不意討ちの孤独と脅威の胃袋
「話し中だわ……まぁ、しょうがないわね」
受話器を置いたマリアはフレディの方を向いて肩をすくめると、そのままスーパーへ入っていった。
食料品はもちろん、日用品と衣料まで取り揃えたスーパーの中は、夕方ということもあってたくさんの人で賑わっている。マリアはバッグから買い物リストを出し、カートを押して食料品売り場へ向かった。フレディは少し距離を置き、山積みで陳列されているトマトを両手にひとつずつ取って吟味しているマリアを眺めた。真剣ではあるが口元に笑みを浮べていて、とても楽しそうに見える。選び抜いたふたつの完熟トマトを大事そうにカートに入れ、今度はレタスを手に取ってひっくり返したりしている。やがてお眼鏡にかなうひとつが見つかったようで、後ろを振り返りフレディに軽く微笑みかけると、レタスをカートに入れて先に進んだ。その女神のような微笑にフレディの顔は緩み、スレンダーなマリアの後姿を浮き足立ちながら追いかけていく。
「ねぇ、ママ! これ買ってぇ」
カートに乗せられた黒人の小さな男の子がチョコレートバーを指差して母親にねだっている。
「分かった、一個だけね。帰ったらお兄ちゃんと半分こよ。いいわね」
母親が子供に言い含め、チョコレートバーをカートの中に入れる。両手を挙げて喜ぶ我が子の姿に、母親は嬉しそうに目を細めながらフレディの横を通り過ぎていく。フレディは足を止め、親子の後姿を見つめた。
フレディが子供の頃は、お菓子など与えてはもらえなかった。仕事がとろい罰として、しょっちゅう食事抜きだった里親の元。そんな時、ジェイソンはいつも自分の食事を分けてくれた。フレディよりも歳上で体格もいい彼には、けちな里親が出す粗末な食事だけで腹が満たされるわけもない。夜中、子供達が折り重なるように雑魚寝する部屋の中では、ジェイソンの腹の虫が大きく鳴き続けていたのを覚えている。
ジェイソンに対してこの上ない感謝と尊敬の念を感じてはいるが、その恩返しを自分は何かしてきただろうか。後悔と情けなさ、ずきずきと痛み出した胸に手をあて、先を行くマリアの後を追った。
「誰かに恨まれているとか、心当たりはありませんか?」
刑事に尋ねられ、マシューズは心外そうに口元を歪めた。大病院の院長という職にあり、尊敬されるべき人物だと自分では思っている。仕事とはいえ、この若い刑事の質問はあまりにもとんちんかんだ。
マシューズの不機嫌に気付いたグラントは、すかさずフォローに走る。
「恨みというよりは、嫉妬の可能性のほうが高いのでは? これだけの地位にある方ですし」
「う~ん……」
マシューズは納得したように唸り声を上げ、腕を組み考え込んだ。
確かに、これだけの富を手に入れ、さらに高名な人物となれば、それに対して身勝手な嫉妬を覚え足を引っ張ろうとする輩もいるだろう。相手はまさに不特定多数だが、もし犯人が知り合いだったとしたら……。
「おい、クレイトンはどうなった?」
今朝、株で大損した友人についてマシューズはグラントに小声で尋ねた。上院議員だが二週間前に女性問題が発覚し、マスコミからの隠れ蓑として特別病室を提供していたが、追い出すようグラントに指示したのだった。
「そういえば、退院を申し渡した時には大変取り乱して『マシューズの差し金か! あの野郎、さんざん儲けさせてやったのに!』と怒鳴り散らしていましたっけ」
マシューズの耳元で囁くように説明したグラントは、その時のクレイトンの剣幕を思い出し、大げさに肩をすくめて身を震わせる仕草をした。しかし顔は半笑いだ。
「それから、院長を呼べと喚いてましたが、私が『それは出来ません』と答えると、『恨んでやるからな! いつか酷い目に遭わせてやる!』と……」
自分に対する暴言を聞き、マシューズはグラントを睨みつけた。往々にして人間は、こういった悪口や背信などの行為を聞くと、それをした本人よりも話を持って来た者に怒りを覚えてしまうものだ。
「……それで?」
忠誠を試すような厳しい声で先を促すと、グラントは一瞬ぎくっとしてから早口で続けた。
