彼らの事情と彼女の行方
二時間みっちり仕込みを手伝わされ、ようやくフレディは解放された。あくまで手伝いのつもりだったのだが、上機嫌な大将は「そういうわけにはいかねぇ」と二十ドルの報酬をくれた。そうなると少し調子に乗り、ここで雇ってもらえないかと遠回しに訊いてみたが、「ここまで忙しいのはごく稀で、普段は人員も足りているから」とやんわり断られてしまった。定職を得られなかったことは残念だが、新人の板前が作った賄いの太巻きも二本分けてもらえ、明日からの職探しの意欲が湧いてくる。
「はぁ……」
それでも思わず溜息を吐かずにはいられない。ここにマリアがいれば、きっと喜んでくれただろう。自分で終わらせてしまったことだが、彼女に会いたくて仕方がない。一緒に喜びを分かち合える相手が。
カリカリしている先輩の元を離れ、言いつけられたとおり店主のいる事務所にハケットは向かっていた。親切で言ってあげたのに、なんで怒るのかが分からない。きっと、昇進のことやなんやかんやで情緒不安定なのだろう。今度、母と会わせてみようか、と考えた。母ならば、きっと悩める先輩の良きカウンセラーになってくれるだろう、と。
給油機の横を通り過ぎた時、船の汽笛のようなクラクションが鳴った。振り返れば、大きなキャンピングカーがエンジンを吹かしながら、苛立った感じで小刻みに前進している。どうやら自分達の車が邪魔で給油機の前まで辿り着けないらしい。早く車をどかせ、と言いたいのだろう。
「困ったなぁ」
ハケットは頭を掻いた。
十六歳で運転免許を取得し、初めて自分の運転で学校に行こうとした日の朝のことだった。何がどうなったかまったく分からないが、走り出した途端、庭にある噴水に激突してしまったのだ。お祝いに買ってもらった新車のレクサスは大破、割れたフロントガラスから流れ込んだ噴水の水で車内も酷いことになった。そんなことにもかかわらず、母親は勇猛果敢に車内に飛び込み、シートとエアバッグに挟まれ鼻血を流している息子を助け出したのだ。びしょ濡れになりながら二人で抱き合い、無事を喜び合った時ほど母の愛に感謝したことはない。その時に約束したのだ、二度と車の運転はしない、と。結局、ハイスクールを卒業するまで毎日、母親が車で送り迎えをしてくれた。いつも遠巻きに指を差していた学友達。彼らはみな、完璧な理想の母親に羨望の眼差しを送っていたっけ。
青春時代の輝かしい思い出に浸っているハケットの背中に、再びクラクションが浴びせられた。おまけに、髭ぼうぼうで長髪のプロレスラー並にいかつい運転手が何か叫んでいる。
「ああ……どうしよう……」
先輩に頼みたいが気が立っている今、そんなことを言えば怒鳴られそうだ。でも、すぐに車を動かさないと、あのヒッピーマッチョに殴られるかもしれない。
すっかりうろたえてしまったハケットの目に、通りの向こうからこちらへやってくる若者の姿が飛び込んだ。年のころは自分とそんなに変わらないだろう。Tシャツとジーンズのラフな服装で、何となく貧乏臭い雰囲気が漂う男だが、その足元はどこか弾んでいる。何か機嫌も良さそうだし、話し掛け易そうだ。
「ねぇ君、ちょっといいかな? この車を移動させてほしいんだけど」
「は?」
男はかなり戸惑っている。無理もないが、急いでほしいハケットは手短に説明を始めた。
「僕は事情があって運転ができなくてね、だけど僕の運転手は今手が放せなくて。ほら、あのキャンピングカーのおじさんが怒ってるし」
すると男はひとつ頷いて車に乗り込み、ガソリンスタンドの事務所の脇へスムーズに駐車してくれた。
何とか窮地を乗り切ったハケットは、車から降りてきた親切な男に駆け寄り、お礼の五ドル札を差し出した。
「え? いいよ。ほんのちょっと動かしただけだし……」
男は差し出された金に目をぱちくりさせている。しかし、このピンチを五ドルで切り抜けたのだ、安いものだ。ただ、ここでこうしてグズグズしているのはよろしくない。先輩に言われたことを早く実行しなければ。この男には、さっさと礼を受取って退散してもらいたい。ハケットは遠慮している男の手を取り、五ドル札を握らせた。
「いいから、いいから。感謝の気持ちだから受取ってよ」
ややあって、男は戸惑い顔のまま、金をジーンズのポケットにねじ込んだ。
「こちらこそ、どうもありがとう」
気が弱いということが容易に分かる小さな声で礼の言葉を言い残し、男はそそくさと立ち去った。その後姿を見送りながらハケットは微笑んだ。あんなに親切な若者に声を掛けたという、自分の目の確かさに満足していたのだ。
「それにしても生臭い奴だったなぁ」
独り言の後に、さっきの先輩とのやりとりを思い出した。
『人類の最大の敵はウイルス』
他人がどんなウイルスを持っているか分かったものではない。ハケットは常備している携帯用消毒アルコール付きティッシュをスーツのポケットから取り出し、運転席のドアやハンドルなど、あの親切な若者が触ったと思われる箇所を丁寧に拭き出した。
