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罪と罰


 目の前の手術台に横たわる患者。いや、患者というのは正しくない。ただ歳を取っているだけで、どこも悪いところはないのだ。強いて挙げるならば、老いたということだろう。そうでなければ、こんな大掛かりな手術にこの歳で耐えられるわけもない。これは手術というよりも、工事というかリフォームと呼ぶにふさわしいのだが。

 アリスは全身麻酔で眠っている。落ち窪んだ眼窩を覆うたるんだ目蓋。化粧というよりも、もはや特殊メイクで荒れたしみだらけの肌。かつてアリスは、類稀な美貌で世界中からの賛美を独占していた。五十年前の話だ。美人女優なんてハリウッドには掃いて捨てるほどいるが、彼女はその中から一歩も二歩も抜きん出ていた。マシューズも幼い頃にアリスが主演した映画を観たことがあるが、まさに眩いばかりに光り輝いていたものだ。それがどうだ、今じゃこんなに醜くなって。このキャリアの中で彼女は、賞賛と栄光と共に傲慢さをも手にしてしまったのだ。素顔で眠る無防備な状態の今、公の場では貼り付けた偽りの笑顔や化粧で隠していた内面が曝け出されている。性格の悪さを象徴する不機嫌に歪んで結ばれた唇。干からびて死んだ二匹の芋虫のように、皺皺でくすんだそれにマシューズは顔をしかめた。かつて若かったアリスがスクリーンの中で喋る度、柔らかく動く唇にときめいていたなんて。まさに詐欺だろう。

 歳を取ることは罪だ。マシューズは常々そう思っている。殊更に女は、若さと美しさにこそ価値があるのだ、と。それはマリアとて例外ではない。今は美しく奥ゆかしい彼女も、歳を取るにしたがって身も心も醜くなっていく。こちらの財力に驚き、豪華な食事やプレゼントに戸惑っているうちが華だ。そのうちそれが当たり前になり、感謝などしなくなる。美しさは衰えていくくせに、傲慢さや横柄さは増していくのだ。結婚なんて最悪だ。若さゆえに早まった行動をずっと後悔している。やっぱり若い女が一番だ。マリアだって今こそが旬なのだ。

「それなのに……」

何故こんなババアの若返り大作戦にかかずらわっているのだ。無性に腹が立ってくる。今はそれどころじゃないのに。

 普段アリスはプラチナブロンドのウィッグを被っている。さすがに手術中の今はそれを取っており、使い古した電球のような頭皮にカビのような白髪がところどころにこびり付いている。腹いせに、その僅かばかり残った髪を毟ってやりたくなった。しかし、そんなことをすれば身の破滅だ。ムズムズする手を必死で抑え、手術に集中しようと深呼吸をした。


「いや、だから本当によく覚えてないんだって」

「そこを何とか、お願いしますよ。ほんとに何でもいいから思い出してください」

「そう言われてもねぇ……」

事務所に戻ると、汗びっしょりの店主がしきりに眼鏡を直しながら首を捻っている。ハケットも相当苦戦しているようだ。

「支払いをした女の方は覚えてるよ、もちろん。美人だったからねぇ。確かに連れは男だったけど、あんまりよく見てなかったなぁ」

彼女に見惚れてたってことか、このスケベ男が。腹が立った俺はハケットを押しのけ店主の前に出た。

「二人が乗っていた車は? 車種は分かるか?」

「ひっ!」

さっき脅かし過ぎたようだ。店主は俺の顔を見るなり短い悲鳴を上げ、より一層の汗を噴出して口をぱくぱくさせている。

「あ、あれ? 何だったかな……ちょ、ちょっとど忘れしちゃったな。いや、ちゃんと見たんですよ! ああ……そんなに睨まないでくださいよ……」

ダメだこりゃ、完全に縮み上がってやがる。

「まぁまぁ先輩、ここは僕が」

ハケットがやけに芝居がかった口調で割り込んできた。

「焦らないでください。ゆっくり、最初から思い出してみましょう」

肩に置かれた手、それからハケットの顔を縋るように見つめた店主は震えながら小さく頷いた。何だこりゃ。ハケットは自分の父親ぐらいの年齢の店主に向かって、まるで小さい子供をなだめるように話し掛けている。

「まずは今日の朝から始めましょうか。あなたはベッドから出て何をしましたか?」

そこから始めるのかよ。いいかげんにしろ。

「え、えっと朝食に、ベーコンとトマト入りのスクランブルエッグを食べて……」

店主も真面目に答えてやがる……やってられるか。

 無性に煙草が吸いたくなった俺は事務所を出た。とはいえ、ここはガソリンスタンドで火気厳禁だし、こんな大通りじゃ路上喫煙もできない。火を点けたら十秒以内にお節介な嫌煙家がやって来て、まるで俺が大量虐殺でもしているかのように非難ごうごう罵ってくるだろう。仕方ないから車の中で吸うことに決めた。きっと後でハケットが『車内が臭い』と文句を言うだろうが構うもんか。

