本能
「……あ、アヤ。爽耶さんも。おかえりなさい。」
「姉さん。……ただいま。」
「ただいま戻りましたー!……って、もしかして照れてます?先輩なのに?」
「……うるせぇ。」
学生用の区画に入った途端、天幕の外にいた吉川翠がにこやかに手を振ってくれた。吉川文目はどうやら思春期らしく、控えめに挨拶だけしてさっさと天幕の中に入ってしまった。この先輩はよーう。
「爽耶さん?……もしかして、アヤと何かあった?」
「なんもないですー。ちょっと反りが合わないだけで。」
「そう……またあの子は……アヤー?入るわよ。」
「姉さんなんで怒って___って、いでででで!?」
吉川翠は心配そうに息を吐いて天幕の中へと入っていった。
可哀想に吉川文目。でも自業自得だぞ吉川文目。
私はしばらく天幕を見つめていたけど、吉川文目の悲鳴が呻き声に変わった辺りで飽きてくるりと踵を返した。
今なら誰もいない。
抜け出すにはちょうどいい。
そう考えて1歩踏み出したところで____ふと、背後から砂利を踏む音が聞こえた。
もう吉川翠が戻ってきたのかな。残念……
そう思って振り返ると、吸い込まれそうな程に真っ黒な目が合った。
「……え?」
「ごきげんよう、古賀さん。お元気だったかしら。」
さらりと水が砂に染み込んでいくように、直に脳内に彼女の声が入り込んできたような感覚がした。
…………三倉沙羅!?
どうして___っていうか、いつの間にこんな近くに……!?
さっきまでいなかったはずだ。誰の気配もなかったはずなのに。
なのに、どうしてこんなにも近くに三倉沙羅がいるの?
息がかかりそうなほどに近くにいるのに、見えているのに、三倉沙羅の気配が感じられない。
風にそよぐ彼女の長い髪が頬に触れて、ぞわりと肌が粟立つ。
理性は「逃げなきゃ」と頭の中で警鐘を鳴り響かせている。それなのに、本能がそれを拒んでいる。
足が竦んだ訳じゃない。恐怖で腰が抜けた訳でもない。理由なんて分からない。
けど、どうしてか『私』は彼女に従わなきゃいけないんだ、って本能が叫んでる。
そんな訳ない。そんな訳ないはずなのに。
そんな馬鹿なこと、あるはずないよ。
動け……動かなきゃ。逃げなきゃ。
「あ、そういえば……私、まだあなたのお名前聞いてなかったわね。ねぇ、古賀さんの『本当の』名前、教えて下さらないかしら。」
『本当の名前』。
三倉沙羅の問いかけにどくんと心臓が大きく鳴って、勝手に口が開きそうになる。
あ、いけない。これは駄目だ。
嫌だ。言いたくない。
言いたくないのに____
呑まれる。
抵抗できない。
「……ひさ、やま……かえで…………」
乾いた喉が掠れた声でそう呟いたのが他人事のように聞こえた。
言ってしまったのか、私は。教えてしまった。
真名を、知られてしまった。
どうしよう。どうしたらいいの。
体が石になってしまったかのように動けずにいると、三倉沙羅は目を細めた。
「そう……ふふっ、随分と可愛らしいお名前だったのね。」
嬉しそうに笑う三倉沙羅の姿は花が綻ぶように可憐だ。けど、その目に生気が宿っているようには到底見えなくて、ただただあの彼岸の底みたいに深い闇が広がっているだけだ。
彼女が手を伸ばして頬に触れてきたけれど、作り物みたいに白い指は恐ろしく冷たい。
なんだか、死体みたいだ。
怖い。嫌だ。
兄さん___
「……そこで何をしてるんですか?」
怒気を含んだ声に三倉沙羅はぱっと手を離すと、ゆっくりと声のした方を向いた。
その動作がどうにも狩りを邪魔された肉食獣にしか見えなくて、私はまた背筋がゾッとした。
「あら、伊佐さん。そちらももう終わったんですか?」
「終わったから戻ってきたに決まっているでしょう。で、何をしていたんですか、あなたは。」
「別になんだっていいでしょう?やるべきことはやったのだし。……なぁに、その目。疑っているの?それとも、ヤキモチ?構ってちゃんだものね。」
「おれが?馬鹿なこと言わないでください。」
「あら?雛鳥みたいに私の後をついて回っていたのはどこの誰だったかしら?」
「……とにかく、彼女から離れて下さい。そこの___古賀さんが嫌がっているのに無理強いしていたでしょう。」
「……そう。そうだったの。ごめんなさいね___」
『かえでさん』。
声には出さずに私の名前を呼んで、三倉沙羅はあっさりとどこかへと去って行った。
……もしかしなくても、助けてくれた?
感じ悪いとか思ってごめんよ。
割って入ってくれた男子生徒___同じく1年生の伊佐弦見の光を反射して紫色に光る灰色の髪をぼんやりと見つめていると、伊佐はめちゃくちゃ嫌そうに顔を顰めた。
「……なにか文句でも?」
「ああ、ごめん。違うよ、ありがとう。」
回らない頭で何とかそう答えると、伊佐は少し気まずそうに眉根を寄せてそっぽを向いた。
どうかしたのかな……何か失言したかな……。
私が内心冷や汗ダラダラで視線をあっちに向けたりこっちに向けたりしていると、伊佐はそっぽを向いたまま口を開いた。
「……敬語、やめたらどうですか。」
「へ?」
「さっきのが素なんでしょう。だったら、同級生にくらいはそのまま接した方がいいと思いますよ。」
「え?……ああー……」
確かに忘れてたな、さっき。
……敬語だと壁を感じるから、仲良くなれていない気がするから、ってことなのかな……?
「……助言どーも。今度からそうするよ。」
「そうして下さい。……では、おれはこれで。」
「え!?あ、ちょっと待って!?もう少し___」
あまりにもあっさりとこの場を去ろうとする腕を掴んで引き止めると、伊佐は私の手を振り払ってギっと睨んできた。
「……おれは、あなたとはなるべく話したくないんです。では。」
伊佐はぶっきらぼうにそう告げると、足早にもと来た方へと戻って行った。
……なるべく……話したくない…………
話したく……つまり嫌われて………………?
話したのも、これが2回目なのに………?
その事実に私は呆然としたまま、しばらくその場から動けなかった。
けど、思い返してみればそのおかげで硬直していた体はすっかり平生に戻ったのだから、結果としては良かったのかもな。
だって___あのままならきっとこの後、抵抗もできずに終わってただろうから。




