六ノ怪
耳元でバサバサと鳥が飛び立つ音が聞こえた。
目を開けたまましばらく固まっていると、薄暗い天井と白い格子が見えた。
ゆっくり起き上がる。
いつも眠っていた布団の上で眠っていたようで、わたしはぼんやりとする頭で周りを見渡した。
白い籠の中。いつもの文机に、籠を囲む蝶のように広げられた着物たち。鬼さんのお屋敷での、わたしの部屋だ。
籠の外に置いてある灯篭を見ると、明るかった。もう起きる時間なんだと漠然と思った。
もう習慣になってしまった起床時の身支度を整えて、次に食事を取る。一言も話さず誰とも会うこともないのだが、不思議と何も感じなかった。
ボッと発火音がすれば、紅い鬼火が宙に浮いていた。
着いて来いと言わんばかりに籠の出入り口に近寄ると、竹のしなる音がして籠の戸が開いた。
あぁそうか。お風呂に入るんだ。
顔も洗ったはずなのにまだ頭は醒めず、ぼんやりと納得しながら鬼火の後へと続いた。
やはり淡々と体や髪を洗い、着替えを済ませて籠へと戻る。
まるで元の生活に戻ってしまったようだ。ぼぉっとしながら鏡を見れば、焦点の定まらない自分の顔が映っていた。
首にはまだ痣があった。よく見ればまた一つ、痣が増えていた。そっと手を添えてみれば、少し冷えた自分の指先が首に触れた。
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「おい、起きろ」
揺さぶられて、ぼんやりとする頭が晴れていく。
霞む視界を手で擦れば、傍らに鬼さんが座って覗き込んでいた。
「朝だぞ」
不機嫌そうにそう告げて、部屋の向こうを指をさした。
「え? ……朝?」
掠れた声で呟きながら鬼さんの指す方を見る。
開け放たれた縁側には昨日と同じ、朝日に光る草木が広がっていた。小鳥の鳴く声に、風に揺れる木々のざわめく音が聞こえて眩しい。
はぁと一度深く息を吐いた。
なんだ。さっきの白い籠の中の生活は、夢だったんだ……
確かに妙にフラフラして実感のない不思議な感じだった。ご飯を食べた時だって味を思い出せないし、何を食べたかさえ思い出せない。
お風呂に入ってもお湯に触れた感覚もなかった。
あの生活に未練はないのに、なんだってあんな夢を見たんだろう。しかも特別嫌な感じもなく、単調で味気ない夢だった。
悪夢の内には入らないのだろうけれど、なんだか釈然としない夢だった。
「しっかり起きたんなら俺は行くからな」
むすっとした様子で鬼さんは言うと、あの中庭がある廊下へ出て行ってしまった。本当に明るいのが嫌いなんだ。
閉められた襖を見てわたしはどこかぼんやりとした。
気のせいか妙に気分が重い。鬱々するというか、気が晴れないというか。どこか消化不良だ。
ハッキリと分からない違和感。
かと言って、妖怪達から受ける嫌悪の眼差しやヒソヒソ声が聞こえないのは心のどこかでホッとしていた。
音無の時間帯になると、いやでも子鬼たちの噂話が聞こえてきてしまい、その内容がわたしに対する中傷なら尚の事嫌だった。
いつも一人だけど、ここなら誰の声も嫌な雰囲気も感じないから断然過ごしやすい。同じ一人ならこっちの方が良い。
……ただ、昨夜の鬼さんのあの態度……あれは困る。
人の姿をして穏やかな言動だけれど、不気味にしか映らなかった。嵐の前の静けさというか、静まり返りすぎて怖い。
あれならいつもの飄々とした、怒りっぽい鬼さんの方がまだ良い。腹を立てるのはいつものことだし、今ならある程度慣れたのもあったから。
それにあんな変なこと言ってくるなんて。気持ちが悪いというより……ひたすら怖い、という方が合ってる。なんだかじわじわと、毒を盛られそうな感じがしてならない。
ふぅーっと深く息を吐き出す。思い出しているとまた息が苦しくなってきた。
考えるのはやめよう。一度休憩して、気分転換してから打開策を考えないと。
ここでごちゃごちゃ考え込んでも、良い案が浮かぶとは思えない。
わたしは立ち上がって、とりあえずと布団を片付けにかかった。
