三十一ノ怪
「放してっ」
着物越しでも分かる厚い胸板を、思い切り突き飛ばした。
どこかで見たような既視感を思えるが、今はそれどころじゃない。
「ナンダ。結局お前はそうやってマタ同じ事を繰り返す気カ? そンでまた雀に泣きつくのカ」
腰に手を当てて呆れ顔の鬼さんを見る。
眉間に皺が出来ているから怒っているには違いなさそうだけれど、身構えていてもこちらに寄ろうとしない。
手出しをしてくる気配はないみたいだ。
「違います、わたしは」
「お前は何ダ?」
鬼さんの短い問い掛けにわたしは固まった。
わたしは何? 何って……
「わたしは……」
「お前は誰ダ?」
予想してなかった質問を投げられて混乱する。
わたしは、まず人間で、それで、鬼さんに飼われていて……。それから、常闇に生きていて……
「わたしは……」
思ったことを口にすればいいのに。声が出ない。
わたしは鬼さんと約束したんだ。鬼さんのそばにいるって。ずっとお酌をして、籠で寝て。
だからわたしは……わたしは…
頭によぎる。
わたしに求められている姿が。
大人しく紅い鬼の隣でお酌をして、灰梅が宿る妖しい瞳を煌めかせて鈴のようにコロコロ笑う。
従順で、甘え上手で、誰からも羨ましがられる鬼の雀。
でもわたしは違う。それはわたしじゃない。
けれどそうとしか生きられないとして、常闇で生きているのがその望まれるわたしだとしたら……
ダトシタラ……イマノ、ワタシハ……
「わたしは誰なんだろう」
不意に口が動いた。無意識に出た言葉だった。
呆然として、鬼が目の前にいるのも忘れて呟いたわたし。唐突な答えにわたしは目を見開いて固まった。
常闇で生きるわたしが雀の子だとするのなら、わたしじゃなくて、彼女が鈴音になるんじゃないだろうか。
彼女は他の誰でもない、わたし自身なのだから。
わたしより上手に、この常闇を生き抜いていける。そう、本人も言っていたんだから。
血の気が引いたのか、手足の先の感覚がなかった。
わたしは彼女みたいになれない。というより、出来ない。最悪の結果になるのであるなら、やっぱり最後は彼女が嫌っていた未来に行き着くのかもしれない。
でも彼女はそれを望んでいない。
だからわたしの代わりに常闇で生き抜くといったんだ。わたしをあのまやかしで出来た陽のある家で過ごさせて。
「考えゴトは終わったカ?」
ハッとすれば腕を掴まれていた。
鬼さんはそのまま座り込み、わたしもまた崩れるように床に膝をついた。
「鈴音。お前は鬼ノ雀とやらを助けたいと、ソウ言ったナ?」
「え、えぇ。それは、勿論」
「ナラお前が今度はキチンと、俺と付き合わンといけないカナ。……そうダロウ?」
掴む手に力が込められて痛かった。それよりも緊張の方が上回って、そんなことを気にしていられる余裕がない。
わたしはなんとか座り直すと、床に転がった酒瓶を震える手で拾い上げた。
「お酌は、ちゃんと、しますよ」
動揺が収まらないまま酒瓶を拾い上げる。中身は零れていない。おそらく普通の瓶とは違うんだろう。
瓶を片手で持ち上げて膝の上に置き、まだわたしの腕を握る鬼さんを見上げた。
「そうダナ。呑まねば勿体無イ」
そう言うと鬼さんはわたしの手からお酒を取り上げた。
腕はまだ掴まれている。
鬼さんは酒瓶を直接口に咥えると、そのまま一気に飲み干した。
「あぁ美味イ酒カナ。流石アイツが蔵から一番のを出シテきた上酒ダ」
トンと畳の上に瓶を置く。鬼さんの手から離れた途端に、それはゆっくりと倒れて転がった。
「お酒はもう、良いんですか?」
冷や汗が浮かんでくる。
また視界が揺れて滲んでいく。色が消えていく。紅い色だけが残っていく。
「あぁ。酒はもう良いカナ」
妖しい紅がわたしを捉えた。
その瞬間、自分の奥底で何かが懸命に羽ばたいているのを感じた。ううん、必死にもがいていると言ったほうが近いかも知れない。
