三十九ノ怪
鬼さんの温もりが残る着物に顔を埋めていると、静かだった部屋に遠くの方から気配が集中し始める。
ザワザワ、ザワザワと。さざめく様に囁きや思念が、こちらへ向けられ集まってくる。
『まだ生きている』
視線は感じられない。
ただわたしを探っている気配が、そう語ったのだ。
『何故だ。何故鬼様は生かしておくのだ』
『我ら物ノ怪よりもひ弱で愚かな、到底食い物にしかならぬ屑な生き物なのに』
言葉ではない思念だけの筈なのに、まるで歯軋りでも聞こえてきそうな勢いだ。
それをキッカケに、あちらこちらから似たような気配や思念がざわめいてくる。
『鬼様はあんな人間よりも、妖の俺らを蔑ろになさるつもりなのか』
鬼さんの気が静まったせいか、今まで息を潜めていた声たちが戻ってきた。
まだ生きているわたしがどうしても許せないんだ。
苛立ちを顕に、ジリジリと焦げ付くような想いがわたしの方へとにじり寄ってくる。
彼らの怒りの思念は火傷によく似ていて、焼けつくように熱くて痛い。気を抜くと絡みつかれて剥がれなくなりそうだ。
『欲しい。あぁ鬼様どうか人間の肉を下され。良い材料になる』
『また束になって鬼様に頼めば、そろそろ俺等に御零れをくれるんじゃないか。気が触れていたって構わねぇよ。喰えればそれで良いんだからよ』
『あんな小汚い人間なぞ、始末してしまえば良いのだ。またあんな忌々しい物を手に持たれたら厄介だぞ。早めに手を打たねば!』
「――煩イ」
鬼さんの口から一言発せられた。
それだけでほぼ声になりつつあった昂ぶった気の数々が鎮まった。気配はあるものの、息を呑み、ピンと張り詰めて静まり返った。
「鈴音、来い」
すぐ目の前にいる鬼さんの大きな手がひらりと揺れる。されるがままに鬼さんの傍へ寄って、頭を預けた。
「お前は俺の鈴音ダ」
「はい」
「で、お前さんが言うには、俺は鈴音の鬼ってことだったナ?」
「そうですね」
素直に頷くと鬼さんも僅かに頷いて、わたしの頭を撫でた。
長い指が髪の間を通って頭の地肌にたどり着くと、指の腹で撫でてきた。
「つまりお前が言イたいのは、俺らは一蓮托生ってワケだ」
「えぇ。運命共同体ってことです」
ぐりぐりと鬼さんの体に頭を押し付けてわたしは笑った。
他の妖怪達の空気とは場違いの、のんびりとした雰囲気にわたしは構わず甘えた。
「初めてここへ連れてこられた時から、鬼さんがわたしを使い捨ての人形ように扱って、いつか飽きたら捨てられるんだろうなって思っていたんです」
一度もとの生活に戻され、連れ戻された時もそう思っていた。むしろその時の方が一番強くそう思っていた。
「何度か鬼さんがそれっぽく否定しても、わたしはやっぱり信用しきれませんでしたし、信じようとしていても信じられない自分がいました」
「俺がお前を喰おうとした事カ?」
「そうです」
「そりゃ~お前、ソレは今でも変わらンぞ?」
「でも鬼さんはしなかったじゃないですか」
脅かすようにいう鬼さんへ間髪返せば、鬼さんは黙り込んでまたわたしの頭を撫でるのに専念し始めた。
「……ただ」
白い和鳥籠。ここでわたしの常闇の生活が始まって、これから先過ごしていく籠。
わたしの生活の一部である居場所。
「ただわたしは自分で鬼さんの傍にいると決めたんです」
でも一番の居場所はここではない。あくまでここは生活を送るための場所に過ぎないのだ。
「だからもう羽を折るような事はしないで下さい」
わたしの居るべき一番の場所は、この紅い鬼。
目を閉じて寝転ぶ鬼へと自分の瞳に浮かんでいる灰梅を向ける。
「約束ですよ」
小指を立てて子供じみた真似をしてみせれば、鬼さんは整った口を三日月にして吐き捨てるように笑った。
「お前が約束ねぇ~」
そう言いつつ上体を起こすと、わたしの小指に自身の小指を絡めてきた。
そして何も言わずに何度か上下に揺らすと、一瞬間を置いてから、軽く小指を噛んだ。
その行為に意味が分からずわたしが眉を顰めると、鬼さんは口端をつり上げて八重歯を覗かせた。