明るい時間は短い。なんとかその間に気分を上げて、また来る夜に備えないと。
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部屋の隅には昨日読んだものと、また別に追加された雑誌や本が置かれていた。
強く惹かれたけれど、読み始めるとまた時間が経ってしまうからやめておいた。
縁側に出て上を見上げる。
木々が生い茂って空を隠してしまい、広い青空は見えないけれど、小さな隙間から僅かに日光の光とともに薄い水色の空が見えた。
……ここは、常闇なんだよね。
じゃないとあんなに早く朝から夜に変化するはずないもの。だとしたら、この空も明るさも、全部鬼さんの術か何かで、わたしは幻を見せられているのかな。
鬼さんがそう簡単にわたしを常闇から出すわけがない。
お屋敷からだって本当に出してくれているのか怪しいところだ。実は全部お屋敷の中で見ている幻で、部屋から雑誌から、実は嘘だなんていうオチかもしれない。
せっかく鬼さんと信頼関係が築けるようになるかもだなんて、ちょっとでも思った自分がなんだか間抜けに思えてきた。
いや、鬼さんなりの気遣いなのかもしれないけれども、こう、騙すような事をされても不安にしかならない。
何度目かの溜息をついて、わたしは縁側に腰を下ろした。
さわさわとゆれる緑は少し色づいてきて、ポツポツと赤や黄色に衣替えを始めている。
ここから外には行けないかな。行くなら何か履く物を探さないと。鬼さんに言えば用意してくれるだろうか。……いや、あまり期待できない。下手に刺激しないほうが懸命だ。特に今の鬼さんは。
涼しい風が緑の奥から吹いてきて、わたしの髪が少しだけ持ち上がる。手のひらのような形をした葉が数枚部屋に舞い込んできた。
少し冷えてきたかな。明るいとは言え、この家全体が木陰だから(外から家の全貌を確認したわけではないが、恐らく)そんなに暖かくはならないのかも。
確か茶室があったから、そこでお湯でも沸かしてお茶でも飲んでみよう。体が温まって、気分も少しは良くなるかもしれない。
中庭へ繋がる廊下とは別の廊下に出る。
この廊下からトイレやお風呂場、茶室などへ行くことができ、さっそくわたしは奥にある茶室へ足を向けた。
松の絵が描かれた襖を開けると、三畳ほどの小ぢんまりとした空間があった。丸い障子窓に、別の格子からは外が見えた。
散策しているときは大雑把にしか見ていなかったから気付かなかったけれども、ここが一番シンプルで落ち着くかも。
畳の角を一部真四角に切って、掘り炬燵のようにした部分に炉と呼ばれる物はあった。
茶道を習ったことがないから紫さんに大まかに聞いただけで、ちゃんとした正式名は知らない。ただ嬉しいことに、すでにお湯は湧いているようで、鉄製と思われる多分茶釜というものから湯気が上っていた。
お抹茶は無理としても、お茶くらいなら淹れられる。えーっと湯呑と急須は茶箪笥の中にあるのかな。お茶っ葉もそこかな。
部屋の隅にある小さな年季の入った茶箪笥の引き戸を開けると、すぐに目的のものは見つかった。
一通り茶釜のそばに揃えて黙々とお茶を淹れる。
ここのお湯ってずっと沸かしっ放しなのかな。火事とかにならないよね。
淹れたばかりのお茶を飲みながら、立ち上る湯気をジッと見つめた。ゆらゆらと揺れるそれは、紫さんを連想させる。
そういえば紫さんはここには来ていないのね。話し相手もいなくなったんだ。
紫さんとは喧嘩別れみたいな形になってしまった。
鬼さんにわたしが情緒不安定と伝えて、何とかして欲しいと言ってくれたのは、今思えば少し意外だった。
思い上がりかもしれないけれど、紫さんもわたしを心配してくれたのかもしれない。あんな嫌な態度をとったのに。
でもきっとそれで紫さんにお礼を言っても、仕事をしたまでで貴女の為じゃないとか、突き放され事を言われるんだろうな。その方が紫さんらしい。
格子から風がゆるりと入ってくる。湯気が大きく揺れて茶釜の上で踊った。茶釜の丸い穴からは光に反射するお湯がゆらゆらと揺らいでいる。
