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イストワール国~その花の名を私は知らない~  作者: 天音蓮
第二章 転移編

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感謝の贈り物

表現の修正をしました。

 ディアヌローズが領事棟へ戻る日。

 アントナンとアンベール、オードレイがフロラント商会にやって来た。


 ディアヌローズを見るなり安堵の表情を見せた三人の前で、ディアヌローズは申し訳なさそうに肩を落とした。


「ご迷惑をお掛けしました」

「迷惑なんてしていませんよ。心配したんです。お元気になられて安心しました」


 アントナンはそう言って苦笑し、アンベールとオードレイもそれぞれ同じように苦笑交じりで言った。


 慣れ親しんだ人たちに囲まれて、ディアヌローズはイストワールに留まれた幸せを噛みしめた。《奏の世界》には還れなかったけれど、他の世界に転移するような最悪の事態にならずに済んだのだから。



 さあ出発、となったところで、不意にディアヌローズの身体が持ち上がった。

 ディアヌローズは呆気にとられる。

 しかしアントナンに抱き上げられたとわかるや否や、じたばたと暴れた。こんな姿を友人となったクロエには絶対に見られたくないのだ。

 半分涙目になりながら抗議の声を上げる。


「一人で歩けます。降ろしてくださいませ」

「体力が落ちているのに無理ですよ。階段で足を滑らせてお怪我なされたら、私がアルフレデリック様に叱られてしまいます」


 アントナンは大仰に眉尻を下げた。

 いかにもわざとらしいアントナンに、ディアヌローズは胡乱な目を向ける。だが、自分のせいでアントナンが叱られてしまっては万が一でも寝覚めが悪い。


「その仰いようはズルいです……」


 ディアヌローズは渋々抵抗を諦めた。最後にクロエにひと目会いたかったけれど、こうなれば会わないようにと祈るしかない。


 幸か不幸か、クロエは一階の店内にいた。目が合ったが笑われずに済んで、ディアヌローズは胸を撫で下ろす。人目があって声を掛けられないまま視線だけを交わし合い、微笑み合って別れた。



 店内を通り抜けて外へ出ると、商会主人のロランがいた。彼を商会主人と知って見てみれば、纏う雰囲気や佇まいはいかにも商会主人然としている。柔和な笑みを湛えながらも、青い瞳の奥には強い輝きがあった。


 アントナンはディアヌローズを下ろし、ロランと別れの挨拶を交わし始めた。


 ディアヌローズも礼を伝える頃合いを見計らう。フォセットは嫌な顔をするかもしれないが、一言の礼すらしないのは月詠家成人としての矜持が許さない。散々お世話になったのだから、礼を伝えるのは当然だと思う。


 大人たちの挨拶が終わるとすぐに、ディアヌローズは叱責覚悟で一歩前に出た。

「大変お世話になりました。感謝いたします」


 一瞬ロランは目を瞠り、それから目尻を下げた。左手を胸に当てて恭しく礼を執る。

「お役に立てましたこと、誠に光栄でございます」



 馬車の扉が開けられた。

 まずアントナンが乗り込み、ディアヌローズをアンベールから抱き上げると、そのまま膝にのせた。

 馬車の中はディアヌローズにとって商会の部屋とは比べようもなく快適で、一気に暑さが和らいだ。やはり魔術で温度調節をしているらしい。


 ディアヌローズは窓を見遣る。玻璃(ガラス)越しに、馬車に向けて礼を執っているロランが見えた。馬車が動き出してもロランの姿勢はそのままで、しだいに小さくなっていくロランをディアヌローズは見続けた。結局見えなくなるまで、ロランの姿勢が崩れることはなかった。


 正面を向くとフォセットと目が合い、ディアヌローズは気まずく眉尻を下げる。


「あの……フォセットさん。勝手に話してごめんなさい」


 フォセットはディアヌローズをひたと見て、小さく嘆息した。

「憶えていらして為さるのは感心いたしませんよ。平民相手に軽々しく口をきいてはならないのです」


 普段の陽だまりのように温かな声は鳴りを潜め、日陰みたいに寒々しい声だった。ディアヌローズは思う。いつも優しく接してくれるフォセットが身分社会を知らしめ、彼女が生粋の貴族女性であるとの現実を突きつけている、と。


 神の家へ行くと言ったなら、フォセットはきっともう口をきいてはくれないだろう。


 此の世界は切り分けられている────


 強い陽射しの陰がより濃いように、ディアヌローズの心に深い哀しみの翳を落とした。

 この現実に抗う術はないのだと、ディアヌローズには吞み込むことしかできなかった。




 ◆*・・・・・*◇*・・・・・*◆




 馬車が領事門の手前まで来ると、ディアヌローズは聖堂へ行った時のようにまた木箱へと入れられた。そのまま領事棟ランメルト領事区域の、慣れ親しんだ部屋まで運ばれる。



 木箱の蓋が開けられた。

 ディアヌローズの貝紫の瞳に、馴染みのある風景が映る。懐かしさが胸にじんわりと広がった。仮寓であるはずのこの部屋は、もうすっかり自分にとっての家になっていたと気付かされた。


