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纏わり付く影と二人の奮起


 部屋に戻ると、マリアは元通り椅子に座った。そしてフレディも床に胡坐をかいて彼女と向き合う。これからどうすればいいのか、それぞれが不安を感じている。

「どうしよう……」

フレディがぽつりと呟いた言葉にマリアは顔を上げた。互いの視線が合うと、フレディは眉根を寄せ困ったような表情で俯いてしまった。やっぱりそうなのか、とマリアは心の中で溜息をつく。自分も母と同じなのだ、と。


 母親のマデリーンは十六歳でマリアを産んだ。マリアに父親はいなかったし、話も聞いたことがない。近くにはコカインの精製工場があり、マフィアやギャングなど大勢の男が出入りしていた。その中の誰かだろう、とマリアは思っている。

 その後、マデリーンは夫がいないにもかかわらず、マリアが六歳の時に弟のラウルを産んだ。ある日の夜、ギャング同士の激しい抗争による銃撃戦が近所で始まった。それは関係のない村人をも巻き込み、マデリーンは二人の子供を連れて闇の中を命からがら逃げ出したのだ。

 ほとんど着の身着のままだった三人が辿り着いたのは、ユカタン半島の果てにあるリゾート地、カンクンだった。ダウンタウンの狭いアパートに住み、マデリーンはリゾートホテルのショーダンサーとなる。世界中の富豪がやってくる高級リゾート地で、またもや彼女は身持ちの悪さを露呈した。その美貌を武器に、金持ちの独身男性を漁っていたのだ。

 マリアが九歳の時、マデリーンは豪華クルーザーでやってきたイギリス人男性と恋に落ちた。マデリーンは家族を顧みず、ハリケーンの夜も子供達を残したアパートへは戻ってこなかった。激しい風と雨が頼りない窓ガラスを揺さぶり、停電で暗闇に沈む部屋の中、マリアは幼いラウルを抱き締めて母親と夜明けを待ったのだ。朝帰りした母親は幸福の絶頂という顔をしていたが、その三日後にはそこから突き落とされることになる。母親の恋人は、別れも告げずに消えたのだ。恋に落ちたと思っていたのはマデリーンだけだった。

 地元の漁師に担がれて帰宅したマデリーンの服は汚れて髪もぼさぼさ、半ば意識も失いかけていた。まさにぼろぼろ、茫然自失の状態であり、そんな母親の姿にマリアもラウルも恐怖を感じた。後に聞いた話では、マデリーンはクルーザーが出港した後の港で半狂乱になり泣き叫んでいたそうだ。その金持ちの男がマデリーンに残したものは、心の傷と双子の子供だった。ただでさえ貧しいのに、さらに二人の赤ん坊が生まれた時には、子供だったマリアもさすがに生活への不安を感じた。そして母親の行動に呆れると共に、不信感を募らせていった。

 見た目の美しさが幸せを手に入れる鍵などにはならない。男というのは、愛よりも地位や名誉に重きを置く。どんなに美しい女性もやがて歳をとって老いてゆく。それよりも、金や地位に群がる若い女をその都度取り替えた方がいいと思うものなのだろう。マリアはそう考えている。自分や母親のように、見た目がいいだけの女は一時ちやほやされたとしても、その後はぼろ布のように捨てられる運命なのだ、と。それでもマデリーンは懲りるということを知らない。四十を間近に控えた今でも、確実に忍び寄る老いを化粧で隠し、白馬に乗った王子が迎えに来るのを信じているのだろう。

 マリアもまた、自分の容姿が他人の目を惹くということを分かっている。小さな頃はやせっぽっちだったマリアも、十二歳を過ぎたあたりから母親の顔つきそっくりになり、身体つきも女性らしい丸みを帯びてきた。そうなると、男達の視線が自分に集まっているのに気付いた。否が応にもその熱を感じるのだ。しかし、母親の愚行を間近で見ているため、軽はずみな行動はしないと心に決めていた。金持ちのアメリカ人大学生にもて遊ばれて捨てられた、十五歳の初恋が破れるまでは。やはり自分も、恋愛に無軌道になる母親の資質を受け継いでいるのだと自覚した。


 フレディは明らかに困っている。自分を誘拐してしまったことに。彼の途方に暮れた表情からマリアは顔を背けた。本来、この人が誘拐するのはシャロンだったはずなのだ。そしてマシューズの自分に対する執着も、ただ愛人が欲しいだけと分かっている。

「やっぱり、私は必要のない女なんだわ……」

小さ過ぎる呟きは音にもならず、部屋の空気は静まり返ったままだ。

人に嫌われるよりも、この存在を認められないという方が辛い時もある。ただでさえ希薄な存在が疎まれているとしたら尚更だ。マリアは溜息をつき俯いた。


 小さな溜息が聞こえたフレディは、はっとして顔を上げた。悲しげに顔を俯かせたマリアの長い睫毛に、フレディの心臓がひとつ大きな音を立てた。彼女が美人だということは既に承知していたのだが、こうしてまじまじと見ていると、それが並大抵の代物ではないことが分かる。たおやかに流れる艶やかな黒髪。メイプルクリームのように滑らかな肌。今まで出会った女のなかで、彼女に匹敵するような美人はいなかったはずだ。さらに、バラの花びらのような可憐な唇。まるで別世界の人間のようで、フレディは急に自分が恥ずかしくなった。掃除の行き届いていない乱雑な部屋は、彼女にはまるで似合わない。それに加えて、汚れきった自分の身なり。一晩中ゴミ捨て場で寝ていたと言っても誰も疑わないだろう。今になって気が付いたが、変な臭いまでしてくる。

