2章(4) 始まりの場所
二章―Ⅳ
「あっちー」
昼過ぎまで寝ていたといってもまだ二時を少し回った程度で、六月の湿気交じりの茹だる様な天気は未だに猛威を振るっている。
「これじゃあ、シャワー浴びた意味がないよなー。まったくこれからもっと気温が上がると思うと憂鬱だよ」
「ほら!元気出して!」
動く屍の様にグダグダと歩いていると隣で涼しい顔して雪燈が死体に鞭を打つことを言ってくる。なにが嬉しいのかニコニコと笑顔でついてくる。
「お前はいいよなぁー。あれだろ、暑さも寒さも感じないんだろー。たくっ、人の気も知らないで無茶言うなよ。」
「うん。ごめん」
あれ?なんか、地雷踏んだか?
「なんだよ。急に大人しくなって」
「・・・うん。汗だくになるほど“暑い”って感覚も、肌が震えるほど“寒い”って感覚も普通の人には当たり前に感じられるものが、今の私には感じられないものなんだなって思って」
「わ、悪かったよ!今のは俺が悪かった!」
自分の失言に気づき、慌てて後ろを振り返ると、笑顔のままの彼女がそこにいた。
「あれ?―――お前!騙したな!」
「へへーん。騙される方が悪いんですよー」
「まったく、言っていい冗談と悪い冗談が―――」
「でも、嘘じゃないよ」
「うぐっ」
彼女の鋭い切り替えしに息が詰まる。
「ねぇ、手をつなごう」
「はい?」
「いいじゃん!手をつなごうよ。折角のお散歩だよ」
「散歩って言ったって、ただ病院を目指してるだけじゃないか」
そう。家を出る前に浩市に電話し、一昨日のお礼と少女の入院先について話をして、現在その少女が入院されているであろう病院に向かっているのだ。流石に少女の名前までは浩市も分からなかったらしいが、そこは雪燈に病院内を探してもらえば大丈夫だろう。なので別に散歩という訳ではないのである。
「わかってないなぁー、こうやって歩いてるだけで散歩になるの。それに、良平君と普通に当たり前に散歩できるのが嬉しいんだよ」
「え?」
「あれ?なになに照れてくれてるんですか?」
「違うよ!そういう態度とってると一生手なんて繋いでやんないぞ」
「あわわ、嘘です嘘です。ごめんなさい」
「まったく。ほら」
ぶっきら棒に左手を彼女へと差し出す。そこへ嬉しそうに彼女の右手が重なる。別に彼女の体温や手の感触が伝わってくる訳ではないが、“そこ”に彼女の手があると感じることはできる。
「あれれ。今日の良平君は機嫌が悪いようで、なんかいつもより優しいですね」
「バカ言ってると離すぞ」
「冗談です。冗談です」
別に優しさとかじゃない。一瞬悲しそうな彼女の顔が、見たこともない少女の顔と重なり、その顔を見たとき何故か懐かしさと少しの痛みを感じ、そうするのが―――いや、そうしなければならないと感じてしまったからだ。ただの気まぐれだ。
しかし、この格好、見えない人にはただの高校生が独り言喋りながら歩いてる図に見えるんだよなぁ。
唯の電波少年じゃねーか!誰にも会わないことを祈るぞ!
