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規則

この仕事に就いて最初の数日で、私は一つの諦めを覚えた。ここでは、人間の言葉というものに大した意味はない、という諦めである。


 鉄格子の内側にいる者たちは、驚くほど似たことを口にする。「やっていない」「嵌められた」「早く出せ」。語気の強さや態度の粗さには個人差があるものの、内容だけを取り出せばどれも同じだ。自分は悪くない、ここにいるべきではない、という一点に収束している。


 私は最初、その一つひとつに耳を傾けようとした。記録に書かれていることがすべてではないのかもしれない、誤解や行き違いがあるのかもしれない、そう考えていたからだ。しかし、話を聞けば聞くほど、彼らの言葉は互いに食い違い、都合よく歪み、やがてどこにも辿り着かなくなる。問い詰めれば別の説明が出てきて、その説明を追えばさらに別の理由が現れる。そうして積み上がるのは、事実ではなく「自分は悪くない」という主張だけだった。


 三日もすれば、十分だった。


 四日目から、私は聞くのをやめた。記録と規則に従い、決められた手順を守る。それだけで業務は回るし、余計なことに頭を使わずに済む。感情を挟まないことが、この場所では最も効率的で、そして安全だった。


 もっとも、囚人たちはそれを放っておかない。言葉が通じないと分かると、今度は別の手段でこちらの注意を引こうとする。作業中にわざと手を切る者、食事をひっくり返す者、夜中に壁を叩き続ける者。些細な衝突を大げさに広げて、騒ぎを起こそうとすることもある。理由は単純で、ここから出たいのだ。少しでも早く、少しでも有利な条件で。そんな訳ない。むしろ刑期が長くなる。変な話はしていない。


 理解できなくはないが、理解してやる必要はない。例外を認めれば、それが前例になる。前例はすぐに広がり、やがて収拾がつかなくなる。だから私は、規則を守る。規則の外に出ない。それだけを徹底していた。



 番号は302。


 そういう環境の中で、明らかに異質な囚人1人がいた。


 最初に違和感を覚えたのは、返事の仕方だった。点呼で番号を呼ぶと、ほとんどの囚人は面倒そうに、あるいは苛立ちを隠さずに応じる。声が小さかったり、わざと遅らせたりする者もいる。それに対して302は、呼ばれた瞬間に「はい」と答える。声量は適切で、語尾ははっきりしており、妙な感情の揺れがない。その反応が毎回同じであることに気づいたとき、私はようやくそれが偶然ではないのだと理解した。


 そしてもう一つ、彼は必ず「ありがとうございます」と付け加える。


 最初に聞いたときは、皮肉か何かかと思った。しかし表情にも声色にも、そうした含みは見られない。指示を受ければ礼を言い、物を受け取れば礼を言い、扉の開閉にすら礼を言う。その一つひとつがあまりにも自然で、むしろこちらが戸惑うほどだった。


 礼儀正しい、という言葉で片付けることはできる。だが実際に目の前で繰り返されるそれは、どこか現実味に欠けていた。まるで、礼儀という形式だけを抽出して、そのまま人の形に流し込んだような、そんな印象を受けた。


 作業時間中に観察してみると、その違和感はさらに強まった。


 木材を規定の長さに切り分ける単純な作業で、通常であれば多少の誤差や無駄な動きが出るものだ。しかし302の動作には、それがほとんど見られない。刃を当てる角度、引く速度、力のかけ方、すべてが均一で、繰り返しの中に乱れがない。結果として、切り出された木材の寸法もほぼ完全に揃っている。


 上手い、というよりは、正確すぎる。


 私は記録板に視線を落としながら、彼の動きを横目で追っていた。人間がやっているはずなのに、どこか機械の動作を見ているような感覚が拭えない。疲れや苛立ちといった揺らぎが、一切表に出てこないのだ。


 休憩時間になっても、その印象は変わらなかった。多くの囚人が小声で話したり、壁にもたれたりしている中で、302は一人、静かに座っている。孤立しているわけではないが、積極的に関わろうともしない。必要がないから関わらない、という態度がはっきりしていた。


 私が近くに立つと、彼は自然な動作で顔を上げた。目が合う。普通であれば、すぐに逸らすか、逆に睨み返してくるかのどちらかだが、302はそのどちらでもない。ただ、こちらを見ている。そして、わずかに口元を緩めた。


