五ノ怪
心臓が引き攣り、自分の顔も凍りついた。
顔がタバコの臭いのするシャツに埋もれて、背中は逞しい腕が巻き付いている。
鬼さんに、抱きつかれている……?
急にどうしたんだろう。
さっき縁側の先に広がる暗闇を見ていたから、何か出てきたのか、今襲われている真っ最中なのだろうか。でなければ、鬼さんがいきなりわたしに抱きつく理由がない。
ドクンドクンと鳴る音が耳の奥から聞こえてくる。
体を固くして身構えるも、何も起こらない。じっと耳をそばだててみるも、やっぱり何も聞こえてこない。変わらず虫が鳴く声が聞こえてくるだけだ。
「鬼さん?」
小声で鬼さんに声をかける。
それでも反応しないみたいなので迷ったものの、シャツの裾を軽く引っ張ってもう一度「鬼さん」と声をかけた。
「あの、どうかしたんですか? 何があったんですか?」
怖々問いかけると、少し間があってから鬼さんの体が離れ、わたしの顔もシャツから離れた。
訝しんで顔を上げれば、すぐ近くにわたしを見下ろす鬼さんの顔があった。
「あの、誰かいたんですか? 突然どうしたんですか?」
「鈴音」
「はい……な、なんですか?」
真っ直ぐ見る目が妙に鋭く、けれども刃物のような突き刺すものとは違い、どちらかといえばどこか危ない妖艶さがあった。
ごくりと喉が鳴ると背筋に冷たいものを感じた。
「なぁ鈴音」
「え、はい……」
「ここに、触れていいか?」
いつの間にか大きな手がわたしの顎を掴んで、親指がわたしの唇をなぞった。
え?
瞬時に心臓が高鳴り、ビリリとした衝撃が頭からつま先まで走った。
頭が真っ白になり、動くことが出来なくなったわたしは、目を大きく見開いて人の目でありながら人ではない眼差しを受け止め続けた。
髪をゆったり梳かれる。今はもう背中に力強い腕はない。
怖くはなかった。けれども恥ずかしいとか、ましてや嬉しいだなんてものもなかった。
本当にただ唖然としてしまったのだ。
驚いているというか、予想していなかったというか。鬼さんの言っていることが理解できなかった。
恐らく間の抜けた顔でぽかんとしているであろうわたしに、鬼さんがまた髪を丁寧に梳いて、暗闇に似た瞳を向けてくる。
「鈴音」
もう一度呼ばれて、わたしは息苦しさを覚えた。
また息をするのを忘れていたみたいで、乾いた唇を舐めてからハッと息を吐き出した。
そうすればやっと体が自由に動き、体を引いて鬼さんから少し距離をとった。
「……変なこと言わないでください」
ようやく口を動かし目を逸らせば、少しだけ冷静さが戻ってきて、息を吸ってまた深く吐いた。
鬼さんはいきなり何を言い出すんだろう。
今までこんな変なこと言わなかったし、しなかったのに。
不安にかられて体を小さくしていると、鬼さんが身じろいでわたしに手を伸ばしてきた。
反射的に体を縮こませた。そうすると、鬼さんはわたしに触れる寸前で手を止めて、おもむろに手を引いた。
「俺はな、鈴音。お前と仲を深めたいのもあってここを用意したんだ。それで少々慌ただしくなってしまってな。やっと落ち着いたんだ」
鬼さんの言葉にますますわたしは押し黙った。
なんていうか、気が重い。この状況にも、鬼さんらしくないやり方にも面食らってしまって、どう返して良いか分からない。
冷や汗がだらだら出る。
わたしからしたら勿論鬼さんと仲良くなるのは構わないんだけれど、鬼さんとは友達、というほど気楽な関係は期待できないが、少なくとも良い同居人なり上下関係でありたい。
決して鬼さんが望んでいるような関係にはなりたくない。
「お、に、さん、とは……その、わたしも……いつも楽しくお喋りしながら、お酌をする、えっと、関係になりたい、です」
半分何を言っているのか自分でも分からない気もするが、そんなことを気にしている余裕はなく、とにかく鬼さんの機嫌を損ねないように必死に言葉を並べた。
「鈴音、俺に好かれるのは嫌か?」
「え……えぇ……?」
半分泣き声の混じった変な声が漏れた。
また鬼さんらしくない言葉だ。人の姿をしているからか、余計に変な感じになる。
「あの鬼さん待ってくださいよ。どうしたんです? なんだか様子がおかしいですよ? 怖いです」
「何が怖い?」
「今の鬼さんです。なんだか鬼さんじゃないみたい……本当に、鬼さんなんですか?」
言えば言うほど不信感が湧いてきて、鬼さんからさらに距離をとった。今目の前にいるのは本当に鬼さんなんだろうか。こんな、妙な事を言うヒトだった?