 俺が駐車した場所から何故か車が移動しているが、そんなことに構っていられるような精神状態ではない。早くニコチンを入れないと、ストレスが爆発してハケットと店主をぶっ飛ばしてしまいそうだ。ドアの取っ手に手を掛けた時、通りの反対側に停められた車からこちらを見ている男と目が合った。

「チッ!」

モスだ。面倒な奴に会っちまった。無視しようかとも思ったが、俺に向かって手招きしてやがる。

「まぁいいか、アイツの車で煙草を吸おう」

通行する車の切れ間を待って道路を横断し、モスの車の助手席に滑り込んだ。

「よう」

イタチを思わせる尖った顔の小柄な男。小さな口の端を曲げて俺に笑いかけた。しらじらしい笑顔が気持ち悪い。

「久し振りだねぇ、シェルビー捜査官」

「ここで会ったのは偶然じゃないよな?」

俺の問いにモスはクックッと笑った。赤いアロハシャツに白いハーフパンツ姿で首からカメラを下げている。一見すると浮かれた観光客のようだが、デジタル一眼レフには大きな望遠レンズが取り付けられ、こいつが仕事中なのが分かる。長い付き合いだ、俺は騙されない。

「実は、アリス・マッケンジーが大掛かりな整形手術をするって情報があってね」

 モスは政治汚職からセレブの私生活まで、何でもござれの自称フリーランスの記者である。ただ、ほとんどは話題のセレブに張り付き、スキャンダルを撮ってマスコミに売り込むという、いわばパパラッチだ。そして俺の情報屋でもある。

「老い先短い婆さんをいじめてどうしようってんだ?」

俺の質問に素直に答えるあたり、本命は違うのだろう。モスは罪悪感の欠片もないようで、わざとらしく肩をすくめた。

「いやぁ、アリスは確実に俺やアンタより長生きするさ。それはそうと、彼女の方はガードが固くてね。彼女の執刀医を直撃取材しようと家まで行ったんだが何だか騒がしくて。驚いたことにそこでアンタを見つけたんだよ。なぁ、マシューズ邸で何があった?」

人質の命が掛かっているのに、そんなことコイツになんか話せるわけがない。俺は答える代わりに煙草に火を点けた。

「タダでは教えないってことか」

当たり前だ。モスもシャツのポケットから出した煙草に火を点け、深く吸い込んだ煙を吐き出してから続けた。

「あの院長、権威ある医者だって言われてるが、かなり傲慢な人物らしい」

「そりゃぁ、大病院の院長だ。多少なりともそういう面がないとやっていけないだろう」

「自分に逆らう医師や看護師、スタッフは容赦なくクビを切る。昨日は、匿ってた汚職議員を放り出した。おそらく株で大損したのを知って見切りをつけたんだろう。こんなのはほんの一例だ。はっきり言って、奴を恨んでる人間は多いと思うぜ」

「ふ~ん、そうなのか」

もっと情報が欲しくて気のない振りをする。コイツは自分の知識をひけらかしたい性質なんだ。相手よりも自分の方が情報通であることに固執する。だいたい、こっちの知らない情報を持っていなければ、情報屋としての価値なんかない。案の定、モスは俺が驚くようなネタを思い出そうと腕を組んで考え込んでいる。

「あと、マシューズの娘、かなり派手に遊びまくっているらしい」

そんなの、とっくに分かってる。あとついでに、マシューズの生え際がかなり怪しいってことも。

 こいつから得られるものは何もない。これ見よがしに溜息をつくと、ようやくモスは諦めたらしくシートに凭れた。

「なぁシェルビー、そろそろ何があったか教えてくれよ」

「最近じゃFBIもルックスが重視される時代でな。実はみんなで美容整形の相談をしに行ったんだ」

「ああっ! もういいよ!」

モスは悔しそうに煙草を灰皿に押し付けた。いい気味だ。俺の役に立たなかった罰だ。

 フィルターだけになった煙草を灰皿に放り込み、ドアを開けた俺をモスの呟きが追いかけてきた。

「そういえば、六ヶ月ぐらい前かなぁ、マシューズの右腕だった外科医が辞めさせられたって。医療ミスやセクハラとか、立て続けに問題を起こしたらしい。『腕のいい医者だったのに残念だ』って、俺の知り合いの美容研究家が言ってたな」

「なんだ、美容研究家のくせに整形手術なんか受けてるのか? 詐欺だろう」

「五十過ぎてるんだ。職業柄、同年代の誰よりもきれいでいなくちゃならないんだぞ、そんなの当たり前だよ。もちろん極秘事項だけどな」

そんなどうでもいい話をしながらも、俺の頭の中は別のことを考えている。マシューズ邸での会話を思い出したのだ。アリス・マッケンジーの手術で病院に行くようマシューズが促された時だ。

