わたくしの椅子
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異変に気付いたフォセットがすぐにディアヌローズの傍らにつき、アルフレデリックの指示でアントナンがディアヌローズを寝台に運んだ。
クッションに埋もれるように凭れて震えながら、ディアヌローズは怖くて仕方なかった。祖母も、同じことを言うだろうか──。コンスタンティンが口にした、非情にも思える選択をするようにと。
けれどこれ以上、自分のせいで誰かが不利益を被るのは耐えられない。もしも生死に係わる事態になったら……。更なる覚悟を、非情を求められるなら、イストワールで生きていくなんてできそうにない。
流れる涙は生き穢いディアヌローズ自身を憐れむ涙で、滴り落ちた涙が震える手を冷たく濡らすたびに、生きる意義が凍っていく気がした。ビジュを世話する罰を与えられているけれど、闇に戻ってもいいだろうか……。
目の前にいるアルフレデリックは涙でかすみ、掛けられている言葉は耳の中で反響して何を言われているのかわからない。
不意に涙を拭われて、ふわりと抱き寄せられた。見上げればフォセットで、やわらかく背を撫でてくれている。まるで凍った意義を解かすように。竦んだ心を宥めるみたいに。フォセットの手は、休むことなく背を撫でてくれている。
もう一つの罰を忘れないで、と言ってくれている気がした。
でもこれ以上、頼るなんてできない。だから──。胸の内で仄暗い決意をする。
涙の止まったディアヌローズの傍らに、フォセットに代わってアルフレデリックがついた。
「誰も其方に、手間と迷惑をかけられたとは思っていない。
だが心配はしている。
また闇に溶けようとしているのではないか、と」
穏やかな声だった。
にもかかわらず、ピクリと、俯くディアヌローズの肩は跳ね上がった。
「……皆さんはアルフレデリック様に命じられて、わたくしに付いてくださっています。ですが、わたくしのせいで不利益を被るのです。
わたくしはひとりで大丈夫です。どうか皆さんをわたくしから解放してくださいませ」
俯けていた顔を上げると、止まったはずの涙が一筋、頬を伝った。
「たとえ皆を他に任じても状況は変わらぬ。仕える者は主を選べない。だが、主次第で仕える者は生きも死にもする。不利益を与えたくないのなら、そのように振る舞えばいいだけのこと」
さらりとアルフレデリックは言った。
だが、それこそがディアヌローズには難しい。
月詠家次代としての心構えや知識は祖母から教えられたけれど、采配については成人と認められたあの日以降に実地で学ぶはずだった。
「……わたくしが正しく対処できなかったのですね」
「其方は不審者と出会った時、直ちに報告しなければならなかった」
「ですが、口止めを……」
不服そうに、ディアヌローズはアルフレデリックを見た。
「其方は命じられていないだろう。
レオナールが口止めを命じられた時点で其方が報告していれば、アンベールの件は起きなかった。
違うか?」
「……わたくしが招いた……」
呟くように、ディアヌローズは言葉を落とした。気付けなかった悔しさに唇を噛んだが、同時に今後うまく立ち回れる気は全くしなかった。
「主の采配で下の者の将来が決まる。主は仕える者たちに守られているが、仕えてくれる者たちを守らねばならない。それを肝に銘じておきなさい」
いつになく優しい声で、アルフレデリックは語った。
采配を会得できると、アルフレデリックは考えてくれているのだろうか──。もう少しだけ、ここにいることを許されたのだろうか。
考えに沈むディアヌローズの白金の頭に、アルフレデリックは大きな手をぽふりと置いた。
途端に、ディアヌローズの鼓動がとくりと跳ね上がった。二度目とはいえ、ちっとも慣れそうになくて、載せられたままの手に戸惑いを隠せない。
そんなディアヌローズの頭上から、
「とにかく──」と、さも不機嫌なアルフレデリックの声が降ってきた。
見上げれば、さきほどの優しさは名残りすらもない。
「──この一件で、私の計画は台無しになった」
アルフレデリックは載せていた手で、ディアヌローズの頭をぐるぐる回した。