 フレディが自分のTシャツの胸の部分をつまみ、臭いを嗅ごうとするとマリアが突然椅子から立ち上がった。

「な、何だ?」

心臓が止まりそうなほど驚いたフレディは、ひっくり返るのを何とかこらえて尋ねた。マリアは眉根を寄せ、真剣な顔でこちらを睨んでいる。ただ見惚れていただけなのに、邪な視線と感じて怒っているのだろうか。

「ごめんなさい」

とにかく謝ってしまおうとフレディが考えた時、マリアは声を潜めて尋ねた。

「あの……バスルームはどこですか?」

フレディは一瞬きょとんとした後、マリアが真剣な顔をしていた原因が分かり、ほっとして北に面した壁にあるくすんだ木のドアを指差した。

 マリアがバスルームのドアの向こうに消えると、フレディは自分の部屋を見回した。カウチには汚れた服が積み重なり、床のあちこちに散乱するゴミ。しかもテーブルの上には開けっ放しのシリアルの箱やら、ビールの空き瓶が変な臭いを放っている。

 本来、自分は几帳面な方だと思っていた。むしろ、そう心がけていた。里親は、引き取った子供達の面倒などみてはくれなかった。工場での仕事中も作業着など用意してくれない。汚れたみすぼらしい格好で学校に行けば、皆から嫌がられていじめられた。身だしなみや整理整頓、洗濯の仕方もすべてジェイソンから教わったのだ。しかしジェイソンが死んでしまい、自分の身の回りのことに構わなくなってしまった。こんなことではジェイソンに申し訳ないし、何よりもマリアに対して恥ずかしい。

 フレディは弾かれたように立ち上がり、部屋の中を片付け始めた。


「もう嫌……」

マリアはバスルームの中で呟いた。予想はしていたが、ここもひどい有様だった。トイレも洗面台も汚れに汚れている。白かったはずの陶器は黒ずみ、床にも髪の毛や糸くず、綿ぼこりが散乱しているのだ。バスタブの中を覗いてみると、湿気を含んだ黒い埃が底の方に固まっている。

「どうしてこんなに汚くしておけるのかしら……」

マリアは呆れて呟くと、両手を腰にあてバスルーム内を見渡す。すると、隅の方に洗剤のボトルが数本置いてあるのが目に入った。やはりそれらも埃を被ってはいるが、こうして洗剤が揃っているところを見る限り、元々不精な性格というわけではないようだ。敬愛する兄に先立たれ仕事を失うという、立て続けに起こった不幸には確かに同情する。だからといって、不潔にしていてもいいということにはならない。

 マリアは埃だらけのルーバー窓を全開にした。


 部屋中に散らばっていたゴミをまとめたフレディは、ぱんぱんになったゴミ袋の口を縛りながらふと思い出した。マリアがバスルームに入ったまま一向に出てこない。気になったフレディは、口を結んだゴミ袋を玄関脇に置き、そろそろとバスルームに近付いた。何かを擦るような音が微かに聞こえる。

「まさか……」

窓から逃げ出そうというのではないか。そう思ったフレディはドアノブに手を掛けた。女性が入っているバスルームのドアを開けるなんて非常識も甚だしいとは分かっている。それでも、逃げようというのでなければ、もしかしたらバスルームのあまりの汚さと悪臭に具合が悪くなり、もがいているのかもしれない。

「大変だ!」

すっかりそう思い込んだフレディは、入居した時から鍵の壊れているドアを勢いよく開けた。

「あ……あれ?」

つんのめりながらバスルームに飛び込んだフレディの視界に、黒いパンツに包まれたマリアの形の良いヒップが飛び込んできた。思わず生唾を飲む。よく見れば、彼女はバスタブの中に上体を突っ込んでいる。

「な、何してるの?」

「見て分かりませんか? 掃除をしているんです」

マリアは顔も上げず、バスタブの内側を洗剤の付いたスポンジで磨いている。

「何で?」

思わず口から出たフレディの疑問に、マリアはキッと顔を向けた。

「私はあなたに誘拐されたんですよね? あなたの要求が通るまで、私はここにいなくてはいけないんですよね? それなら、少しでも環境を良くしようとしているだけです」

さっきまでの儚げな態度とは違い、きっぱりと主張したマリアの目には強い意志が漲っている。その眼差しにフレディはすっかりたじろいでしまった。

「あ、はい……すみません……」

こくこくと頷きながら謝罪すると、すごすごとバスルームを出た。

 それからフレディは自分の部屋を見回した。決して『綺麗』とは言えないが、それでも『片付いている』ぐらいにはなっただろうと思う。しかし流しやテーブルの上には汚れた食器やら空瓶がまだ山積みになっている。フレディは急いでキッチンへ向かった。


 再び一人になったバスルーム。マリアはバスタブの黒ずみ落しを再開した。最初は触るのも目にするのも嫌だったバスタブだが、今はそんなことに構っていられない。マリアの頭の中を占めているのは、急に湧き上がって来た自尊心だった。おかしなことに、自分を誘拐したフレディに対して彼の足手纏いにはなりたくないと思ったのだ。自分の存在価値を確かめたい。「君が必要だ」と言わせてみたかった。


 二人が掃除に勤しんでいる頃、マシューズの家では警察が集まっていた。犯人からの連絡に備え、逆探知機やレコーダー、その他諸々が電話機と共に大理石でできたリビングテーブルの上に置かれている。マシューズはソファに浅く腰掛け、目の前の電話機を凝視する。瞬きも忘れているため目は真っ赤に充血し、冷や汗と脂汗でシャツはぐっしょりだ。

 一方、車を壊され怒り心頭のシャロンは、友人との約束もすっぽかしポテトチップスをヤケ食いしていた。肩をいからせて刑事達の間を歩き、特大サイズの袋から鷲摑みにして口へ運ぶ。床に食べかすを撒き散らしながら。



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