『俺の代わりにクロフォードにやらせろ!』

『クロフォードはもういませんよ』

モスの言う辞めさせられた医者というのは、このクロフォードではないのか、と。自業自得とはいえ、辞めさせられたとなればマシューズを恨んでいる可能性もある。それが身勝手な逆恨みでも。

 とにかく、犯行の動機がある人間の固有名詞がひとつ分かった。車から降りた俺は、こいつにひとつ褒美をやることに決めた。

「モス、さっき言った美容整形の話、あれ嘘だぞ」

「そんなの分かってるよ!」

モスが怒鳴っていたが、俺は構わずドアを閉めてガソリンスタンドに戻った。

 事務所の外できょろきょろとしていたハケットが俺を見つけて駆け寄ってきた。

「せんぱ~い!」

大声で呼ぶな、恥ずかしい。

「何か分かったか?」

分かってなきゃ首を絞めてやる。なんて思いながらも、ほとんど期待なんてしていなかったが、ハケットはきらきらした目で子供のように大きく頷いた。

「車種が分かりました。白かグレーのマスタングで、だいぶ古めの型だったそうです」

あんな方法で聞き出せたとは。こいつ本当はすごいのかもしれない。

「犯人の顔はよく見てないそうですけど。とにかく、どこにでもいそうな若い男だったとのことです」

やっぱりこいつは、まだまだ甘ちゃんだ。

「あのな、ハケット。どこにでもいそうな奴が、本当にどこにでもいると思うか? だいたい『どこにでもいそうな奴』って、いったいどんな顔をしてるんだ?」

「え、えっと目がふたつで……」

「もういい!」

本気で考えてやがる。嫌味も通じない。

 とにかく、一刻も早くマシューズに辞めさせられた医師、そして古い型のマスタングを調べるんだ。俺は車に向かった。

「ん? 車の位置が変わってる。ハケット、お前が動かしたのか?」

「いや、実は……」

 こいつには本当に呆れた。通りすがりの一般人に頼んで移動させただと。これは捜査車両であって普通の車じゃないんだぞ。何を考えてやがる。そんなに母親との約束が大事か。少しは自覚を持て。

 俺が説教をしている間、ハケットは亀のように丸めた肩に首を埋め神妙な顔をして聞いていた。確かに俺は怒っていたが、奴の母親のことには触れなかった。ハケットの場合、母親を侮辱されたと思い込んで泣き喚きそうだし、こんな大通りでそんなことになったら面倒臭い。まぁ、少しは反省しているようだし、これくらいで勘弁してやろうと思った矢先、このバカ野郎はあろうことか思い出し笑いをして俺の血管をぶった切った。

「どういうつもりだ?」

俺が声を上げてもハケットは半笑いのままだ。

「いえ、ちょっと思い出しちゃって、さっきの『どこにでもいそうな奴』のこと。車を動かしてくれた彼が、まさにそんな感じでしたね」

自分じゃできないことをしてもらっておいて、その相手をバカにしてやがる。何て奴だ。これだからお坊ちゃんは。

「じゃ、先輩。次はスーパーマーケットに行きましょうか」

「事件の捜査中だぞ、買い物は後回しにしろ!」

本当に、こいつの頭は大丈夫なのか。しかしハケットは目をぱちくりさせた。

「違いますよぉ。マシューズさんのカードが使われた店です。昨日の夜ですけどね」

得意げな顔してやがる。信じられない。

「何でもっと早く言わないんだ?」

「だって、言う間もなくガソリンスタンドへ連れて行かれたから……」

「もういい! 早く車に乗れ!」

とにかく、そのスーパーマーケットに直行だ。スーパーならば防犯カメラも多いだろうし、その中のひとつぐらいはこの犯人の姿を映しているものがあるはずだ。

「絶対に正体を暴いてやる。待ってろよ、クソ野郎!」

 目的地へ向かう途中、「言葉遣いが汚い」とハケットがずっと小言を言っていたが、今の俺にはそんなものまるで聞こえやしない。


「お寿司って初めてですけど、とっても美味しいですね」

太巻きを口にしたマリアはテーブルの向かいにいるフレディに笑顔を見せた。

「そうなの? 寿司って聞いて嬉しそうだったから、てっきり好物なのかと……」

「それは……」

寿司をほお張りながら尋ねるフレディに、マリアは恥ずかしそうに顔を俯けた。何かまずいことを聞いてしまったか、とフレディは少し戸惑ったものの、マリアの口元に微笑が浮かんでいるのを見て安心した。

 何はともあれ、こうしてまた一緒にいられることが嬉しくてしかたなかった。



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