第2話 折らないで
翌朝、エレノアは庭に面したテラスで、呆然と紅茶のカップを握っていた。
昨日、初対面で山に向かって絶叫された衝撃は、一晩寝ても頭から離れてはくれなかった。
冷血と恐れられる氷の美男子カルロス・オルデンブルク。その実態は、あまりにも支離滅裂な「何か」だ。
朝の冷気が残るテラスに、優雅な足音が近づいてくる。
振り返ると、完璧に整えられた身だしなみのカルロスが立っていた。
銀髪に朝日が反射し、息をのむほど美しい。無言で立っていれば、誰もがひれ伏すような高貴さだ。
「おはようございます、エレノア殿。昨夜はよく眠れましたか?」
「あ……はい、おかげさまで」
「それは喜ばしい。環境の変化で寝不足になってしまうのではないかと気を揉んでおりました。ところで」
カルロスはすっと距離を詰めると、エレノアの背後に回り込んだ。
「長時間の移動で、肩など凝っておられるのでは? 少し揉みましょうか」
「え、あ、いえ、申し訳な――」
断る間もなく、カルロスの手が肩に触れた。その指先は思っていた以上に力強く、的確に凝りを捉えてくる。
意外なほど本格的なマッサージの心地よさに、エレノアは少しだけ気を許してしまった。
――すッ。
滑らかな手つきで、カルロスの両手がそのまま前へと滑り、エレノアの胸元を上からしっかりと覆った。
「あ! 手が滑った」
驚くほどの棒読みだった。
あまりにも滑らかな掌の移動と、まったく反省の色がない平然とした声。
エレノアは三秒ほど自分の胸の上にある大きな手を見つめ、それからゆっくりとカルロスを振り返った。
「……あの、カルロス様。今、普通に乳揉みましたよね?」
「滑ってしまいました」
「滑る軌道ではありませんでした。上から下へと意図的に降下してきました」
「時折――私の指先には、私自身の意思を無視して暴走する独立した意思があるようなのです。言わば修正不可能な初期仕様とお考えください」
真顔で言い切る男に、エレノアは深く息を吐き捨てた。
怒りというより、呆れが勝つ。実家で義母たちに嫌味を言われていた頃のほうが、まだ文脈を理解できただろう。この男の言動には文脈のかけらもない。
「仕様で済ませないでください。それと、手を離してください。指折りますよ」
「失礼、吸着力も仕様に含まれておりました。あと折らないで」
カルロスは名残惜しそうに手を離すと、何事もなかったかのようにエレノアの向かいの席へ腰かけた。
「さて、爽やかな朝のスキンシップも済んだところで、一つご報告があります」
「スキンシップで片付けないでほしいですが……ご報告とは?」
「我が領地内で、巨大な油田と金鉱が同時に発見されました」
エレノアは紅茶を一口飲もうとして、カップを浮かせたまま止まった。
「……はい?」
「油田と金鉱です。まあ、私の日頃の行いが良すぎるせいでしょうね。天がご褒美として与えてくださったのだと思います」
「日頃の行い……?」
山に向かって絶叫し、初対面の相手に童貞告白をし、朝から胸を揉んでくる行いのどこに天を感動させる要素があったのか。
「とにかく、これにより我がオルデンブルク家の資産は秒単位で増加することとなりました。ただし、子孫たちに向けて残す必要などありません。二人で一代で使い切りましょう」
「スケールが大きすぎて実感がわきませんが……使い切るって、具体的に何に使うおつもりですか」
「まずは、そうですね」
カルロスは真剣な眼差しで、テーブルに身を乗り出した。
「王都の一角にある、一軒の古書店を買収します」
「古書店?」
油田と金鉱を引き当てた大富豪が、開口一番に口にした使い道としてはあまりにもささやかだった。
「はい。巷ではただの古本屋とされておりますが……あそこは私の精神的支柱であり、知恵の泉です。店主のオヤジ殿には、夫婦生活における数々の至言も授かっております」
「……待ってください」
エレノアの頭の中で、いくつかの点が嫌な音を立てて繋がった。
「その『知恵の泉』で、具体的にどんな教えを受けたのですか?」
「『夫婦間に隠し事を作るな』『自分の欲求には常に素直であれ』『地味な奥さんほど脱がすとすごい』の三本柱です」
「ただのエロ本屋じゃないですか!!」
エレノアの声が、テラスに響き渡った。
「あの……カルロス様。まさかとは思いますが、あなたのその……不可解な言動の出所は、すべてそのお店由来なのですか??」
「不可解とは心外ですね。私はあのオヤジ殿を『心の師』と仰いで教えを忠実に実行しているだけです。『隠し事をするな』と言われたので、初対面で隠れ豊満への感動を包み隠さず山へ叫び、童貞である事実も開示しました。『欲求に素直になれ』と言われたので、先ほども素直に手が滑ったわけです」
カルロスは非常に誇らしげだった。完璧な美貌と威風堂々とした佇まいで、堂々と「エロ本屋のオヤジの受け売り」を語っている。
エレノアはこめかみを指で押さえた。
噂の「氷の美貌を持つ冷血漢」という人物像が、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。冷血などと誰が言い出したのだろう。単に、悪影響を受けやすいハイスペックな変態じゃないか……。
「とにかく買収など絶対にしないでください。というか、今すぐそのお店への出入りを禁止にしてください」
「なぜです? 彼は真の賢者ですよ。今回の油田発見も、彼が薦めてくれた『地下資源と男の浪漫』という怪しげな本を参考に掘らせた結果ですし」
「……え?」
エレノアは思わず聞き返した。
「油田と金鉱、本当に掘り当てたんですか? その本を元にして?」
「ええ。オヤジ殿が『これ読んだら一攫千金間違いなしだぞ閣下』とニヤニヤしながら法外な高値で売ってきた胡散臭い本ですが、書いてあった地質の特徴通りに掘らせたら本当に出ました。疑った自分が恥ずかしい」
「…………」
ただのエロ本屋のオヤジが、なぜか石油採掘の正確な地質データを握っていたという事実に、エレノアはさらに頭が痛くなってきた。情報源の怪しさが底知れない。
カルロスは満足そうに頷くと、優雅な動作で紅茶に口をつけた。
「そういうわけですので、エレノア殿。我々には使い切れないほどの財があります。近いうちに全身を金で包み、黄金の馬車で貴女の実家へ挨拶に伺いましょう。『金持ってんぞわしら』とマウントをとるのです」
「絶対に嫌です。そんな下品な訪問、恥ずかしすぎて門をくぐる前に逃げ出します」
「おや、ご不満ですか? では、実家を丸ごと買い取って切り崩す方向で――」
「もっと嫌です! 頼むから普通にしてください!」
エレノアの悲痛な叫びを、カルロスは爽やかな笑顔で流した。「照れているのだな」と都合よく解釈でもしたのだろうか……。
近くの樹上から、カサリと音が聞こえた。
見上げると、昨日と同じ黒装束の暗部が死んだ哺乳類のような目でこちらを見つめているではないか。
(暗部の皆様……いつもご苦労様です)
彼らの苦労が、少しだけ分かった気がしたエレノアなのであった。
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