「お疲れ様です」


 先に言われた。


 看守に対して使う言葉ではない、と反射的に思ったが、それを指摘するのもおかしな話だ。


「……問題はないか」


 形式的な問いを投げると、彼は即座に「はい、問題ありません」と答え、やはり最後に「ありがとうございます」と付け加えた。その一連の流れがあまりにも整っていて、まるで決められた手順をなぞっているかのように見えた。


 

 業務終了後、私は記録室で302の資料を確認した。


 罪状は父親殺害。家庭内での口論の末、衝動的に暴力を振るい、そのまま死に至らしめたという、ごくありふれた類の事件である。目撃証言と物証が揃っており、本人も犯行を認めているため、裁判でも争点はほとんどなかった。判決は妥当で、手続きにも不備は見当たらない。


 どこにも、疑う余地はなかった。


 それでも一つ、気になる記述があった。


 供述の要旨として、「自分がやるべきだと思った」という発言が記録されていたのである。


 衝動的な犯行であれば、「やってしまった」という表現になるのが普通だろう。「やるべきだと思った」という言い方には、判断や選択のニュアンスが含まれている。そこに違和感を覚えたが、それ以上掘り下げる材料はなかった。


 翌日の巡回中、私は独房の前で足を止めた。


 302は床に座り、背筋を伸ばした姿勢でこちらを見上げている。その佇まいは、やはり変である。普通では無い。


「302」


「はい」


 変わらない応答。


 私はしばらく黙っていたが、結局、口に出してしまった。


「お前は、本当にやったのか」


 聞く必要のない質問だという自覚はあった。記録は揃っているし、本人も自白している。それでも、どうしても確認しておきたかった。


 302はわずかに間を置いた。その間は迷いではなく、問いの意味を正確に受け取るための調整のように見えた。


 やがて彼は、静かに頭を下げた。


「はい。私がやりました」


 声に揺れはなく、感情の起伏も感じられない。ただ事実を述べているだけの、平坦で整った響きだった。


 私はその答えを聞きながら、奇妙な感覚に囚われていた。目の前の男は、自分の罪を認めている。にもかかわらず、その言葉には「罪を認める者特有の重さ」が欠けているように思えたのだ。後悔でも開き直りでもなく、ただ「そうである」と述べているだけのように聞こえる。


「そうか」


 結局、それだけ言ってその場を離れた。これ以上何を聞けばいいのか分からなかったし、聞いたところで意味があるとも思えなかった。


 その夜、私はなかなか眠りにつけなかった。


 302の声が、妙に頭に残っている。「私がやりました」という短い一文が、何度も繰り返される。内容自体は単純で、これまで何度も聞いてきた類のものだ。それなのに、どうしてか引っかかる。


 しばらく考えて、ようやく気づいた。


 彼は「言い訳」をしていない。


 ここにいる囚人の多くは、罪を否定するか、あるいは認めたとしても必ず何かを付け加える。状況が悪かった、相手にも非があった、自分だけが悪いわけではない。そうした説明が、ほとんど反射のように出てくる。


 だが302には、それがない。


 認めているのに、説明がない。


 理由がない。


 それが、妙だった。


 

 数日後、食事の配膳中に小さな騒ぎが起きた。ある囚人がわざと皿を落とし、床に食べ物をぶちまけたのである。明らかな挑発で、周囲の囚人たちも様子を窺うようにざわつき始めた。


 私は声を上げて制止しようとしたが、その前に302が動いた。


 彼は何も言わずに立ち上がり、床に散らばった食事を拾い始めた。躊躇も逡巡もなく、ただ自然な動作としてそれを行っているように見えた。


 落とした本人が「やめろ」と言っても、彼は手を止めない。淡々と拾い集め、最後に自分の手でまとめてから、こちらに向き直った。


「申し訳ありません。すぐに片付けます」


 誰の責任でもないはずの出来事に対して、彼はそう言って頭を下げた。


 その瞬間、場の空気が変わった。挑発していた囚人は舌打ちをして視線を逸らし、周囲もそれ以上騒ぐことをやめる。結果として、問題は拡大せずに収まった。


 私はその光景を見ながら、言葉を失っていた。


 本来、秩序を維持するのは看守の役目だ。しかし今、秩序を保ったのは302だった。しかもそれは、命令や威圧によるものではなく、ただ彼の振る舞いによって自然に成立していた。


 業務を終えて記録をつけながら、私はぼんやりと考えていた。


 彼は規則を守っているのではない。


 規則を「成立させている」。


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