こんなことをする人だっただろうか──。考えなしに動く人ではないだけに、アルフレデリックの意図がわからない。それに計画とは何なのか。目を回しながら考えたけれど、思いつく前にアルフレデリックの手は離れていった。
その頭にディアヌローズは自身の手をやり、貝紫の瞳でアルフレデリックを見上げた。
「震えは収まったようだ。戻れるか?」
ふっとアルフレデリックは笑んだ。
ディアヌローズは目を瞬かせる。
「……はい」仄暗い気持ちは消えていた。
「おそらく夜には熱を出すだろうが、罰と思って諦めるように」
先にアルフレデリックは応接卓へと戻っていった。
ディアヌローズがフォセットから身だしなみを整えられて戻ると、コンスタンティンは優雅にお茶を飲んでいた。
「コンスタンティン様、お見苦しいところをお見せしてしまい失礼いたしました」
鷹揚にコンスタンティンは頷いた。
「常に仏頂面なアルフレデリックが、甲斐甲斐しく世話をしている姿は新鮮だった」
ディアヌローズは曖昧に微笑んだ。たしかにアルフレデリックは諭してくれた。けれど背を撫でてくれたのはフォセットで、アルフレデリックには頭をぐるぐる回されている。
コンスタンティンはティーカップを応接卓に置いた。
「さて、本題に入ろうか」
至極まじめな顔で、緑柱石の瞳をディアヌローズに向けた。
「私が其方を庇護しよう」
きょとりと、ディアヌローズが小首を傾けると、アルフレデリックがコンスタンティンの話を引き取った。
「今のままでは、其方は洗礼を迎えられないのだ。
洗礼しなければ人として認められず、領民登録もできない。
一般的に洗礼は、保護者、親族、もしくは後見人の許で行う。
故に、私は其方の後見人を探していたのだが──」
と、ちらりと隣のコンスタンティンを見た。
「折よく、私が君を庭で見かけた」
緑柱石の目を楽しそうに細めた。
どうやら、アルフレデリックにとっては不本意な流れになっているらしい──。ディアヌローズは慎重を期して口を挟まず、アルフレデリックの言葉を待った。
案の定、気難しい顔でアルフレデリックは続きを口にする。
「通常、洗礼を行った領地が所属領地となるが、其方は領地を憶えていない。洗礼を迎えるまでに領地が判明しなかった場合、洗礼を行うのは難しい」
そこでだ、とコンスタンティンが再び口を開いた。
「私は中央に伝手があるんだ。
君がランメルト領で洗礼を行い、仮の領民登録をできるよう、知り合いに頼もうと思っている」
「ご迷惑になるのではありませんか?」
「なに、息子の妻になる予定であると言えば、断られたりしないさ」
「冗談でもやめてください」
間髪を入れずに渓谷級の皺を眉間に刻んだアルフレデリックと、コンスタンティンを交互に見ながら、ディアヌローズは呆気にとられた。やはりふたりは親子。しかし『妻に』とは──。アルフレデリックの歳を考えたことはないけれど、いくら何でも歳の差があり過ぎる。
揶揄いに決まっているのに、どうしてアルフレデリックは本気に受け取っているのだろう。
コンスタンティンはといえば、アルフレデリックの反応を気にも留めていない。
「どうかな、ディアヌローズ。将来、アルフレデリックの妻になってくれるかは置いておくとして、悪い話ではないだろう?」
ディアヌローズはアルフレデリックを窺って、不機嫌ながらも頷いたのを確かめた。
「お手数をお掛けいたしますが、よろしくお願いいたします」
「では決まりだ。これから洗礼式まで、君には教育を受けてもらう。淑女教育はフォセットに任せるとして、あとの基礎教育は……適任がいたな。後で会わせよう。音楽の教師はどうするか……」
コンスタンティンはひじ掛けを指でコツコツ叩いた。
「ディアヌローズは基本文字は習得済みで、ヴィオリナも弾けます。それに刺繍も始めていますよ」
コンスタンティンはアルフレデリックをじっと見た。
「なぜ其方は、ディアヌローズが刺繍できると知っている?」
「……それは、報告が──」
話の途中で、アントナンが手を挙げて進み出た。口許がにやけている。
コンスタンティンは愉快を見つけたとばかりに、
「申せ」と、ニヤリと笑んだ。
苦々し気に口を噤んだアルフレデリックに代わって、アントナンが口を開いた。