「こんな呪いに意味なんぞナイ」
「約束はしないってことですか」
「イヤイヤ。まぁしてやっても良いかと思ったぐらいカナ」
ようするにわたしのお遊びに付き合ってやるってことね。
こういう皮肉はなんとも鬼さんらしい。
でもそうすると、結局これは約束したのかしていないのか、分からない気もするけれども……
「……あ、そうだ鬼さん」
腑に落ちない気持ちで肩を落としたところで、まだ張り詰めている気配たちを思い出し、わたしは鬼さんへ声をかけた。
「あの、他の妖怪の方達のことなんですけれど……」
鬼さんだけを納得させたって意味がない。
そりゃ鬼さんが納得しなかったら他の全妖怪が納得したってそれこそ意味はないんだけれど、だからといってこの状況のままは良くない。
「出来ることはまだ分からなですけれど、こんな騒ぎにしてしまったのは完全にわたしのせいです。だから、その、謝りたいんですけれど……」
謝って済むとは思っていない。でもだからってしなくて良い訳じゃない。
「勿論許して貰おうだなんて思っていません。わたしが思っている以上にきっと怖い思いや不愉快な思いをさせてしまったから。だから」
「鈴音お前ナァ~……」
遮ったのは呆れた鬼さんの声だった。
面倒臭そうに硬質の赤黒い髪をガシガシ掻くと眉を寄せた。
「ゴメンナサイ私が悪カッタデス。なんて言ってみろ。そんじゃあ、まな板の上か鍋の中に入れって話になるカナ。お前入るカ?」
「それはちょっと……」
さっき流れ込んできた妖怪達の思念は、鬼さんが言ったようにわたしを始末するか食べるか。どちらもわたしの死を望ものばかりだった。
それをせずに他の妖怪たちを説得するにはどうしたら良いのか。
彼らが一番怒っていたのは、わたしが退魔の剣を持ったことだ。
紫さんだって最初久しぶりに会ったにも関わらず、その事ばかりきつく言っていた。
となると……もう……
「良い案でも浮かんだカナ?」
考え込んでいたところに鬼さんの声が聞こえてきた。
少し皮肉そうに笑って見えるのはわたしの今の心境のせいだろうか。
「……鬼さん退魔の剣は今どこにあるんですか?」
「俺が預かっているカナ」
正直この方法は選びたくない。鬼さんの故郷の、あの人たちの形見でもある物だから。
でも常闇で生きていくとしたら、妖達と生きていかなければならないもの。鬼さんだけに守られて認められれば良い話ではないんだ。
「鬼さん」
灰梅が滲む。
「あれは鬼さんの物でもあるんですよね」
「……ンン? ありゃ俺のモンじゃ無いカナ。というか、要らン」
「それなら……それなら」
ギュッと口を一度強く結んだ。それから目も強く閉じて、瞼の裏に浮かんだ人々に頭を下げながら鬼さんへ口を動かした。
沈黙が流れた。
でも殺気や不穏な気配は漂ってこない。
「鈴音……」
「それからお屋敷の妖怪達を集めてください。そして彼らの前にわたしを差し出して下さい」
ギュッと拳を握り締める。
「オイオイ。さっき俺らは一蓮托生って言わなかったカ? お前はあっさり死ぬつもりカ?」
「わたしは死ぬつもりはありませんよ。約束ですからね」
背筋を伸ばして、前を見る。それからお願いですと再度頼めば、鬼さんはまた溜息を吐いた。
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目の前の広がる光景はある意味地獄だった。
様々な形をした影。数が違う不気味に光る目玉。時折鈍く光るものは爪だったり牙だったり、刃であったり。
皆鬼さんを前にしているというのに、抑えても抑えきれない怒気を、目の前に鎮座するわたしへ容赦なく浴びせてくる。
一番奥の席に鬼さんが胡座をかき、その数段下でわたしは正座をして大広間いっぱいにひしめき合う妖怪達と対峙していた。
「さてさて。お前らの不満を聞いてやったゾ。お前らの望みどぉーり、俺の雀を用意してやったカナ」
