準々決勝、オーストラリア 1
散水による水滴がわずかに残った、新緑の天然芝。
見渡す限りの真っ赤なスタジアムシート。
黄色のベストを着た関係者だけが慌ただしくスタジアムを走り回り、まだ会場にお客さんの姿はない。
8月4日。
決勝トーナメント初戦、オーストラリア。
今日の戦場、ヴィンシェスター・ユナイテッドのホームであるドリームトラフォードに乗り込んだ日本代表。キックオフの12時にはまだ大分時間があるが、渋滞を気にしてかなり早めに会場入りしている。みんながのんびり準備を進める中、俺はひとりプレイヤートンネルを抜けてピッチへと降り立っていた。
このドリームトラフォードは、俺が小さな頃から憧れていたスタジアムのひとつ。テレビでしか見たことなかったスタジアム、そのピッチに立つことが出来るこの状況に、俺の意思とは関係なく鼓動が早まっていた。
スタジアムをぐるっと見渡していると……いろいろな記憶が脳から引っ張り出される。あー、あの付近はエーブリーがゴールを決めたらよく飛び込んで行くとこだよなぁ、とか。一昨年ヴィンユナイテッドが優勝したときはあそこでカップを掲げたのかぁ、とか。当事者でもないのに不思議な感慨に浸っていた。
どうもこのスタジアムで試合をするということの実感が涌いて来ない。非現実的な場所に立つ自分を第三者が後ろから見ているような気になってしまう。
……ちょっと緩み過ぎだな。体動かして気持ち作らないと。ただ、ここで運動してたら目立ってしょうがないよな……と考えていたところで、聞き慣れた声が俺の鼓膜をくすぐる。
「どうしたの大峰君? 緊張してるの?」
後ろを振り返ると、グレーストライプのパンツスーツに身を包んだ片平さんが微笑んでいた。
「いや、そういうわけじゃないっすよ」
というかよく俺を見つけられたな。その辺りにいる記者さんたちに見つからないよう、隅の方でこっそりしていたのに。
辺りを見回していた俺に倣い、片平さんも周囲に視線を向ける。
「すごいねぇ。気がつけばもうこんなとこまで来ちゃった。グループリーグ突破したのも2000年以来の快挙だもんね」
「へぇ。そうなんすね」
「もう。ホントに大峰君は気が抜けてるというか、ぼーっとしてるというか、何事にも無頓着というか、闘争心がないというか」
確かにどれも否定はできない。ただ、欲を言えば……もう少しオブラートに包んで欲しい。基本優しい片平さんへの、心からのお願い。……おそらく数回目の。
「大峰君、気付いてる? 大峰君はグループリーグ終了時点での最多得点タイなんだよ」
「え? そうなんすか? ……すいません。全然知らなかった」
「……得点王も夢じゃないのに」
俺のグループリーグでの得点は全試合1得点で、合計3得点。今のところは上出来過ぎる結果になっていた。
片平さんがメモ帳を取り出し、ページをぱらぱらとめくる。
「大峰君の他は……イギリスのジェイコブ・エーブリーでしょ、同じくイギリスのイーサン・オースティン……あとはブラジルのバイシーニョ」
さすがの顔ぶれ、といったところだな。エーブリーとオースティンは言わずもがな。バイシーニョもイタリアリーグで大活躍している選手だし。むしろこの顔ぶれに俺がいることが不思議でしょうがない。
「2点はたくさんいるね。日本の南君もそうだし、オーストラリアのジャック・ウィルソンもそうだし……じゃなくてっ!」
すっかり片平さんの解説に聞き入っていた俺は、各国のエースたちを頭に思い浮かべていたところ、片平さんから強制的に中断させられる。
「そんなことが言いたかったわけじゃなくて! えっと……大峰君、覚えてる?」
「……何を、ですか?」
メモ帳をポケットに差し込むと、片平さんがこちらを向く。綺麗な瞳にからかいの色は少なく、表情もちょっとだけ真剣なものに変わった。
「4月にパスヴィアのクラブハウスで話したこと」
「パスヴィアで……?」
「オリンピックのこと、話したじゃん。……覚えてないか」
4月、パスヴィア……オリンピック?
