三十二ノ怪
無理に動かした顎が、わたしの首を鬼の鋭い爪に喰い込ませた。
ぷつっという肌の表面が破られた感覚はしたが、不思議と痛みはなかった。
鬼さんの怒鳴り声がした。
それは決して怒っているわけではないけれど、動揺と焦りが混じった、悲鳴に近いものだった。
首の圧迫感は消え、代わりにぬるい液体が徐々に自分の肩や背中を濡らしていく。
首筋に手を差し込まれた。後頭部を持ち上げられると、ぐらりと視界と頭が揺れる。
だんだん目の前がチカチカして視界が暗く光った。気持ちも悪い。手足の指先が冷たくなって感覚もなくなっていく。頭が重くなって意識が朦朧とする。
また鬼さんが何かを叫んだ。でも胸が悪くて聞き取っている余裕がない。なんて言ったんだろう。
濡れた背中が空気に触れて冷たい。そのせいもあってか、とにかく体が寒かった。気持ちが悪くて、意味もなく重い腕を目の前に上げた。
すると大きな温かい手が、痛いくらいにわたしの手を強く掴んだ。
『しっかり生きなさい』
優しい、懐かしい声が聞こえた。
なんだかこの光景はどこかで覚えがある。とても悲しい記憶のような。そんな感じが。
蝉が鳴いている。畳の上で誰かが横たわっている。
布団の中にいあるのに膨らみは低く、そこに誰かが横になっているのが信じられなかった。
「……お願い」
このままお別れなんて嫌だよ。
確か、わたしは幼い頃にそう言って縋ったんだ。周りの大人達はわたしを何度も宥めたけれど、わたしは離れようとしなくて困らせていたんだ。
あれは確か……夏が終わる頃だったかな。
何故だかわたしはその時家族と一緒じゃなくて、一人だった。周囲の大人たちは皆知らない人ばかりで、それが余計にわたしを一人ぼっちにさせた。
「……わたしを……」
ここに呼んで。おいでって言ってよ。
それでわたしと一緒に暮らそう。学校もここから通うし、お手伝いもする。わたし頑張るから。そしたらもう寂しくなんかないよ。いつでも助けてあげられる。だから……
「お願い……」
意識が遠くなる。頭からまた暗闇に落ちていくような感覚が迫ってくる。
だめ。目が閉じてしまう前に、伝えないと。一緒に暮らそうって。ここに住まわせてって。
わたしは強く握る手の主に向けて、また口を動かした。
「……お願い、だか、ら……わ、たしをこ」
気づいたら何か大きな衝撃を頬に受けた。大きな衝撃なはずなのに不思議と痛みはない。
でも同時に、自分はどの瞬間からか分からないくらいに、突然暗闇の中に呆然と立ち尽くしていた。
「…………え?」
訳が分からずに無意識に頬を抑えていた手を下ろした。
周囲は暗闇ばかりで何もない。下を見ても真っ暗で、自分の足が光もないのに、闇に浮かび上がって見えているだけだ。
これは、どうなったの? わたしは死んだの?
ふと首筋を触ってみたけど濡れていないし怪我もしていない。でも確かにわたしの首は鬼の爪に突き刺さった。
それだけはしっかりと覚えている。
しばらく動けずに立っていた。考えることもせず、ひたすらその場に立ち尽くした。
そしてどれくらい経ったか、わたしはその場に崩れるように座り込んでうずくまった。
失敗、したんだ。
わたしは鬼さんと話をするどころか、また自ら自分に危害を加えようとしたんだ。……もしかしたら、もう既に死んだ後なのかもしれない。
だとしたらここは死後の世界なんだろうか。
じわりと目頭が熱くなって視界がぼやけた。
ほら見たことかと、きっとあの雀の子は言うだろう。実際にわたしは彼女が警告した通りのことをしたのだから。
こんなはずじゃなかった。
もっとうまく出来ると思ったんだ。だってわたしは鬼さんと、ほんの少しでも信頼関係があると思っていたから。
……でも無かった。鬼さんの中には存在しなかった。
勿論それは鬼さんが鬼だから……人間ではなく鬼なのだから、仕方がないのかもしれないけれど。だとしても、やっぱり悲しかった。
あの後は、どうなったんだろう。
わたしは? 鬼さんは?