「おぉそれでは! 我らにこの人間をお与え下さるのですね!」
興奮した声が上がると同時にワッと他の妖怪達が体を浮かして、口々に声を上げだした。
「そ、それはバラバラにして配れということですか?!」
「いや俺らがここ一番貪欲の鬼様に尽くしてきた! 俺達にお与え下さるんすよね!?」
「おい待て待て! 首を落とすならお屋敷を出てからだ! 鬼様のお座敷を汚してはならん」
残酷な台詞が次々に飛び交う。皆血の気が凄まじく荒々しい。そしてなによりも狂気を含み嬉しそうだった。
「鬼様コイツを俺にくだせぇ! 人間なんてもうずっと食ってねぇ!」
「オイラ達だって何十年と食ってねえんだぞ! こっちこそ譲れねえよ!」
「私達だってそれは同じさ。あんた達は骨でも咥えてれば良いんだよ! あの人間は私等にお寄越しよ!」
雪崩るようにそれぞれの手がわたしへ伸びてくる。
爪が長いものから、指の数が多いもの。爛れたものもあれば驚く程整った腕もあった。
不思議。前なら腰でも抜かしているのに。
今は目の前の獰猛な争いにも心が動くことなく、わたしは背筋を伸ばして静観している。
「うるさい! 一番乗りはこの――」
「おや皆様。鬼様の御前だというのに、なんたる醜態」
罵声が飛び交う中、冷ややかな声が響いた。皆その声の主を見ると唸る者もいれば、唾を飲む妖怪達もいた。
「鬼様の御厚意で、本来直で目にする事の出来ぬ鬼様の雀をお見せ下さったのです。……まさか鬼様の許可無く触れ様などと思っている愚か者はこの場にはいないかと思いましたが……如何でしょうか」
皮肉を込めた言い方には姿を確認しないでも分かる。
斜め後ろから聞こえた低く透き通るような声は、紫さんだ。
紫さんの声に我に返ったのか。悪態をとりつつも、妖怪達がもとの座り場所に戻って体を丸めた。皆面白くなさそうな顔をするが、どこか怯えも見えた。
バツが悪そうにわたしに触ろうとした妖怪達の何人かは、自分の腕をひたすらさすっていた。
「実は俺の雀に灰梅が戻ってナ。やっとこさ常闇の者に戻れたカナ」
鬼さんの言葉に誰も反応がない。それどころか青筋が増えたり、歯軋りした妖怪達が目に入る。
「ンで、そんな俺の雀からお前らに見せたいモノがあるンだとよ」
一気に鋭い視線が集まる。瞬時に心臓や呼吸が止まった感覚に襲われた。
それでも懐に手を入れて幾重にも布で包まれた箱を取り出して膝下に置くと、冷えた指先でそれらをゆっくり解いていった。
布をすべて解くと中にはお札の貼られた黒い漆喰の箱が現れる。わたしは注目が集まるのを感じながら、ゆっくりとその箱を開けた。
その瞬間、大広間に罵声や悲鳴、息を呑む音に刃の鈍い音が響き、昂ぶった殺気や妖気が大波となって広間を呑み込んだ。
「鬼様! まさか! そんな……!」
「二度までも何故!? 何故なのです!?」
箱の中には最後に見た時と変わらない退魔の剣が横たわっていた。
温かい太陽に似た光。闇と邪気を祓ってくれる強い退魔の力。わたしの心の拠り所だった古い木で出来た両刃の剣。
わたしがそれを両手でそっと持ち上がると、目前の妖怪達が一斉に獲物を狩る姿勢を取った。
今まで忙しなく動いていた口や目は、今はわたしに集中している。
……手にしてそんなに間もないけれど。
あの人たちの大事な形見。絶対に手放さないけれど、今からすることには、どうか先に謝らせて下さい。
「……ごめんなさい」
強く目を閉じて、両手で退魔の剣の両端を握り締める。
目蓋に広がる暗闇に枝垂れた梅の花が広がって、そこに雀が一羽留まっている。
わたしはその雀が羽ばたいた瞬間、わたしは目を見開いて灰梅で退魔の剣を捉えた。
パキン――、と乾いた音が響いた。
両手は退魔の剣を掴んだままだった。
けれどその短い剣は光を失い、歪に二つに折れた木片と化していた。
「見事カナ」
得意げに言ったのは誰でもない鬼さんだった。
チラと目を上げれば、大広間で今にも飛びかかりそうな姿勢のまま、妖怪達が石像のように固まっていた。