「恐れながら、アルフレデリック様はお嬢さまよりハンカチを頂戴しております」
「余計なことを言うな。其方らも贈られただろう」
ギロリと、アルフレデリックはアントナンを睨んだ。
「なんだ。心配無用だったか」
「いい加減にしてください。私は妻を娶る気はありません。兄上にどうぞ」
「後悔しても知らんぞ。──まあ、いい。
さて、ディアヌローズ。領地の部屋が整い次第、君はランメルト領に移るように」
待ってください、とアルフレデリックは声を上げた。
「保護者が現れるまでは、エレオノールが姉の真似事をする約束なのです」
「保護者も庇護者も変わらんし、エレオノールなら話せば分かってくれるだろう。私は早く領地に慣れた方がいいと思うがね。
ディアヌローズ、君はどうしたい?」
考えるまでもないこと。これまでにエレオノールは心を砕き、愛情を向けてくれた。何より、ディアヌローズ自身がエレオノールと離れ難かった。
「エレオノール様は、わたくしを実の妹のように可愛がってくださいます。わたくしはエレオノール様のお気持ちに沿いたく存じます」
束の間、コンスタンティンは顎を摩った。
「そうか──。
だが、必ず洗礼準備を始める頃には移領させる。いいね」
口調は優しいのに、有無を言わさない力があった。ディアヌローズは貝紫の瞳で、まっすぐコンスタンティンを見つめる。
「我儘を叶えてくださり、感謝いたします」
うむ、とコンスタンティンは頷いて、部屋をぐるりと見渡した。
「フォセット、調度を女の子らしく調えてくれ」
ディアヌローズは両手を前に突き出してブンブン振った。今になんら不満はなく、移領は来年。すでに愛着もある。模様替えなんて勿体ない。
「このままで十分です」
芝居じみたようにコンスタンティンはがっかりした。
「私は君を庇護するんだ。仮とはいえ、父だと思っている。娘のための部屋を調えるのは当然だろう? ──そうだ。『お父さま』と呼んでくれないか?」
「えっ……!?」
期待の眼差しを向けるコンスタンティンを前に、ディアヌローズは目を瞠って絶句した。物心ついた時には既に祖母と二人きりで、呼びかけどころか父の顔すら憶えていない。奏の時にも経験したことのない言葉を、口にするのは勇気が要る。
そもそも、呼びかけていいのだろうか──。
「さあ、ディアヌローズ。『お父さま』だ。どうせ将来はそう呼ぶようになるのだから、今の内から慣れておいた方がいい」
待ちきれないとばかりに急かすコンスタンティンを横目に、ディアヌローズは困り果ててアルフレデリックを窺った。
「……諦めなさい。言わねば収まらぬ」
ぼそりとアルフレデリックは言い、その後ろに控えるアントナンたちは苦笑している。
どうやら覚悟を決めるしかないらしい。ディアヌローズは小さく息をつく。初めて口にする言葉に緊張は高まり、頬が熱くなるのがわかった。
「……お、おとう……さま…」
「娘に呼ばれるのは格別だ」
これ以上ないほどに口角を上げたコンスタンティンに、ディアヌローズは記憶にない父を重ねた。
父が存命だったなら、同じような表情を見せてくれただろうか──。
奏の時、祖母に父母について訊ねた記憶はある。
けれど淋しさを感じないほど祖母に愛情を注いでもらったし、会いたくても会えないのだと思慕の念に蓋をした。やがて僅かな記憶も薄れてしまった。
とはいえ顔すら憶えていないなんて、自分の薄情さにはさすがに呆れてしまう。
せめて顔だけは忘れないようにしていればよかったと、コンスタンティンを見て今さらながらにそう思った。
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コンスタンティンの来訪から数日で、室内は女の子らしいものに調えられた。白を基調とした家具に、小花柄の布類。敷物もタペストリーも全てが替えられた。
小花柄の布地が張られた長椅子に、ディアヌローズは腰掛けた。
隣には、同じ衣装を着つけられたナディもいる。
この部屋で季節を三つも過ごしたはずなのに、慣れなくて何とはなしにそわそわする。
長椅子の真新しい座面をそっと撫でた。
──これが、わたしの椅子。
わたしの居場所。
もう、みんなとの別れを心配しなくていい。