目を閉じて息を吐く。気持ちが落ち着く。
心が静かになる。音も聞こえず、何も感じないで、無心に瞼の裏に広がる闇を見つめる。
チュンと小鳥が鳴く声が聞こえた。シャランとした綺麗な音も耳に響く。
おもむろに目を開いてわたしは顔を上げた。
「えっ!?」
体全体が跳ねてわたしは短く悲鳴を上げた。
「な、なんで」
わたしはそれを見て目を白黒させた。
だって目の前に、なぜか、大きな雀が行儀良く座って居たのだから。
「……え? どうしてここにいるんですかって?」
その雀はキョトンとした顔をして黒くて丸いを瞬かせる。
身につけている着物は淡い桃色が裾に向かっていくほど白くなっており、所々に赤い梅が散りばめられている。
頭だけが雀で、体は上からしか判断できないけど、人のものに見えた。
「いつの間にここに」
「何を言っているんですか。私はずっとここに居ますよ。ここで生まれてからずっと住んでいるんです」
ここで生まれたって? しかも住んでいる? この家に? それともこの森か林の事を言っているのだろうか。
「そ、そうなんですか。あの鬼さんは、紅い鬼はこの事知っているんですか? えっと、名前とか聞いても良いですか?」
混乱した勢いもあってダメもとで聞いてみた。常闇では名前が重要だから。
勿論、真名は期待できないけれども、目の前の怪しい人物の名前を聞いておいて損はない。
あとで鬼さんに聞けばいいのだし。
「名前? 一応呼ばれている名前はあるんですけれど、本来私の事を指す名前じゃないですから……だから、無い、と言った方が良いですね。その方が正確です」
「そうですか」
やっぱり名前はそう簡単に教えてくれないか。
ますます警戒心が強くなるが、ここは食い下がらずに流してしまったほうが良い。
人の顔と違って鳥の顔だからなんとも表情が読みにくい。
「あなたは? あなたこそ誰ですか?」
ギクッと顔が引きつった気がした。
鈴音と名乗らないほうがいい。鬼さんにもほかの妖怪に安易に名乗ったりしないよう言われているんだし。相手だって名乗っていないのだから、わたしがわざわざ親切に名乗る必要もないだろう。
「わたしはその、鬼にここへ連れてこられて。それで昨日から住んでいたんですけれど。あの、ごめんなさい、あなたが住んでいるの知らなくて」
うまく名前のことを避けて、とりあえず言える範囲の事を話す。嘘は言っていないし、勝手に住んでしまった経緯を話せば、少しはこの雀の……妖怪? も分かってくれるかも。
「はぁ、鬼に連れてこられたんですか。それは災難でしたね。でもあなたは食べられていないみたいで、良かったですね。あなたは幸せですね」
胸にぐさりと突き刺さったような痛みが走った。
なんだろう。今の言葉はとても深く心を抉られるような感じだった。それになんだか、この雀を見ていると胸が騒ぐ。
「……嘘ですよ。そんなに怖い顔しないで下さい。あまりそんな般若の様な怒った悲しい顔をすると、闇に呑み込まれてしまいますよ」
言われても、雀の言う怖い般若顔を直すことが出来なかった。
目の前の雀を意識するたびにひどく動揺して、カタカタと両手や歯が鳴った。
「嫌なんでしょう? 闇が」
黒っぽい小さな嘴が小さく動く。決して責めているわけでも、宥めているわけでもない、抑揚のない口調。
「だから手放そうとしないんでしょう。どんなに疎まれても。嫌悪の目を向けられても。雀の面を切り離しても」
「それは一体、なんのこと……」
問いかける前に、雀の黒い瞳が赤く染まっていく。
目の淵に貯まるように、赤い雫が大きな玉を作り出す。それは広がってついには黒い両目の下に赤い三日月を作った。
「本当、馬鹿なわたし」
耳元で聞こえた声。二つの三日月から垂れた赤い雫。
思わず両手で口を押さえて慄いた。がたがた震えてもう目をこれ以上ないくらい見開く。
けれども、もう既にそこには誰もいない空間だけがあり、そこを見つめてわたしは青褪めた。