 元気に挨拶すると、みんなの心配そうな顔がみるみるうちに綻んだ。


 自分のことを想ってくれている人たちがいる──。

 それがどうにも面映ゆくて堪らない。


 けれど同時に、哀しみが胸に迫る。

 みんなと別れて神の家へ行く──。

 あまり時を置いてはならない。これ以上ともに過ごしたら、別れがもっと辛くなってしまうから。




「アルフレデリック様とエレオノール様が半鐘後にいらっしゃるそうですわ」


 ベアトリスが(ことづけ)を伝えたその声で、はっとディアヌローズは我に返った。

 息をつく間もなく、湯浴みに連れて行かれて支度を済ませた。




 三と半の鐘が鳴って間もなくエレオノールが、そのすぐ後にアルフレデリックがやって来た。


「この度はご迷惑とご心配をお掛けいたしました。申し訳ございません」


 応接卓の手前で、ふたりを出迎えたディアヌローズは神妙な面持ちで詫びた。

 エレオノールは嫋やかな手でディアヌローズの頬を包む。


「気にする必要はなくてよ。あなたのせいではないもの。元気になって良かった……。とても心配したわ」



 アルフレデリックは親指で頤を摩りながら、淡い金の瞳でディアヌローズを見つめた。

 暫くすると「──何とかなったか」と言葉を落とした。


 一体どういう意味だろう。ディアヌローズは小首を傾げた。


 アルフレデリックは頤を摩っていた手を止め、おもむろに話し始める。

「……危なかったのだ。命があるか、ぎりぎりのところだった」


 驚きながらも、ディアヌローズは心の隅で得心した。あの時の自分は朽木のようだった。(うろ)を持った朽ちた身体。ただ在るだけの存在。洞に心が棲みついているような感覚。あの時、自分は()でしかなかった。


「わたくしも……そう思います」


 深く頷くディアヌローズに、アルフレデリックは至極まじめな顔で言う。


「其方から状況を聞きたい」



「嫌だわ二人とも。わたくしは喜び合うために来たのよ」

 堪らないとばかりに、エレオノールが声を上げた。



 ディアヌローズは慌てて二人に席を勧める。フォセットを窺えば笑みが深いので、きっとこのお茶会の後には長い立ち話しについてのお説教が待っているだろう。


 ベアトリスがお茶を淹れている間に、ディアヌローズは贈り物を持ってきてくれるようフォセットに頼んだ。



 まずは三人でお茶を味わう。


 ディアヌローズは商会でどのように過ごしていたかをふたりに語った。

 だが胸の内は穏やかでない。フォセットを待つほどに気後れが増していた。

 倒れたせいでかなり日があき、贈り物の仕上がりが気になって仕方なかった。できればやり直したいけれど、その分だけ神の家へ行く日が遅くなってしまう。日延べすればするほど、神の家へ行く決意が鈍ってしまのが怖い。それだけは絶対に避けなければならないことだった。




 木箱を抱えてフォセットが戻ってきた。

 ディアヌローズは木箱をちらりと見て、膝においた手に視線を落とす。ひとつ息を吸い込んで覚悟を決め、伏せていた視線を上げた。


「おふたりにはきょうまで、とてもたくさん助けていただきました。心より感謝いたします。おふたりにお礼いたしたく、こちらを用意いたしました。どうかお受け取りくださいませ」


 対面にいるエレオノールとアルフレデリックのそれぞれの前に、フォセットから木箱を置いてもらう。


「今わたくしにできる精一杯の品です。笑わないでくださいませね」


 頬はおそらく、熟れた林檎のように真っ赤だろう。それだけの熱が頬に集まっているとの自覚があった。恥ずかしさと二人の反応を見る怖さとで、ディアヌローズは顔を俯けた。



 カタリ、コトリと木箱の音を、俯けたままディアヌローズは聞いた。身体の内側からドクンドクンと音が聞こえる。心臓が口から飛び出そうだった。


 而して──。


「凄いわ! ディアヌローズ、ありがとう。嬉しいわ」


 恐る恐る顔を上げたディアヌローズの前に、喜色満面に溢れたエレオノールがいる。我知らず詰めていた息をはき出した。


「とても上手よ。大切にするわね。アルフレデリック、貴方のを見せて」

「……ああ」


 生返事を気にすることなく、エレオノールはアルフレデリックのハンカチを半ば奪うように手にした。


 ディアヌローズはアルフレデリックを窺った。生返事なのも、無表情でいるのも、稚拙な品を渡されて憤慨しているとしか思えなかった。自己満足を他人に押し付ける最低の行為だと思い至る。エレオノールは子どもの戯れとして赦してくれたのだ。きっと。


