ノコギリ
作業場で使う道具は、数が決まっている。
それぞれに番号が振られ、使用前と使用後に必ず確認する。紛失はそのまま事故や事件に直結するため、管理は厳格だ。特に刃物類は扱いが重く、一本でも所在が曖昧になれば、それだけで作業は中断され、全員の点検が行われる。
その日、ノコギリが一本、足りなかった。
確認係が数を報告した瞬間、空気が変わった。ざわつきは小さいが、確実に広がる。囚人たちも、ただ事ではないと理解しているのだろう。普段は無関心を装う者たちが、わずかに視線を動かし始める。
私は即座に作業を止めさせ、全員をその場に待機させた。
手順は決まっている。所持品の確認、作業台の点検、周囲の捜索。それでも見つからなければ、個別に事情を聞く。形式的ではあるが、順序を崩すわけにはいかない。
だが、結果は最初から見えていた。
「知らない」
誰に聞いても同じ答えが返ってくる。
目を逸らす者、逆にこちらを睨み返す者、肩をすくめてみせる者。態度は違っても、内容は変わらない。誰も何も見ていないし、何も知らない。
この手の「一致」は、偶然ではない。
彼らはこういうとき、妙に足並みを揃える。仲間意識というよりも、余計なことを言えば自分に返ってくるという経験則がそうさせるのだろう。誰か一人が得をする状況よりも、全員で黙っている方が安全だと判断している。
つまり、この場からは何も出てこない。
そう結論づけかけたとき、不意に302の姿が視界に入った。
彼は他の囚人と同じ列に並び、いつもと変わらない姿勢で立っている。騒ぎに巻き込まれている様子もなく、かといって無関心というわけでもない。ただ、状況を受け入れているように見えた。
私は一度その視線を外し、手順通りの確認を続けた。
結果は同じだった。
見つからない。
誰も何も言わない。
作業は再開できない。
時間だけが無駄に過ぎていく。
その日の業務が一段落したあと、私は記録をまとめるために通路を歩いていた。報告書には「紛失」「調査継続」と記すしかないだろう。こうした曖昧な結末は珍しくないが、刃物が絡むとなると気分のいいものではない。
「看守さん」
背後から声をかけられた。
振り返るまでもなく、誰かは分かる。
302だった。
彼は廊下の端に立ち、こちらをまっすぐ見ている。周囲に他の囚人の姿はなく、監視の目も届いている範囲だ。規則に触れる状況ではないが、それでも「わざわざ呼び止める」という行為自体が、この場所では珍しい。
「どうした」
私は足を止めたまま、短く返した。
302は一歩だけ近づき、声量を落とした。
「先ほどの件ですが」
そこで一度言葉を切り、私の反応を確かめるようにわずかに目を細める。その仕草が妙に正確で、あらかじめ決められた手順を踏んでいるように見えた。
「Aが持っています。寝台の下に隠してあります」
内容は簡潔だった。
余計な説明も、感情もない。ただ事実だけを提示する形で、彼はそう言った。
一瞬、言葉の意味が遅れて理解された。
「……確かなのか」
「はい」
即答だった。
その「はい」は、これまで何度も聞いてきた返答と同じ響きを持っていた。揺らぎがなく、迷いがない。確認ではなく、報告としての「はい」。
私は数秒だけ考え、それから頷いた。
「分かった」
それ以上は何も言わず、その場を離れる。背後で「ありがとうございます」という声が聞こえた気がしたが、振り返ることはしなかった。
Aの寝台を調べるのに、時間はかからなかった。
下に手を入れると、油で布に包まれた感触がある。引き出して確認すれば、なくなっていたノコギリそのものだった。
Aは最初、何も知らないと主張したが、現物を突きつけられるとすぐに黙り込んだ。そこから先は形式通りだ。記録を取り、処分を決定し、関係者に通達する。
手続きは滞りなく進んだ。
問題は解決した。
その日の終わりに、私は302の独房の前で足を止めた。
彼はいつも通り、床に座っていた。姿勢も、視線も、何も変わっていない。
「302」
「はい」
「……助かった」