とにかく強く、わたしに訴えかけている。
「鈴音。今度はお前が啼イテくれるんダロウ?」
強く引き寄せられた。
それと同時にわたしは大きく仰け反って、体を捻った。
「嫌です!」
視界は水の中から見ているみたいに歪んでいて、景色も鬼さんもはっきり見えない。
頭の中がひどく揺れて目眩がした。それでも力任せに体を捩って反発した。
「往生際の悪い奴ダナ。また違えるのカ?」
畳の上に仰向けに押さえつけられて、顎を掴まれ無理やり上を向かされる。
泣いてもないのに酷い視界だ。こんなに間近にある鬼の顔が、よく見えないだなんて。
「やっとお前がソノ気になったと思ったンだがナァ」
痛いし、苦しい。
頭の中でさっきまで見ていた未来の自分が映る。このまま鬼さんを受け入れれば、近い将来、わたしは確実にああなる。
「鬼さんはわたしがまた、おかしくなっても良いんですか!?」
喋ると鬼さんの爪が顎に食い込んで痛い。
それでもこの先のことを考えれば、なんてことはない。あの雀の子だって、これ以上に酷い目に遭ってきたんだから。
「言ったじゃないですか。今のわたしに灰梅が瞳にないのは、あの雀の子がわたしの常闇そのものだからです。わたしがこれ以上おかしくならないように、常闇に染まった部分がわたしから離れたんです!」
叫んでいると少しだけ目の前が見えた。
相変わらず白黒で歪んではいるのだけれども、物の形はなんとか分かる。
「これ以上おかしくなれば、また雀の子が離れていきます。それを鬼さんが抑えると言っても、またわたしがおかしくなる事までは防げないんじゃないですか?!」
鬼さんだって知っているはずだ。
辛い辛いとあの子が泣いていたんだから。もし鬼さんがわたしの意思を無視した際には、わたしは怨霊みたいな姿で生きていくことになる。
「いくら鬼さんが貪欲だからって、鬼さんが望むわたしは手に入りません! 懐くだなんてありえない。だってそんな鈴音はいないんですから!」
叫んだ瞬間、背中に亀裂が入るような痛みが走った。
息ができなるくらいの激痛と衝撃に、わたしは全身を強ばらせた。
『ナンデ? ……ドウシテソンナ事ヲ言ウノ?』
恨めしげな、悲しい声が聞こえた気がした。
痛みが引いたあと、何度も酸素を吸い込んでは吐いてを繰り返した。汗も異常な程出ている。
今のは、わたしが雀の子を否定したから?
だから責めるように、痛みが走ったのかな。そんなつもりは無かったんだけれど、鬼さんに彼女を差し出すのも、わたしが好きにされるのも無理な話だ。
「ドウシタ鈴音」
しっとりと濡れた前髪をかき上げられた。
額が空気に触れて冷たさを感じる。それだけ急激に汗が引きでたんだ。
鬼さんを見上げれば、ジッとわたしを見下ろしている。二つの紅が真っ直ぐにわたしへ視線を注いでいる。
「お前が俺に懐かナイ? ムリ、だと? お前は俺にソンナ事ばかり言うガ、本当にそうかは分からナイと思わないカ?」
「どういう意味です?」
震える声で返せば、前髪に触れていた手をわたしの頬へ移して、顔を寄せてきた。
「ずぅーっと前に、言わなかったカナ? いずれ心は後から付いてくるモノだ。鈴音はまだオツムが雛のままだから分からンだろうガ、そういうモノだ」
細い三日月のように深く笑んで、そこから見えた鋭く光る八重歯。わたしはそれを視界に捉えた瞬間、反射的に足が動いた。
わたしの足は鬼さんの体のどこかしらに当たったようなのだけれど、鬼さんはまったくビクともせず、むしろ余裕を見せつけるようにゆっくり体重をかけてきた。
「鬼さんどいて!」
「本来のお前にコウして触レられるのは久しぶりダナァ」
ずっと満足に動いていなかったせいか、体が重いし力もあまり入らない。鬼さんの顔や角を掴んで抵抗するのがやっとだ。
このままじゃいけない!