……あぁ、思い出した。
「優勝したら『片平さんのおかげです』ってインタビューに答える、ってやつですか?」
「……覚えてくれてたんだ。……あんなどうでもいい会話」
スタジアムの屋根と屋根の隙間からわずかに見える空を見つめ、片平さんが静かにつぶやく。
「あたしさ、3月に大峰君のこと知ってからずっと思ってたの。この選手が世界で、もっと大きな舞台で活躍している姿を見てみたい、って。あたしの夢だったの」
「…………」
目線を片平さんへ向けることができない俺は、片平さんの視線と同じ方向の空を見る。晴れ渡る空に、大きな雲がゆっくりと流れていた。グラウンドで作業している人たちの喧騒は俺の耳から次第に薄れていく。今や片平さんの静かな声だけが、俺を心地よく満たしていた。
「もっと……夢、見させてね? あたし欲張りだから。このくらいじゃ満足しないよ?」
「……はい」
「……なんか柄にも無いこと言っちゃったわ! あはは。頑張れ若者!」
……この人はいつもそうだ。
からかってきたり、ふざけてきたり、笑わせてくれたり……今みたいに発破かけてくれたり。
俺の性格をわかった上で、あるべき方向へ優しく導いてくれる。
そんな風に笑ってごまかそうとしても遅いっすよ。
片平さんが優しい、ってことくらい……とっくに見抜いてますから。
* * *
トレーニングウェアを脱ぎ、青いユニフォームへ袖を通す。
背番号は17。
特に思い入れが深いというわけではないが、小学生の頃からなぜかこの番号を指定することが多い。サッカー選手であれば憧れる番号というのも確かに存在するけど、俺はそういったものに固執した記憶はない。だが、おそらくこの人は違うだろう。A代表でも、横浜セイラでも、このU―23でさえ同じ番号を背負っている。
背番号10番、立木恭介。
「大峰ー。俺は今かなり燃えている。なんでかわかるかー?」
相変わらずの平常営業。パンツ一枚で仁王立ちしているキャプテン立木さんは、もうすぐ入場整列だというのにユニフォームを着る様子が全くない。燃えている理由も含め、天才が考えることなんて俺にわかるわけがない、と言いたい。言えないけど。
「えっと……なんでっすか?」
「俺はまだ1点しか取ってねぇぇんだよ! 南でさえ2点取ってるってーのに!」
……あぁ、なるほど。
燃えている、ってのはそういうことか。ただ……この人どこまで本気でこれを言っているんだろう? 試合中は立木さん自ら点を取りに行くというより、むしろ俺や南さんへ点を取らせるためにタクトを振っているように感じるけど。やっぱり天才の考えることはよくわからない。
「立木さーん。聞こえとーよー。なんね? 南『でさえ』って?」
「あぁ? そのまんまの意味だろうがよ!」
「いやいや実力に決まっとろうもん。なぁ、大峰? ……あれ?」
南さんが来た時点でこの展開を予想していた俺は、そっとその場をフェードアウトしていた。この論争が続けば、俺に八つ当たりが来るのは火を見るよりも明らかだし。
「大峰、どうだ調子は?」
CBの今海さんがひんやり冷たいタオルを渡してくれた。
今海さんは高い身長と柔軟な判断力が特徴の選手だけど、今のところまだ出場の機会はまわってきていなかった。
「悪くはないです」
「頼むぞ。俺の力も貸してやるから」
そう言うと今海さんは俺の右手を両手で包み、ブツブツと念仏のようなものを唱え始めた。真剣につぶやく表情がちょっと気になったが、黙ってその様子を見届けることにした。
「ん? 今海なにしてるんだ? 大峰に呪いでもかけているのか?」
「呪い……って、えー!? なにしてるんすか!」
何気ない佐野さんの一言に過敏に反応してしまい、俺の声がロッカールームに響いてしまった。
まさか試合直前に呪い、なんて単語が出てくるとは思わない。「うるせーなー」と視線を俺に向けている倉田さんには、思わず叫んでしまった俺の気持ちも汲んで欲しい。
「今海。それあれだろ? 活躍出来なかったら私たちに飯を奢りたくなる呪い」
「その通りですよ、佐野さん。お腹を空かせて待ちましょう」
いつの間にか佐野さんも加わって、高校生の後輩から飯をたかろうとしていた。
「今海の呪いは『負け残り組』を生き抜いてかなり強力なものに成長したからな。大峰、覚悟しとけよ。3年は言われるぞ」
「ちょっと……奢る前提で話を進めないでください」