形式的な言葉だったが、それ以外に適切な表現が思い浮かばなかった。
彼は軽く頭を下げた。
「いえ、規則ですから」
予想通りの返答だった。
だがその言葉は、これまでよりもはっきりとした意味を持って聞こえた。彼にとっては、誰が得をするかではなく、「どうするべきか」だけが基準なのだろう。
私は何も言わず、その場を離れた。
翌日、異変に気づいたのは朝の点呼だった。
302の姿勢が、わずかに崩れている。
それはほんの小さな変化で、気づかない者もいるかもしれない。だが、これまでの彼を見てきた私には、はっきりと違いが分かった。背筋の伸び方が不自然で、重心の置き方も微妙にずれている。
「302」
「……はい」
返答が、ほんのわずかに遅れた。
何かが起きている。
点呼を終えたあと、私は理由をつけて彼を確認しに行った。
独房の中で、302は壁にもたれるようにして座っていた。近づくと、顔の腫れが目に入る。頬は赤黒く膨れ、口元には乾いた血の跡が残っている。腕の動きもぎこちなく、肋骨のあたりを庇っているように見えた。
暴力を受けた痕跡だった。
「どうした」
問いかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。その動作自体が痛みを伴っているのか、わずかに時間がかかる。
「転びました」
短く、そう答えた。
私は思わず、ため息をつきそうになった。
「誰にやられた」
言い直す。
彼は一瞬だけ沈黙し、それから首を横に振った。
「転んだだけです」
同じ答えだった。
声は弱っているが、調子は変わらない。事実を述べているかのような、あの平坦な響きのままだ。
「……分かっているんだろう」
少しだけ強い口調になる。
ノコギリの件は、すぐに広まっているはずだ。誰が告げ口をしたのかも、時間の問題で知れ渡る。そうなれば、報復が起きることは避けられない。
彼はそれを理解していたはずだ。
それでも言った。
それでも今、黙っている。
その理由が、私には分からなかった。
302は、わずかに視線を下げたあと、再びこちらを見た。
「問題ありません」
そう言ってから、ほんの少し遅れて付け加える。
「ありがとうございます」
その言葉を聞いたとき、胸の奥に奇妙な引っかかりを覚えた。
礼を言われる理由が、どこにもない。
むしろ、こちらが何もしていないことの方が問題のはずだった。
私はそれ以上追及するのをやめた。
記録には「転倒による負傷」と書かれるだろう。形式上はそれで済む。だが実際に何があったのかは、ここにいる全員が理解している。
理解していて、何も言わない。
独房を離れたあとも、私はしばらく考えていた。
302は、仲間を売った。
その結果として暴力を受けた。
そして今、その事実を否定している。
通常であれば、どこかで辻褄が合わなくなる。恐怖、後悔、怒り、あるいは保身。何かしらの感情が表に出るはずだ。
だが彼には、それがない。
あるのはただ、「規則に従った」という事実と、「問題はない」という結論だけだ。
ふと、昨日の言葉を思い出した。
――規則ですから。
その言葉の意味を、私はまだ正確に理解できていない気がした。
規則を守るという行為は、本来、秩序を保つための手段であるはずだ。しかし302の振る舞いは、手段というよりも、それ自体が目的のように見える。
規則があるから従うのではない。
従うために規則があるかのような、奇妙な逆転。
もし彼にとって、他者との関係や自分自身の状態がすべて二次的なものでしかないのだとしたら、彼の行動はこれからも変わらないだろう。誰がどうなろうと、彼は同じように「正しい」と判断したことを実行する。
そして、その結果が自分にどれだけの痛みをもたらしても、同じように「問題ありません」と言うのだろう。
私は廊下の途中で立ち止まり、振り返った。
当然ながら、そこに302の姿はない。
ただ鉄格子と壁が並んでいるだけだ。
それでも、しばらくの間、誰かに見られているような感覚が消えなかった。




