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大学一年 春

 松田から一冊の文庫本を借りた日、俺は一目散に家に帰って自室にこもった。幸いバイトは休みだったので時間を気にする必要もなかった。正直、「カリイルト」というタイトルは全く覚えがない。が、森井小奈津という名前は、津久見奈子が使っていたペンネームと漢字も読み方も全く同じだった。ということは、これは奈子が書き上げた小説だということになる。

 高校一年の時に同じクラスになって出会って話をするようになり、二年の夏に何も言わずに俺たちの前から消えた奈子が、一つの小説を書き上げて、そしてこうして作家デビューを果たした。信じられないが、これは真実だ。


 そう思った時、自分の中に芽生えた感情は、”嬉しい”だった。奈子が日々悩み、苦しんでいたことが、ようやくこうして一つの形になって、誰かに認められた。ここまで届いた。

 視線を落とし、最初のページをめくる。同じ箇所を何度も読み直しながら、時間をかけて丁寧に、奈子が綴ったその物語に触れていった。



 翌日の大学の講義のことが頭をよぎりながらも手を止めることができず、その全てを読み終えた時、時刻は朝四時を回っていた。そのままベッドに寝転がり、天井を見つめる。


「面白かった」

「……うん。ねぇ、それさ、本当に思って言ってくれてるんだよね?」


 呟いた言葉に、疑いの目を向けた過去の奈子が返事をする。

 あの時は恥ずかしさも相まって伝えられなかったけど、今ならもっとうまく言語化できると思うんだ。直接伝えたい。もしかしたら、本当に伝えられるかもしれない。


 さすがに眠気が襲ってきて一瞬目を閉じたが、ベッドの上に本を置いた俺の手は、そのままスマホを掴んでいた。松田からの読了を催促する連絡に返信した後、スクロールしてたどり着いた人物へ、久しぶりにメッセージを打ち込む。微かに緊張で指が震えたが、それでもやはり嬉しさのほうが大きい。


【久しぶり。この本知ってる? たぶん作者、奈子だと思う。由紀も忙しいと思うけど、近々会って話したい】


 文庫本の表紙をカメラに収め、その写真とともにメッセージを送信した瞬間、一気に全身の力が抜けた。

 スマホを置いて、目を閉じる。



「私、小説家になりたいんだよね」

「小説家……」

「でもそのためには、たくさん本を読まなきゃなんだって。それに漢字の勉強もしなきゃ」

「……そうなんだ」

「でも、このこと知ってる人って少ないからさ、秋人にも協力してほしい」

「え……由紀は?」

「言ってない。光にも。だって恥ずかしいじゃん。秋人にだって言うつもりなかったよ? でもまぁ……こうして知られちゃったのが、秋人でよかったなとは思ってる」


 奈子は安心したような表情を浮かべてそう言った。

 偶然知ってしまったとはいえ嬉しかった。純粋に応援したいと思ったし、自分に何かできることがあるならなんでもしたいと思った。……結局は無理だったけど。


 奈子が突然消えた理由には心当たりがある。誰にも言えなかったけど。奈子でさえも、俺が知っていることに気が付いていないと思う。ただの憶測に過ぎないと信じたかったのだ。でももしあの時知らないふりをせずにいたら。何か行動できていたら。一言でも言葉をかけることができていたら──。奈子がいなくなってから言ったって遅いのに。それでもそんな考えを続け、時間だけが過ぎていった。


 それから今日まで一度も奈子と連絡が取れることはなく、もう考えることをやめたほうがいいのかと思い始めていた。なのに。

 文庫本の表紙を見つめていると、涙が頬を伝った。拭う気力はなかった。そしてそのうちに眠気の限界が訪れて、ゆっくりと意識が遠のいていった。

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