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妻が貴族の愛人になってしまった男  作者: 重原水鳥
第四粒 ルイトポルト、貴族学院へ ~春季(はる)~

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【156】弓術大会Ⅴ

 ピジョンブラットルビー伯爵より伝えられた、新しい規定は、先ほどまでとは、内容が随分と変わったものとなった。


 ルキウスとプロェルス、二人の弓使いの前方に、バラバラの高さの的が、横並びになっている。

 一定の高さの的にひたすら当てていた先ほどまでとも違うが、変化はそれだけではない。


 数は全部で二十五。

 この的を、左右から、それぞれ射貫いていく。


 先ほどまでと違うのは、審判の合図で順番に矢を放つなんて事はしない点だ。


 審判の合図は、最初だけ。その合図で同時に端の的から順に撃っていく。


 勿論、途中でどちらかが外す事があれば、その時点で試合は終了する。


 ではどちらも外さなかった場合はどうなるのかといえば、『射貫いた的が多い方』が勝者となる、という訳であった。

 だから、的は二十五――奇数、用意されているのだ。

 絶対に、二人のうちどちらかが、勝るように。


 先ほどまで競われていた『正確性』は勿論の事、新たに『速さ』も追加されているという訳だ。


 速さだけで考えるなら、先ほどまで異常な早打ちをしていたルキウスが有利にも見えるが、プロェルスも早打ちが出来る事を、ピジョンブラットルビー伯爵は知っている。その為この規定での試合になったのだろうと思われた。

 何より、先ほどまではずっと動かずに矢を射る事が出来たが、今回はある程度の移動も必要になってくる。それぞれ、最初の位置は、一番端の的の正面にされたからだ。中央よりの的になればなるほど、距離が出来る。安定性を優先して、届きにくくなる中央を狙うか。一射ごとに移動して、狙いに不安定さが生まれながらも、飛距離が短くなるように調整するか。それは各々の判断に任せられているようだ。


「機会は一度。両者、共に悔いなきよう、最善を尽くしたまえ」


 ピジョンブラットルビー伯爵はそういった後、そっと片手を胸に当てた。その指には、一つの、立派なピジョンブラットの名にふさわしい、濃い赤色の紅玉(ルビー)の指輪がはまっている。貴族家の当主の証の宝飾品で、家によって指輪や首飾りやペンダントなど、様々な形をしている。


()を生みし神と勇気の精霊の恩恵が、貴殿らに降り注ぐように」


 ピジョンブラットルビー伯爵が、祝福の文言を唱える。


 ルキウスの気のせいでなければ、指輪が光ったように見えたが、日光の反射だったのか、そうでなかったのかは、分からなかった。


 ルキウスはそっと、深呼吸をした。

 世界がまるで自分に集中するように、不要なものがそぎ落とされていく。要らない音が消えていく。風の音だけがまるで残ったようだった。


 それなのに、聞こえた声があった。


「ルキウス、頑張れ!」


 主人(ルイトポルト)の声に、ルキウスは頷き、目を開く。


 もう、的しか見えない。

 けれど、先ほどまでの意識が飛んでいるような状態とは違った。

 ただただしっかりと、射るべき対象をとらえていた。


「では、最終試合を開始する! 両者、構え!」


 プロェルスとルキウスは、同時に弓を構えた。


「撃て!」


 ついに最後の試合が始まった。ルキウスは一枚目の的に矢を当てると、即座に次の的に矢を当てた。その間に、離れた位置からバキッ、という木を割る音が響く。視線は向かなかった。今のルキウスにとって一番重要なのは、己のするべき事をする、それだけだった。


 緊張して焦りが出そうな場面なのに。


(まるで世界がゆっくり動くようになったみたいだ)


 次の矢を手に取る事も、矢を番える事も、狙いを定める事も、落ち着いて、しっかりと出来た。


 世界と自分の時間の流れが変わっている。そんな不思議な感覚のまま、矢を射続ける。


(遠くにある筈の的が、まるで目の前にあるような気がする)


 自分が放った矢がどこに刺さっているかは気にしなかった。的から外れてさいえいなければ、それでいい。


(構える先が、的のどこに当たるのかが、なぜかわかる)


 今、何本の矢を放ったのかも、数えなかった。今自分が何枚目の的を射ているかなんて事は、後で考えればいい。


(嗚呼――楽しい)


 これほど高揚した気分になったのは、初めてだった。矢を射る事は今までずっと、しなくてはならない事だった。その事そのものが好きだと思った事は、なかった。

 否、しなくてはならない事であるのは変わらない。けれど今日はそこに、いつもと違う感覚があった。


 プロェルスが射た矢が、的ごと奥の壁にぶつかっているのが、視界の隅に映った。


(弓で的って、あんな風に壊せるのか)


 頭の端っこの方で、そんな事を思う。そう思考している間にも、体は落ち着いて次の矢を射ている。まるで思考と頭が別々に別れたようにも感じる。けれどそう思考するのと別の思考が、冷静に的を狙っているので、バラバラになったのは思考だったのかもしれない。


 ある意味で、先ほどまでと似た、言葉にしがたい感覚だった。けれど先ほどまでと違うのは、ルキウスの意識が明瞭だという事だった。


 矢を構える瞬間に、チカッと光が見える気がし、それに合わせるように矢を射れば、矢を吸い込まれるように的の赤い丸に当たる。


 プロェルスとルキウスが当てる的が、どんどんと近くなる。中央の的までの距離が、縮まっていく。観客席の声も上がっているようだったが、それはルキウスの集中を邪魔しなかった。


 舞台(ここ)には、ルキウスとプロェルスしかいない。


 走っている時、少しずつ走る速度が上がっていくような高揚感の高まり。限界近くまで来ている気がするのに、まだまだどこまでも、最大速度で走っていけるような気がする。


(ずっとずっと――このまま――射ていたい)


 そんな事すら思った。


 けれど、永遠な時間などない。時間は過ぎゆくものだった。人の力では止める事など、出来ない。



 バキッ! という音と共に、ド真ん中の的が、首部分から折れて、落ちる。



 射るべき的がなくなり、ルキウスの手は止まった。


 終わりを理解した途端、切り落とされていた世界のざわめきが戻る。

 肩を上下させながら、ルキウスはただ、前を見ていた。


(…………終わっちゃった?)


 風が、ルキウスの短い髪を揺らす。


 いつの間にか、プロェルスとの距離は人一人分ぐらいまで近づいていた。横に立つプロェルスを見上げ、また、的の方を見る。


(おわ、っちゃった)


 寂しかった。

 勝敗ではなく、この時間が終わった事が。


 汗が額から鼻先を伝い、ぽつりと地面に落ちた。

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