「まったく困ったもんです。一応、情けを掛けて裏口から出してあげましたが、数人のマスコミに囲まれてましたよ。アハハ」
「それは何時頃だ?」
変わらぬ厳しい声の質問に、グラントは何時頃だったか必死で思い出そうと汗びっしょりの額に手をあてる。やがて時間を知る手掛かりを見つけ、死の淵から逃げ延びたような引きつった嗤いを浮べた。
「ちょうど昼でしたね! クレイトン氏を病室から出した時、廊下に配膳車が出ていましたから。それから、請求書には今日の昼食代もつけておきました。彼は食べていませんけどね」
ボスに忠誠を誓うべく、クレイトン氏を貶めたグラントは「くくく……」と捻くれた笑い声をあげたが、当のマシューズは眉根を寄せて考え込んでいる。
警察が言うには、事故があったのも昼頃だ。汚職まみれの上院議員であるクレイトン氏には、汚い仕事も厭わない手下もいるだろう。
「それにしても……」
グラントとのヒソヒソ話を刑事が訝しげに覗き込んでいるのを察し、マシューズはひとつ咳払いをしてから口の中で呟いた。
「行動を起こすのが早過ぎる。無理だ。あいつじゃない」
だとしたら、誰なのだろう。今朝オコナーが追い出したというホームレスか。
「いやいや……」
マシューズは首を振った。重度の糖尿病でしかもホームレスだ。そんなことができるとは思えない。
「いったい誰なんだ……」
頭を抱えて考え込むマシューズを「何だ、けっこう恨まれているじゃないか」という顔で刑事が呆れて見ている。
「お疲れ、交代だ」
リビングのドアが開き、大きなドーナツの箱を抱えた刑事が入ってきた。既に部屋にいた数人の刑事が立ち上がり、引継ぎと帰り支度を始める。マシューズは部屋の中の動きなど目に入らぬまま、依然として多過ぎる心当たりに頭を悩ませている。すると、シャロンが突然ソファから飛び降り、手にしていたバナナの皮を投げ捨てた。
「ちょっと! 何する のよ!」
顔面にバナナの皮が当たった中年の女性刑事が怒鳴ったが、シャロンはまったくお構いなしで、勤務時間が終わり出口へ向かう刑事達の中で一番若くて見栄えのする 一人を選び腕を絡ませた。
「ねぇねぇ、もう仕事は終わりでしょ?」
「は? え、ええ……」
戸惑う刑事にシャロンは悪戯っぽい笑みを向ける。片手には、ちゃっかりと箱から掠め取ったダブルファッジのチョコレートドーナツを持ちながら。
マリアが下着売り場へ入って行ったため、フレディはその隣の婦人服売り場をぶらぶらと歩いていた。賑わっている食料品売り場と違い、夕方の今の時間、衣料品売り場は閑散としている。女性の服など別段興味もなく、かといってマリアからあまり離れるわけにもいかず、ただ整然と並ぶ大量の衣料を眺めているだけだ。
その中で、回転する丸いラックに掛けられたワンピースに何故か分からないが目を惹かれた。何の装飾もない、木綿で作られたシンプルなノースリーブのワンピース。鎖骨が出るくらいの襟ぐりに、ウエストはダーツで絞られ、膝丈のスカートが自然なAラインに広がっている。ラックには同じ形の色違い、サイズ違いがぐるりとハンガーで提げられていて、黒やカーキ、ネイビーや白といった無難なものばかりだ。フレディは白の一着を手に取った。ラックの上部には、大きなパネルに十八ドルと値段が書いてある。大量生産の安物だ。それでも、このあまりにもシンプルなデザインが、かえって彼女の美しさを引き立たせるのではないかと思うのだ。
自分にファッションセンスがあるとは思っていない。子供の頃の服といえば寄付されたものか、何人が袖を通したかもう分からないようなお下がりばかりだった。里親の元を出てからは、少ない予算の中で買えるものを着ていただけだ。コーディネートや流行のことなど分からないし考えたこともない。しかし、この時ばかりは確信のようなものがあった。この純白のワンピースはマリアに似合う、と。
フレディはジーンズのポケットを探った。くちゃくちゃになった二十ドル札が一枚。
「よし、買えるな」