「鬼さん話を! 話をしたいんです! やめて下さい!」
「話ぃ? ドウセいつもの能天気な泣き言ダロウ? ソンナ事よりもっと違う声が聞きたいカナ」
首筋に顔が埋められた。
鬼さんは話を聞いてくれない。聞くつもりもない。わたしの話はどうでもいいと、取り合ってくれない。
酷い。どうして。
嫌だよ鬼さん。なぜこんな酷いことをするんだろう。
鬼さんはわたしの事を好いているだとかいうけれど、こんな目に遭わせておいて、どうしてそんな事が言えるんだろう。
体を這い回る感触や肌が空気に触れる感触が次第に多くなってきていることに、視界がまた見えなくなってくる。何もかもが白黒になって、墨絵に水が落とされたみたいに歪んでいって。手足の感触もまたなくなっていく。
鬼さんはわたしがこうなっているのに、こんなに嫌がっているのにどうしてやめてくれないの。
最後まで手を出してないから良いだとか、そんな理屈なんだろうか。
相手が傷ついて怖がっていることはどうでも良いと言うこと?
「わたしはこんな事する鬼さんなんて嫌いだ! 大嫌い! こんな酷いことして好きになるだなんて有り得ない! 鬼さんこそどうかしてるよ!」
半ば小さな子供が癇癪を起こしたような物言いで、わたしは動かせもしない体を捻ったり手足をばたつかせたり、とにかく乱暴に力を入れた。
「鈴音は知らンだけカナ。恐ろしく感じるのはハジメだけ。その内お前ら人間共は快楽や安易な方へ溺れていくンだ」
首を掴まれた。
わたしは鬼さんの方を強く握り締めたまま固まった。
「ダガ鈴音は特に怖がりだからナァ……。堕とすのは随分と骨が折れソウダ」
グッと首を掴む指力が僅かに入った。鬼さんの指の腹が少し自分の首を圧迫した。
「折られたくなかったら、そのまま大人シクしてろ」
している行為とは裏腹に、とても穏やかで優しげな声が上から聞こえてきた。それからわたしの腕を押さえていた手を放して、ゆるりと髪を撫でられた。
「大丈夫ダ。恐ろしく感じる心は……俺が喰らい尽くしてヤル。残すは甘さだけカナ」
……何を言っているんだろう。
恐怖を与えている張本人が、そんなことを言ったって説得力の欠片もないのに。
もうどうしようも無いのかな。
全身の強張りが消えていく。自分の絶望が全身に浸透して、原動力の何もかもを根こそぎとっていくように感じた。
「鈴音……イイ子ダナ……」
宥める声と手に目の前が真っ暗になる。
夢で見ていた雀の子が頭に浮かぶ。わたしはこれから、ああなるんだ。鬼さんが気づいても、その時にはもう遅い。わたしはただ生きるだけの人形と化すんだ。
着るものはいつも着崩れて、髪は乱れて。体も頬も痩せこけて。
そして同じことしか言わなくなる。もしくは何も、言わなくなるんだ。人形みたいに。
「鬼の……人形……」
恐怖と嫌悪感。絶望とかそういったもので自分がいっぱいになる。
彼女が忠告した通りのことが起ころうとしている。わたしは鬼さんと信頼関係が少しでも築けていたと思っていたけれど、結局それは何の解決にもならなかった。
「わたしは……」
鬼さんにとってはわたしとの信頼とか、今まで一緒に色々なことをしてきた事は、わたし達の間にある関係が変わること。
どんなに仲を深めても、鬼さんが欲求を満たすのを辞める利用にはならない。
「鈴音」
耳元で囁かれる。
宥めるとは違う、静かな低い声だった。
「マタあの陽のある場所に行かせてやろうカ?」
自分が今どうなっているのか知りたくない。だから見えない視界でも何かが見えたら嫌だから目を閉じた。
耳も塞ごうとして手を動かそうとしたけれど、重くて動かなかった。
「俺は間違ったことは言っていないカナ。本当ダ。行き着く先は地獄じゃナイ。……ダガさっきも言ったが、お前はどうにも時間が必要なようダ」
唇に指の腹が当たった。それからゆっくりなぞる様に動くと、また頭を撫でられる。
「なに今までと変わらないカナ。お前が眠る時には陽のある場で。目覚めてイル時は俺の傍で……過ごすと良イ」
強く抱きしめられて肺から空気が搾り出される。
せっかく話ができると思ったのに。雀の子に説得までして、結局なにも変えられないまま最悪の事態になるのか。
「嘘なら……いらない」
「ン?」
無意識に口が動いた。
鬼さんが身じろいだ気配がした。
「鬼さんが嘘の鈴音がいらないように……わたしも……偽りの現実なんて……いらない」
顔の表情は動かないのに、目だけが熱い涙を流した。
そして自ら鬼の爪に、自分の首を押し出した。