寿司屋の前に車を停められなかったフレディは、ガソリンスタンドの裏手の路地に停めたマスタングへ向かいながら、今しがた関わった一風変わった青年のことを考えていた。車をちょっと動かしただけで五ドルもくれるなんて。仕立ての良さそうなスーツを着ていたし、あの警戒心の無さそうな雰囲気といい、きっといいとこのお坊ちゃんなんだろう。自分があんな境遇だったら、とそんなことを考えずにはいられない。
何はともあれ、この短時間に二十五ドルを手に入れた。滞納しているアパートの家賃全額には足りないが、それでも幾らかは大家に渡さなければいけないだろう。そうしなければ、本当に追い出されてしまう。その後は節約すれば、残った金で何日かは過ごせる。
なぜだか分からないが、この幸運はマリアのおかげのような気がする。いや、気のせいじゃない。彼女と出会い、これまでの自分がどんなに情けない奴だったかを知ったのだ。堕ちるとこまで堕ちれば、あとは上るだけだ。マリアは崖の上から顔を出し、深い谷底にいる自分に微笑みかけてくれた。彼女を目指して少しずつ少しずつ崖を登っていけば、もう下を見る必要はない。世界で一番美しいマリアから目を離せるはずなどないのだから。
マリアとはもう二度と会えないかもしれない。彼女と一緒にいたのはたった一日。それっぽっちの思い出だけで、この先ちゃんと一人で生きていけるのだろうか。
「やっぱり、もう一度マリアに会いたいな……」
信号が変わるのを待ちながら、思わず声に出していた。一緒にいるだけで心臓が高鳴り、身体の奥の方から熱が込み上げてくる。彼女に良く思われたくて、何とかもっとまともな人間になりたいと願う。そのための努力も惜しむことはないだろう。
「ああ……バカなこと言っちゃったな……」
今さら悔やんでも遅い。分かってはいるが、どうしても考えてしまう。
気が付けばアパートの近くまで来ていた。建物の前には誰が呼んだのか害虫駆除業者のトラックが停まっており、仕方なくその先の空いたスペースに車を停める。アパートに向かっていると、空き地でいつものようにカルロスがボールを蹴っているのが目に入った。もう遅い時間だから帰るように促そうかと思ったが、暗くなればボールも見えなくなるだろうし、そうしたら自分で気付くはずだ。そう考え、素通りすることにした。それに、声を掛けた場合に予想されるカルロスの返し、つまり憎まれ口に、いつもの寛容な態度で応じられるような気分でもない。
「おーい、ヘナチョコ」
素通りするつもりが、カルロスに見つかってしまった。しかもなんて呼び名だ。こういう生意気な子供には、ちゃんとした大人による噛み砕いた説教が必要だろう。フレディは空き地に顔を向けた。
「コラ! ふざけんな、このクソガ──あっ!」
カルロスの隣にマリアを見つけ、口を開けたまま固まってしまった。
「あれ? どうして……」
フレディの質問にマリアは気まずそうに俯いた。
「表に出たら……カルロスがサッカーをしていたので……一緒に遊んでました……」
「そう、そうなんだ……」
自分を待っていたわけではないことに落胆したものの、もう一度会うという願いが叶った。それは、跪いてその爪先にキスしたいほど神に感謝だ。このチャンスを逃したら、それこそ地獄の火に焼かれてしまえ。フレディはごくりと唾を飲み込んでから口を開いた。
「実は、臨時のアルバイトをしてたんだ。あ、そうだ。スシがあるけど、一緒に食べない?」
さり気なく誘ったつもりだったが、語尾が震えているのが情けない。それでも、ありったけの勇気を振り絞ったのだ。
「スシだって。きもっ!」
いち早く反応したのはカルロスだった。
「うるさい! カルロス、お前は早く家に帰れ! ママが心配してるぞ」
腹を立てながらも、カルロスの隣でマリアが笑みを浮べたのを捉え、どうやら寿司を嫌ってはいないようなので安心した。
「いいんですか?」
ほんのりと顔を赤らめたマリアの躊躇いがちな質問に、フレディは落ち着かな気に頭を掻いた。
「君さえ、よければ」
ニヤニヤ笑いのカルロスが何度もこちらを振り返りつつ、やっと自分のアパートの建物に入って行ったのを見届け、ようやくフレディとマリアは歩き出した。
「アルバイトをしていたなんて思いもしませんでした。私はてっきり……ガールフレンドの所へ行ったのかと……」
「えっ?」
彼女の言葉に驚いたフレディは、真っ赤になった顔をブンブンと横に振った。
「ガ、ガ、ガールフレンドなんて、いるわけないよ」
「……そうですか。それじゃ、まだ人質でいてもいいんですか?」
「あ……」
変な質問だと思ったが、まだ一緒にいられることが分かり、フレディはさっきと同じ答えを口にした。
「君さえ、よければ」
マリアが微笑みかけてきたので、フレディもつられて笑顔になった。
昼間のぎくしゃくした空気はどこかへ行ってしまったようだ。今や太陽は世界を柔らかな赤に染め、アパートの入口に向かう二人の姿を暖かく包んでいる。




