第75話:兄弟の夜
レオ視点のお話です。
旦那様達が部屋を後にすると、パタンと静かに扉が閉まる音が響いた。
お嬢も「夕食の時間も近いし、お腹に優しいもの作ってくるね」と言い残して出ていった。するとアーサーとセシルも「手伝うよ」と後に続いた。
俺も手伝いに行こうとしたが、部屋を出る直前、振り返ったアーサーに「レオはヒロに付いていてあげて」と言われ、足を止めた。
どうしようかと立ち尽くしていると、ベッドの上の兄さんから椅子へ座るよう声がかかった。
その言葉に従い、先ほどまで旦那様が座っていた椅子に腰を下ろす。
二人だけになった部屋は、先ほどまでの賑やかさが嘘みたいに、しんとしていた。
ふと窓の外へ目を向けると、西の空にはまだ夕焼けの名残が残っていた。昼間ほどの暑さはもうなく、開け放たれた窓から吹き込む風も、どこか涼しい。
気づけば日が落ちるのも少し早くなっていて——いつの間にか、夏も終わりに近づいているんだなと思った。
「レオ、今回のこと、いろいろすまなかった」
躊躇いがちな兄さんの声が耳に届き、視線を目の前の兄さんへと向ける。
深々と頭を下げる兄さんに、俺は小さく息を吐いた。
「いいよ、そんなこと」
そう言うと、顔を上げた兄さんと視線がぶつかった。
「でも、ちゃんと兄さんの口から聞きたい。話してくれないか。クラウゼンのこと。両親のことも」
兄さんはしばらく黙っていた。
それから、覚悟を決めるように一度だけ目を閉じると、ゆっくりと話し始めた。
◇◇◇
語られたのは、お嬢と出会うよりずっと前のことだった。
両親が死んで、叔父が家に入ってきた頃のこと。
長年勤めてくれていた使用人が次々と入れ替えられ、じわじわと居場所を奪われていく中で、このままここにいては危険だ、俺を連れて逃げなくてはと考えるようになっていたこと。
そして、ついに決断した夜のこと。
俺は黙って聞いた。
時折、聞いたことのある話や記憶の片隅に残っていたものもあった。でも、ほとんどは初めて知る内容で——兄さんが一人で抱えてきたものが、それだけたくさんあったということだった。
兄さんは、ずっとこうやって一人で悩んできたんだな、と思った。
そうやって、ずっと俺を守ってきてくれたんだな、と。
全部話し終えると、兄さんは静かに俺を見た。
「……話は、これで全部だ。他に何か聞きたいことはあるか?」
「そうだな……」
俺は少し考えてから、口を開いた。
「やっぱり、兄さんは水臭い」
兄さんが苦笑した。
「でも、もういいや」
俺は続けた。
「きっと、兄さんなりに俺のことを考えてそうしたんだろ。だから、もう気に病まないでくれ」
「……レオ」
「その代わり、これからは話してくれよ。俺、もうガキじゃないから」
兄さんはしばらく俺を見ていた。
まるで眩しいものでも見るように、目を細めながら。
やがて、静かに頷いた。
「ああ。そうだな」
そう言って、小さく笑った。
「なあ、兄さん」
俺は少し身を乗り出した。
「爵位のこととか、クラウゼン家のこととか——兄さんはどうしたいんだ?」
「今更継ぐ気はない。それは本当だ」
兄さんの声は、迷いなかった。
「だが、ここまで問題が大きくなってしまっては、俺たちの意思だけでどうにかできる段階ではないのかもしれない」
「まあ、それは旦那様方に任せるしかないな」
「そうだな」
そう言ったものの、兄さんは少し思案するように視線を落とした。
「……お前はどうなんだ、レオ。爵位については」
やがて、窺うように顔を上げて俺を見つめた。
「俺は、いらない」
迷わずそう言った。
「俺は俺として強くなる。欲しいものも、自分の力で手に入れる。そのために修行もしてきたんだ」
兄さんが、じっと俺を見つめる。その視線が俺の真意を推し量るような色を帯びる。
「だが、レオ」
少しだけ声音が変わった。
「お嬢様のことが好きなんだろ?」
「……」
「もしお嬢様の婿になりたいなら、貴族の身分は助けにこそなれ、邪魔にはならないと思うんだ」
俺は思わず言葉に詰まった。
まさか兄さんに、そこを突かれるとは思っていなかった。
なんと答えるべきか。正直、お嬢のことは俺だってどうしたいのかなんて分からない。
「……よくわからないんだよ、その辺」
色々考えてみたけれど、結局、ありのままの気持ちを素直に答えることにした。
「お嬢のことは大切だ。ずっと一緒にいたいとも思ってる。その気持ちに嘘はない。でも、婿になるってことが——なんか、まだピンとこないんだよな」
「そうか」
兄さんはそれ以上追求しては来なかった。
「それより」
そんな兄さんに、俺もずっと聞きたかったことを聞いてみることにした。
「兄さんこそ、この先どうしたいんだ? 兄さんにその気があるなら……その、お嬢の婿とか。俺に聞くくらいなんだから、考えたことあるんじゃないか? お嬢のことだって——」
その時だった。
廊下から、複数の足音が聞こえてきた。
「誰か来る」
扉の方に目を向けた、次の瞬間——。
コン、コンと、ノックの音が響いた。
「ヒロ、お待たせ。卵雑炊にしたんだけど、食べられそうかな」
明るい声と共にお嬢が入ってきた。アーサー達も一緒だ。
お嬢が押すワゴンから、出汁のいい香りが漂ってくる。
思わず腹が鳴りそうになった。
「レオの分もあるよ。二人で食べてね」
そう言って兄さんのベッドに簡易テーブルを設置し、器を置くと、お嬢達はそのまま部屋を出て行った。
湯気を立てる器を前に、俺と兄さんは顔を見合わせた。
「……話の続きはどうしようか?」
俺が問うと、兄さんが小さく笑った。
「とりあえず、冷めないうちに食べよう」
「そうだな」
俺は器を手に取った。
一口すすると、出汁が胸に染みた。
卵がふんわりして、ご飯がやわらかい。あたたかくて、やさしい味がした。
「美味しいな」
兄さんが静かに言う。
「当たり前だろ」
俺は言い返した。
「お嬢の飯だぞ」
しばらく、二人で黙って雑炊をすすった。
窓の外からは秋の訪れを感じさせる虫の音がかすかに聞こえてくる。
ホカホカの湯気と器が触れ合う音だけが、部屋の中に満ちていた。
続きの話は——まあ、いつかすればいい。
お嬢のメシが美味いから、今夜はもうこれでいいや。




