査を妨害しているとしか思えなくなってくる。思わず呪いの言葉を吐きそうになった瞬間、進展は向こうからやってきた。


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