「エレオノール様、アルフレデリック様。……申し訳ございません。取り下げさせてくださいませ。代わりに目新しさはありませんが、歌かヴィオリナでお礼したく存じます」



 エレオノールはハンカチから目を離した。きょとんとした顔をしている。

「どうしたの?」


「……わたくし、拙いものをおふたりに押し付けてしまいました。お赦しくださいませ」

 膝の上に置いた手を固く握り、ディアヌローズは唇を引き結んだ。


「何を言っているの? とても嬉しくてよ。アルフレデリック、貴方もでしょう? ──ちょっと、アルフレデリック!」


「……」

 アルフレデリックは無表情で無言のままだった。


 その肩にアントナンが触れ、「アルフレデリック様」と声をかけた。


 珍しくアルフレデリックの視線が泳いだ。

「……ああ。その幼さで刺繍を仕上げたから驚いたのだ」


「アルフレデリック、他に言うべき言葉があるでしょう?」


 エレオノールが憤慨したように促すと、アルフレデリックはきまり悪そうに言う。


「──ありがとう、ディアヌローズ」


「おふたりの寛大なお心に感謝いたします」


 ディアヌローズは祖母から仕込まれた笑顔を必死に貼り付けた。他の人たちへの贈り物を渡すのは一旦やめて、仕切り直すべきだろう。

 そう考えた矢先、フォセットがアントナンに贈る品を持ってきた。


「フォセットさん。そちらは、もう……」

 出さないで欲しい、とディアヌローズは言いかける。


 しかし、エレオノールが目敏くフォセットの手許にある木箱を見つけた。


「そちらは、どなたへ贈るの?」


「いえ、あの……」

 ディアヌローズは言い淀み、フォセットを見る。どうか出さないで欲しい、と視線を送った。


 だが、フォセットはゆっくりと唇の端を引き上げて笑窪を深くする。


 どうやら中止することは許されないらしい。フォセットから促されるまま、ディアヌローズは半ば捨て鉢な気持ちで木箱を受け取った。

 長椅子から降ろしてもらい、ぎゅっと箱を抱えてアントナンの前へと進み出た。


「声が出ない時には、大変お世話になりました。加えて聖堂では多大なご迷惑をお掛けしてしまいました。どうか、お受け取りくださいませ」


 一気に言い終えて、ディアヌローズはビュンと音がしそうな勢いで箱を差し出した。


「私もいただけるのですか? ありがとうございます」


 アントナンはこれ以上ないほどのにこやかな笑顔で片膝をついた。箱を受け取ると、中のハンカチを取り出して口端を上げる。


「これは素晴らしい出来ですね。私もアルフレデリック様のように感動で声が出なくなりそうでしたよ」


 眉間に皺を寄せたアルフレデリックが低い声を出す。

「アントナン、止めよ」


 おどけたようにアントナンは肩を竦めた。


 相変わらず芝居じみたことをする人だ、とディアヌローズは思う。最初の頃はアルフレデリックの側近なのが不思議だった。けれど今ではアルフレデリックには欠かせない人だとわかる。一体、アントナンはどういう経緯でアルフレデリックの側近になったのだろう。もう知る機会が無いのが残念だ。




「三枚も仕上げるなんて、大変だったでしょう」

 エレオノールは杏色の目を大きくして驚嘆する。


「聖堂へ行く許可を願い出たときから刺し始めました。上達もしないままお渡しするに至り、お恥ずかしい限りです」


 《奏の世界》に還れた場合を考えると、聖堂へ行く前に刺し終えている必要があった。それがこんな大惨事を引き起こすなんてディアヌローズには思いも寄らないことだった。



 そしてさらに思いがけない事態になる。

 突然、フォセットが恭しく進み出て発言の許可を求めたのだ。ディアヌローズには嫌な予感しかない。

 発言はアルフレデリックとエレオノール双方から許された。


「お嬢さまはわたくしどもにまでご用意くださいました」


 途端にエレオノールの目が輝く。

「ぜひ見せて頂戴。いいでしょう? ディアヌローズ」


 拒否できないエレオノールのお強請り。

 ディアヌローズは諦念をもってフォセットに用意を頼んだ。


 まずは本人たちにハンカチを贈り、それから本人たちの手によって応接卓に並べられた。

 エレオノールはそれらを一枚ずつ手に取ってはじっくり見ていく。


「糸を瞳の色にしたのね。全部のデザインを変えるなんて大したものだわ」


 感心しきりにエレオノールが言うたび、フォセットは満足そうに頷いている。

 ディアヌローズは汗ばむ手を膝の上でぎゅっと握ったまま、消え入りそうな声で懇願する。


「恥ずかしいので、もうお許しくださいませ……」


 エレオノールは愛おしそうにディアヌローズを一目見ると、みんなに向けて淑女の笑みを浮かべた。


「ありがとう。お返しするわ」




「そろそろ、よいか」

 アルフレデリックがしびれを切らしたように言った。


 重苦しい空気が、一瞬で部屋に満ちる。

 銀の目立ったアルフレデリックの瞳がディアヌローズを捉えた。


 水面に波紋が広がるような静かな声で、アルフレデリックが問う。


「其方はなぜ生きている?」






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