「よく鈴音は俺が乱暴だと言っていたからな。出来るだけ丁寧に接してやったつもりなんだが? 気に入らないか?」
「気味悪いです……」
思わず本音を口にしてしまうが、それを取り繕う余裕もなかった。
わたしは立ち上がって縁側から部屋の奥へ引っ込むと、鬼さんに背を向ける形で両手を固く握り締めた。
鬼さんはどういうつもりなんだろう。
本当に仲を深めたいだけ? それとも自分の欲求を満たしたいだけ? 前者であるならばわたしも精一杯努力しようとは思う。
でも、さっきの言動を見る限りは、どう考えても後者に近いと思う。
「俺に触れられるのは嫌なのか?」
鬼さんはまだ座ったままなのか、少し離れたところから声が背中に届いた。
「鬼さんじゃなくても嫌です」
ギュッと喉が締まるような苦しさが起こった。
まるで咎めるように、息が苦しくなる。
「……アイツには許したのにか?」
「え? ……あいつ?」
それって誰?
知らないうちに痛みで閉じかけていた視界をゆっくり開くと、自分の足元が見えた。
そこは真っ赤だった。
脚が? ううん、お腹あたりが。赤黒くて、真っ赤に、お腹一面にどろりと。
それに、あぁ……血の味がする。でも何故? わたしが吐血したから? ……それも、違う。わたしの血じゃない。
つい最近あったことだ。
どうしてしばらく忘れていたんだっけ。何故? 覚えていたくないことだけれど、忘れていいことではないのに。
手の感触が残っている。強く握った柄を握った感触が。
「ここは嫌か?」
耳元に息遣いが聞こえた。
ハッとして両目を見開けば浴衣は血で染まってはおらず、変わりに格子柄の袖が交差して、わたしのお腹に巻きついていた。
「お、鬼さん」
「あの書物が気に入ったのならまた似たような物を用意するぞ。他にも……『てれび』と言ったか? それも欲しいなら部屋に置こうかな」
「何を、言っているんですか……?」
「それだけじゃ嫌か? 泳ぐ場所が欲しいならそこらに広めの水場でも造る。温泉がいいならそうしよう」
堪らず体を捩って鬼さんの腕から抜け出した。
身構えて人の姿をした鬼を見れば、無表情に佇んでわたしをまた暗い眼で見ていた。
「鬼さん待ってください。少し落ち着きましょう」
「俺は落ち着いている。怒鳴っても睨んでもないだろう?」
「それはそうなんですけれど……でも、なんていうか……そうじゃないと言いますか……」
不安に目が泳ぐ。
鬼さんはわたしに気を遣ってくれている、のかな。でも不自然すぎるというか、似合わないというか。
前は何かをするならすごく誇らしそうに、自慢そうに何かしらをわたしに与えてきた。
どうだ嬉しいだろう? とでも言いたげなニヤリとした顔をしてわたしへグイグイ押し付けていた。
でも今はどうだろう。
わざわざ人の姿に化けて、昼間のような日差しが入る部屋を与えて、おまけに現世の品物や家電製品までくれるという。
紅くない、どこか仄暗い瞳でわたしをみながら変なことまで言ってくる。
「鬼さん、元の場所に戻りましょう。わたし籠に戻ります。ここはなんだか居心地が悪いです」
言って後悔が半分、切実が半分という複雑な気持ちではあった。だけれどもわたしは不安には勝てず、鬼さんへ訴えた。
自分のお屋敷に戻ると言われて、嫌な気はしないはずだ。これが逆だと青筋立てて怒るんだから。
けれども鬼さんはわたしの予想とは裏腹に、無表情なまま口を閉じてじっとわたしを見ていた。
わたし何か悪いこと言ったかな。
今の鬼さんは何を考えているのかさっぱり分からない。
「あいつの与えたものは受け入れたのに、俺のものは嫌なのか?」
低い声が聞こえた。
ビクリと肩が跳ねて唾を飲み込む。
「さっきから何を言っているんですか?」