朗らかに佐野さんと今海さんが笑う。未だに出場機会がない今海さんも決してくさることはなく、こうして俺たちの緊張を解してくれたり、先程のように人手が圧倒的に足りないスタッフの手伝いまでしてくれている。かなり年下の俺や伊藤さんが試合に出ている姿を見れば、心中は複雑な気持ちが渦巻いているだろうに。
一転して態度を改めた今海さん。俺の目をしっかりと見据え、正面から両肩を掴む。
「大峰。オーストラリアは攻撃も守備も確かに強い。だが、確実にお前はその上を走っている。実際に両方と体を合わせた俺が保証してやる。いつも通り暴れて来い」
「うす」
満足げな笑みを浮かべ、今海さんが俺の肩からゆっくりと手を離す。
伊藤さんがミーティングでゾーンのことを暴露して以来、こうして俺や伊藤さんに話しかけてくれる人が増えてきた。伊藤さんも積極的に選手たちとコミニュケーションを取るようになり、日本のチームワークは目に見えて高まってきている。
ただ……これで満足していたら俺は何もしていない。何も変われていない。
自分から足を踏み出す。自発的に動いてこそ、意味がある。伊藤さんが教えてくれたように。
「俺が活躍したら……今海さん、期待してますよ。おいしいご飯」
普段、自分からはこんなジョークめいたこと決して言わない。自分でも違和感が残っているのに、佐野さんと今海さんが驚かないわけがない。
2人は呆気にとられた表情をしていたが、今海さんがすぐに笑って返事をしてくれた。
「あぁ。わかった。俺オススメのラーメン屋を紹介してやろう」
「「安っ」」
* * *
観客の歓声がひと際大きく響き渡る。
先程日本選手たちは陣内で円陣を組み終わり、それぞれのポジションへ着こうとしていた。ドリームトラフォードを埋める多くの観客が放つフラッシュの雨が、ピッチ上に絶え間なく降り注ぐ。
今日も日本のフォーメーションは4―1―3―2。
グループリーグ初戦のスペイン戦から、スターティングメンバーはほとんど固定されてきている。スペイン戦から変更されているのはGKくらいか。
GK、森さん。
DF、左から福井さん、中島さん、奥村さん、三宅さん。
ボランチ、伊藤さん。
MF、植田さん、立木さん、沢田さん。
そしてFW、俺と南さん。
それぞれの個性が相当に強い、このメンバー。
試合が終わったらみんなで和気あいあい、とはもちろんいかない。ただ立木さんのしっかりしたキャプテンシーに支えられ、試合中に連携で不安になることは少ない。普段はいがみ合っている伊藤さんと奥村さんの連携も、ここ数試合を見る限り悪くはないと思う。オーストラリアにもリラックスして臨めば決して引けをとっていない。
対する、オーストラリア。
日本と行った親善試合とメンバーの入れ替えはほとんどない。今確認した限り、システムも3―2―3―2を継続しているようだ。
やはり警戒するべきはMFのブラウンとFWのウィルソンだろう。親善試合のビデオは何度も目を通したけど、やっぱりこのふたりはオーストラリアの中でも群を抜いたセンスとフィジカルを感じる。オーストラリアはスペインに似たシステマチックなサッカーが特徴で、その基点にブラウン、詰めにウィルソンを多用してくる。勢いがつけば簡単には止められない。
ただ。
親善試合では止めるのに苦労したこのふたりだが、今日の日本には立木さんと伊藤さんがいる。CBにはウィルソンにも負けないパワーを持つ奥村さんと中島さんもいる。この人たちなら……必ず善戦してくれる。
信じる。
今まで漠然と使っていたこの言葉に、深い安心と重みを感じる。
今日も俺がする仕事はただひとつ。点を取る。ただそれだけ。
片平さんや今海さんのおかげで、キックオフ直前にもかかわらず良い集中を継続している。体も軽い。
センターサークルへ入って行くオーストラリアのFWを横目に、立木さんへと視線を向ける。鋭い目つきでセンターサークルのボールを睨んでいる。……初っ端から狙って行く気だろうか。
ピッチ上の主審が笛を口元へ運び、今まさに試合が始まろうとした――そのとき。
頬に落ちた、一粒の雨。
ピッチのほぼど真ん中にて顔を上げた俺は、今更ながらある変化に気付いた。
日差しが弱くなってる。
朝方も大きな雲が流れていたが、今や空は分厚い雲に覆われている。少々薄暗い、曇天の様相。……これは一雨来るかもしれないな。
8月4日、土曜日、12時キックオフ。
マンチェスター、ドリームトラフォード。
ロンドンオリンピック、決勝トーナメント、初戦。準々決勝。
日本 V.S. オーストラリア。




