取り戻した秩序と訪れた安息
見違えるようにきれいになったバスルームで、マリアは充足感に満ちた息をついた。
「うん。いいじゃない」
まだ部屋の掃除もしなければいけないが、ひとまずは区切りをつけて自分を労う。奢りは罪だが、これが仕事を長続きさせるコツなのだ。
満足してバスルームを出たマリアが見たものは、先程よりも片付けられた部屋と、キッチンでてきぱきと洗い物をしているフレディの姿だった。くすんだ壁と擦り減ったラグはどうしようもないが、食事ができるぐらいにテーブルは片付いているし、カウチの上にあるのもクッションだけだ。床にもモノポリーで遊べるほどの充分なスペースができた。これならば、何とか居住空間という体を成してはいるだろう。口をぽかんと開けて部屋の中を見渡すマリアに、振り向いたフレディは手を休めることなくはにかんだ笑顔を作った。
その後、片づけを終えたフレディは、マリアがきれいにしたバスルームでシャワーを浴びた。無精髭も剃り落とし、洗濯された服で出てきたフレディはこざっぱりとしていた。濡れたダークブロンドの髪を後ろに撫で付けてあるので顔全体が見える。血色こそあまり良くないものの、やや丸みを帯びた柔らかな輪郭は少年のように見える。特に自信無げに揺れる青い瞳が彼を幼く見せているのだろう。
「何してるの?」
テーブルで小さなメモ帳に何かを書き込んでいるマリアにフレディが尋ねた。
「買い物リストです」
首に掛けたバスタオルの両端を握ったフレディがメモを覗き込む。歯ブラシといった生活用品や、衣料品などが細かくびっしりと書き込んである。
「こんなに?」
「誘拐されるなんて予定にはありませんでしたから、洗面道具も着替えも持ってきていないんです」
「ああ……うん、ごめん」
誘拐されることが予めスケジュールに入っているなど普通はないだろうが、そんなことには考えが及ばないフレディは申し訳なさそうに頭を掻きながら謝罪した。
「でも俺……金が……」
不安そうに呟いたフレディを安心させるように、マリアはテーブルの上に置いた自分のバッグを軽く叩いた。
「ご心配なく。細々した買い物の支払いには、専用のカードをマシューズさんから預かっていますから」
「あいつの金を使うの?」
顔をしかめたフレディがあからさまな嫌悪に満ちた声で尋ねると、マリアはメモを取る手を止めた。
「マシューズさんは、あなたの要求を何でも飲むと仰ったんですよね? だったら、問題ないでしょう」
マリアがあっさり答えるとフレディは首を傾げたが、そんなものかなと深く考えることをせずに納得してしまった。
二人はフレディの運転で郊外にある巨大なスーパーマーケットへ向かった。もうすぐ夕方という時間もあり、広い幹線道路に車は多いものの渋滞というほどではない。強い西陽が車内に降り注ぎ、その暖かさの中でマリアは小さな欠伸をした。
数時間前、この男のマスタングに押し込まれた時には考えられないほどリラックスしている。見知らぬ誘拐犯だった男の名前が分かり、多少なりともその素性を知ったのだ。ただそれだけのことで、大きかった不安は拭い去られてしまった。そして、余裕が出来ると思い出すのは空腹だ。あまりの唐突な出来事と緊張のため忘れていたが、昼食のチリドッグを食べ損ねていたのだ。
「そうだったんだ……悪いことしちゃったね」
ポルシェと一緒に焼失してしまっただろうチリドッグのことを話すと、フレディは申し訳なさそうに謝った。大事故を起こし、誘拐という犯罪を犯したことは忘れているのか、今一番の問題点はチリドッグを台無しにしてしまったことらしい。
「いいえ。せっかく買い物に行くのですから、ついでに食べ物も買いましょう」
マリアのほうも、何の屈託もなくショッピングを楽しむつもりでいる。二人の緩い笑い声に満たされた白いマスタングは、買い物客で賑わうスーパーマーケットの広大な駐車場に吸い込まれていく。
空いているスペースを探して駐車場内を徐行していると、食料品が山積みになったカートを押していく太った年配の女性が前を通り過ぎていった。マリアの頭に浮かんだのは、マシューズ家の夕食のことだった。ローストビーフを作るつもりで買っておいた牛肉の塊が冷蔵庫にあるのだが、あそこの家人が肉をオーブンに入れるという手間を喜んでするとは思えない。しかも自分の仕事を雇い主に押し付けて、それが元でクビにされるのも困る。
「どうしよう……あ、そうだ」
今朝、グラントがマシューズを迎えに来たことを思い出した。ということは、やはりグラントがマシューズを家まで送っているはずだ。あの腰巾着なら、喜んでマシューズやシャロンのために夕食を作るだろう。
「あら?」
とりあえずマシューズ家に連絡をいれておこうと思い、バッグの中を捜したが携帯電話が見当たらない。最後に使ったのはいつだったか記憶を辿った。
「そうだ、あの時……」
マスタングから降りてきたフレディに車の窓を叩かれ、怖くなって通報しようと携帯電話を取り出したのだが、手が震えて足元に落としてしまったのを思い出した。今頃は、爆発炎上した車の中で、溶けた金属とプラスティックが混ざり合った不気味な塊になっていることだろう。
「しょうがないわね……」
小さく呟いたと同時に、車は空いていた駐車スペースに滑り込んだ。
赤みを帯びてきた太陽の光を背に、車から降りた二人はスーパーの入口へ並んで歩いていく。二重になった自動ドアの外側の脇に公衆電話を見つけ、マリアは立ち止まった。
「すみません、夕食のことでマシューズさんに連絡をしておきたいんです」
「ああ、そうか……メイドさんだもんね。大変だね」
自分の仕事に対する強い責任感と重圧をフレディに労われ、マリアは少し誇らしい気持ちで受話器を取りコインを入れた。
家主からの熱い視線を注がれ続けていた電話機が、突然けたたましい音を響かせた。それを待ち受けていたのにもかかわらず、マシューズは飛び上がるほど慄いてしまう。噴出した汗に濡れた顔を上げると、向かいのソファに浅く腰掛けている若い刑事がコンピューターのキーボードを操作しながら、電話を取るようマシューズに目で促した。
「……私だ」
からからに乾いた口から、やっとの思いで声を出す。集まった刑事達も皆、口を開かず物音さえも立てずに固唾を飲んでその様子を見守っている。
「マシューズ様、いつもありがとうございます。『マルセイユ・ローズ』の支配人です。本日のご予約の確認を──」
刑事達は気の抜けた溜息を一斉につき、マシューズは電話機を持つ手をぷるぷると震わせた。支配人の確認は続く。
「──二名様で、仰せの通りオーシャンビューの個室をご用意しております──」
そのシチュエーションならば、同伴するのは女に決まっている。妻は別居中でハワイに住んでいることなど既に調査済みの刑事達は、冷ややかな眼差しをマシューズへと向ける。ソファに身体を投げ出してバナナを食べていたシャロンは、『マルセイユ・ローズ』というシーサイドにある高級フレンチレストランの名を耳ざとく聞きつけ顔を上げた。
「今はそれどころじゃない!」
怒り心頭で叫んだマシューズは勢いよく電話を切った後、唸り声をあげて頭を抱え込んだ。