「俺は知っているぞ。あの魚がお前にしたことを」
「魚……魚さん?」
思い出されるのは妖しい銀色の鱗。灰色の瞳。
最後に自らわたしの持つ退魔の剣で貫かれた魚姿の銀色の鬼。……あまり思い出したくない光景。
さっき見えた、見たくない光景。
「で、でも……これとはどういう関係が」
「あいつはお前に家を与え、現世の物を与えた。着る物までもな。…………それに」
大きく踏み込み、一気にわたしとの距離を詰めると頬に手を添えてきた。
「お前に触れた」
さっき垣間見えた光景がまた蘇る。
腹に生暖かい赤黒い染みが広がって、わたしの手に持った退魔の剣に深々と腹に刺さった魚人の影。
そしてわたしに血の味を残していった、鬼だった妖しい銀の魚。
そっと口に指を乗せれば、あの時と同じように濡れている気がして指先が震えた。
もう全く血の味はしないのに、どうしても忘れられない。
口を覆ってその場にしゃがみ込む。
吐き気がする。気持ちが悪い。頭がくらくらする。
ずっと脳裏に浮かんでいた事。
わたしが、わたしが魚さんを殺した。この手で殺した。そして、わたしは彼の血を口にしたんだ。魚さんに口付けされたあの時に。
「なぁ鈴音」
上から声をかけられる。
わたしは動けないままずっと同じ姿勢で蹲っていた。
「俺とここで楽しく暮らそう。そうすれば忘れられるかな。これからは楽しいことばかりの日々が続く。……な? そう思えば悪くないだろう?」
あの時の感触が手に、口に残っている。
わたしが魚さんを殺した感触が。口づけられた感触が。
いくら灰梅が消えても、退魔の剣を得ても。この事実が消えることはない。
わたしはどうして安堵しながら鬼さんのお屋敷に戻ったりしたのだろう。あんなことの後なのに。一瞬でも、心穏やかにしていたなんて。
「こっちに来い鈴音」
前のほうで空気が動いた気がした。
それからまた、強く抱きしめられた。体が紫煙の臭いに包まれる。
「安心しろ。大丈夫だ」
宥めるように、背中を撫でられる。
ドクンと心臓が胸を一度強く内側から叩いた。そして徐々に息が苦しくなる。
「俺の鈴音」
ドンドンと続けざまに胸が高鳴る。強く首が締まっていく。
鬼さんはわたしを抱き抱えながら背中を撫でている。
……鬼の、雀……
ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。
紫さんが化けた雀の姿が思い起こされる。
鬼様の雀。鬼様の為に鳴き、鬼様に愛でられるのが幸せ。わたしは鬼の雀なのだから。
目を閉じる。そうすればふっと体から力が抜けた。
鬼さんの体にもたれる様に頭を預ける。なんだか頭がボーっとする。思考がだんだんと鈍くなっていく。
鬼さんの硬質な黒髪が頬を掠めて、首筋に吐息がかかった。
背中が軋むくらい強く抱きしめられて、知らずに顔は天井を仰ぐような形になった。
目を開けると薄暗い天井に幾つもの四角く区切られた華やかな絵が広がっていた。
この部分は紅い鬼の屋敷同様、豪華絢爛な造りだった。
様々な絵が四角の中に収められ花や鳥が活き活きと描かれていた。
不意に天井の一つに咲き乱れる梅の花を見つけて、わたしは手を伸ばした。
その手は茶色い翼が重なったように見えた。そして自分の口からは、小さな小さな鳴き声が響いた気がした。
鬼さんが何かを囁く。それは甘いような切ないような。
そうすればまたわたしの口から鳴き声がした。鬼さんの囁きに応えるように鳴いた気がした。
それを呆然と、わたしはどこか他人事のように感じていた。
今鬼さんと一緒にいるのは、鬼の雀なんだ。
だから……任せてしまおう……だってわたしは人間のわたしだもの。 鬼の雀なんかじゃない……
そうして目を閉じれば、雀が可愛らしく鳴く声が聞こえた。