おそらく、というより確実にこれが今の全財産だ。だとしても、とんでもない迷惑を掛けてしまったマリアに、何か償いをしたかった。彼女の服のサイズは分かっている。下着売り場へ入る前、ワゴンに山積みにされた一枚五ドルのTシャツを探っていた時に知った。乱雑な布の山からマリアが選んだのは、数年前に流行ったテレビアニメのキャラクターが描かれていた。それを見て失笑したフレディにマリアは唇を尖らせた。
「パジャマだからいいんです。だいたい、こういう中からSサイズを探すのは大変なんです」
彼女の言うとおり、ワゴンの中には大きなサイズのTシャツばかりだ。5Lや7Lなんてのもあるが、フレディがざっと見た限りSはなかった。
フレディは手に取ったワンピースがSサイズであることを確認すると、下着を選んでいるマリアに見つからないようにレジへ向かった。
マシューズの金とはいえ、無駄遣いはせずに必要最低限の物を揃えたマリアはレジへ向かう。フレディとは下着売り場の前で別れたきりだ。レジ係が次々と商品を捌く間、マリアはきょろきょろと辺りを見回してフレディの姿を捜す。しかし見つける前に値段を告げられ、慌ててクレジットカードを出した。
レジを出たマリアはカートを押したままフレディを捜したが、混み合う広い店内でその姿は見えない。周りには買い物を終え忙しそうに出口へ向かう人々。そのうち何人かはマリアに目を向ける。男は好奇心に満ちた視線で眺め回し、若い女はその美しさに敵意も露にねめつけていく。次第にマリアの中で不安が募ってきた。この国にやって来て五年が経つ。こうした視線には慣れたつもりでいたのだが、急に激しい孤独感に襲われた。世界中が自分だけを置き去りにして動いている、そんな感じがするのだ。胃の辺りがちくちくと痛み出す。立ち止まりお腹に手をあてたマリアの視界に、買い物客の間を縫うようにしてこちらへ向かってくるフレディの姿が飛び込んできた。
「フレディ!」
マリアは無意識に叫んでいた。その直後、フレディの姿を見て何故か安堵している自分に驚いた。
フレディは茶色の紙袋を大事そうに抱えている。そしてマリアと視線が合うと目を細くして微笑んだ。
「面倒になって、私をおいて行ったのかと思いました」
マリアが言うと、フレディは驚いた顔で首を振った。
「そんなことしないよ」
フレディの動きに合わせて紙袋がガサゴソと音を立てる。
「お買い物していたんですか?」
マリアが尋ねると「あ……うん。ちょっと……」などとフレディは曖昧に返事をする。おそらく個人的な物だろう、とマリアは詮索をやめた。
「どうしたの? 具合が悪いの?」
フレディに心配そうに訊かれ、マリアは自分がまだ胃の辺りをおさえていることに気が付いた。不思議なことに、痛みはすっかり消えている。
「あ……いえ。お腹がすいちゃって……そうだ、ここで何か食べていきませんか?」
急に独りが寂しくなってしまった、などということは明かさない。ましてや、フレディが現れたら途端に治った、なんて口が裂けても言えるはずがない。自分でもよく分からないのに、相手に誤解を与えるような言動は慎むべきだ。
「誘拐犯だけど、良い人そう」
そう感じてはいるものの、出会ったばかりの相手に心を開くのは抵抗がある。ほとんどごまかすための言葉だったが空腹なのは事実だ。スーパーを出たマリアは、同じ敷地内に立つハンバーガーショップを指差した。
「小さい頃、近所にあった工場には、たくさんのアメリカ人バイヤーがやってきていたんです」
「ああ、それで英語が堪能なんだね。で、何の工場?」
「コカインです」
フライドポテトを口に運びながらマリアがにこやかに答えると、フレディのハンバーガーを持つ手が止まる。
「そ、そうなんだ……」
フレディは引きつりながら笑顔を作った。
話の内容はともかく和やかな雰囲気の中、マシューズの金でマリアとフレディが夕食を摂っている。それと同じ時間、シャロンは勤務が終わった若い刑事と共に、『マルセイユ・ローズ』でオマール海老にかぶりついていた。もちろん、マシューズのツケで。