「はぁ。ほら行くぞ」
「はい!」
単純にも雪燈はぱーっと、満開の笑顔になる。
まったくこの笑顔を見れたからいいと自分に言い聞かせるとしよう。
それから歩くこと三十分―――人通りの多い道は避けながら歩いていたら、思いのほか時間がかかってしまったが、なんとかこの街で一番大きいであろう総合病院に辿り着いた。
「やっと着いたぁー」
「バスに乗れば早かったんじゃないですか?」
「なるべく経費削減で行かなきゃなんないんだよ!今月ほんとやばいんだからな―――まったくあの人たちも子供のこと忘れてんじゃないのか!」
最近、通帳への振り込みが無くなってきている両親への悪態が口につく。
「さてと。それはさておき一昨日の少女が無事だか探してきてくれよ。僕は待合室で少し休んでるからさ。流石に疲れた、もう限界です」
「まったく体力がないですね!それじゃあ、ちょっと探してきますね」
一般人はこれが普通なんだよ。と適当に返事をし、クーラーの効いた待合室のソファーへと体を預ける。
雪燈が帰ってくるまで何もやることがなくなった僕は、漠然と休日の病院の風景を流し見る。
「そういえば、小学校の時もあの冬の日も目を覚ましたらこの病院だったんだよな」
どちらも記憶を失って、目を開けるとこの病院の無機質な白い天井が一番最初に見た光景だった。中学三年の雪燈との出会いの時は幽霊自体に驚きはしたものの、記憶を失ったことに対してはこの天井を見たとき、またかと自分の不幸を呪えるほど落ち着いていたが、小学五年の最初の記憶の喪失は酷いものだった。まぁ、一日分と生まれてからの10年分という大きな違いはあったのだが。
何が何だかわからない―――わからないということがそれほど怖いものはこの世にないと初めて体験した日だった。
喚き散らし、泣き叫びながら自分という存在はなんなのか必死にその小さな両手で取り戻そうと考えに考えて、そして―――世界に絶望した。
それからは少しずつ家族を含めた“他人”から得た椎名良平という人物像を必死に演じ続けた。そして現在に至る。
もしかしたら今も演じ続けているのかもしれない。さらに言えばそれは本来の椎名良平とは違う役なのかもしれない。
「―――僕は大丈夫だ」
一言、自分に言い聞かせるように呟く。この場所は僕の原点というわけではないが、毎回来るたびに喪失感に襲われる。でも今は世界に対してただ絶望し、何もできなかった小学五年生の僕ではない。隙あらば世界に対して右ストレートを打ち込む気合いくらいはある。
「大丈夫だ―――」
瞳から零れる様に落ちた雫を拭き取ると共に僕は目を瞑った。
「良平君!」
「うわぁ!」
突然の大声で飛び起きる。どうやら彼女を待っている間にいつの間にか寝てしまったらしい―――丸二日間寝た人間の行動としては我ながらどうかと思うが、慌てて声のした方を振り向くと案の定、雪燈が膨れっ面でこちらを見ていた。
「もう!人に仕事押し付けといて、自分は呑気に昼寝ですか?というかどんだけ寝るんですか!」
「ご、ごめん。ちょっと考え事してたら、いつの間にか寝ちゃったらしい」
「あぁ、ここは私と良平君が出会った思い出の場所ですからね」
ぐるりと周りを懐かしそうな目で見渡す。
「思い出の場所かどうかは疑問だけど、まぁそんなようなことを思い出させられたよ。ところで、どうだった?」
「えぇ、首尾良く見つかりましたよ。まだ目を覚ましてないようでしたけど、お医者さんの話を盗み聞く限りでは問題ないようですよ」
「それは、良かった…。んじゃあ、今すぐに久世さんの所に向かおうか」
「ん?」
待合室に居る人達の刺すような視線に気づき、そこから先程の普通の音量で話していた自分に思い当たり、慌ててソファーから腰を浮かし、逃げる様に外へと向かう。
その際に待合室の時計を見ると四時を回ったことがわかる。どうやら一時間ほど寝てしまったらしい。
病院の外に出ると太陽はまだ健在で、多少気温は落ちたといっても、猛威を振るっていた。
「んー、このまますぐに事務所に行っていいんだけど、できれば実際に戦った方のお前を連れてった方が話も早いだろうし、ちょっとゆっくり行こうか」
「そうですね。今の私では客観的に見ていたにすぎないので、夜の私に切り替わってから久世さんの所に行った方がいいかもしれませんね」
それにこのまま行けばもう一人の雪燈さんに後でどんな目に会うかわからないしな。
「よし!そうと決まれば駅前でちょっと時間潰してから行きますか」
「了解です!」