多分血がたくさん出たんだ。鬼の爪は他の妖怪と違ってなかなか傷が消えないって前に聞いた。だからいつも鬼さんに小さな傷でも治してもらっていた。
でも、今度はどうなんだろう。
言いようのない気持ちの落ち込みに、わたしは膝を抱えて顔を埋めた。
何も考えたくなくて、どうにでもなってしまえという乱暴な感情が自分の中を激しく渦巻く。
そうして歯を食いしばっていると、なぜか涙が零れた。
一粒だけだった涙は気が付けばとめどなく流れて、とうとうわたしは嗚咽をこらえながら本格的に泣いた。暗闇で一人きり。わたしは泣いたのだ。
どれだけ泣いていたのか。
チュンと可愛らしくなく声が聞こえた。
パタパタ羽音が聞こえたら、わたしの肩に小さな足が乗っかった。足の主は小さいのか、あまり重く感じず、それはまたチュンと小さく鳴くとわたしの髪を軽くついばんだ。
「わたしは間違っていたの……?」
泣きながら声にしてみる。もうどうして良いか分からないんだもの。
雀は何も言わなかった。わたしの肩に大人しく羽を休ませている。
お互いに黙って(わたしは泣いていたけど)話が始まる気配すらしなかった。
そして雀の子はしばらく留まっていたけれど、なんの前触れもなく突然羽ばたいて、顔を上げた時には闇の向こうへ飛んでいった。
……どこへ飛んでいったの? 鬼さんのところ?
一応彼女は、わたしの常闇の化身ではあるのだから、わたしが例え死んでしまったとしても、彼女だけなら鬼さんの所へ行けるのかもしれない。
雀が消えたほうをじっと見つめた。
そして肩を落として視線も下げると、懲りもせずにポトリと膝の上に涙が落ちた。
どれくらい経ったか。さすがに泣くのもなんだか疲れてしまって、ぐったりと膝を抱えたまま頭を膝の上に置いていた。
わたしはずっとこの暗闇でいるのかな。……それも良いのかもしれない。だってなんだか何もやる気が起きないんだもの。考える気力もない。今のわたしには丁度いいのかもしれない。
空っぽの状態で塞いでいると、ふいに遠くで水の音がした。
いつものわたしなら飛び上がるのだろうけれど、とてもそんな元気はなくて、気怠げに音のした方へ目を向けた。
変わらず真っ暗闇なのだけれども、向いた闇はゆらりと揺れて、濡れた闇に銀色の影が見えた。
「……エ様……」
声が聞こえた。くぐもった男性の声。水の中から聞こえているみたいな、はっきりしない声。
これは何だろう。わたし一人かと思っていたけれど、ここには誰かいるの?
「泣くのは……およしください。何も……悪くないのです」
今度はしっかり聞こえた。声はやはり歪んで聞こえるのだけれど、さっきよりも大きく聞こえたおかげで、よく聞き取れた。
思わず顔を上げて声のするほうへ目を向ける。
「闇に染まっても……光を求め続けても、貴女様は貴女様なのですから」
動きが鈍い体を動かして、ぎこちなく立ち上がる。聞き覚えのある声だった。
わたしは目の前で揺れる暗闇に視線を落として、穴が開くほど見つめた。そうしていると、そこから銀色に鈍く光る影が覗いた。
「辛いのでしたら……こちらへ来ませんか」
その影はそっと濡れた手を伸ばしてきた。滴る水がわたしの足元の闇まで揺らす。
「心地よい水底までお連れしますよ」
静かに影が上へと伸びる。そして屈むとわたしの頬を撫でて涙を拭った。
その手は酷く冷たかった。
薄く骨と皮のような大きな手が、わたしの横顔を包み込んだ。
顔は見えない。朧げな輪郭が人の形を作って、顔だと思われる場所に暗く光る銀の瞳がわたしを見下ろしていた。
「あなたは……」
これは現実なの? わたしは夢を見ているの?
現実ならここは地獄で、夢なら罪悪感からくる幻だ。でも目の前のこの人は。
「魚さん、なの?」
目の前の影に訊いた。
そうすると見えもしない口元が微かに笑った気がした。
「覚えていてくれたのですね」
とても嬉しそうな声。わたしの顔に触れていた手が、肩を伝って背中に回る。
「嗚呼この上なく喜ばしいです。私を覚えてくださったとは」
「ど、どうしてここに」
「貴女様が私を鮮明に覚えてくださった。私を貴女様の中で生かして頂いているお陰なのです」
意味がよく分からない。
戸惑って固まっていると「さぁ」と背中に回った手に促されて足が前へと動いた。
足先に水が浸る。
驚いて足元を見ると、暗くて良く見えないけれど確かにそこには水が広がっていた。
「これは……」
「大丈夫ですよ。苦しく等ありません。悩みも辛い選択も苦しい現実も夢も見ずに済むようになります」
わたしはなおも押してくる背中に、無意識に抵抗していた。
片足は足首まで水に浸かり、もう片方は指先だけが水に触れていた。ただそれだけでも、わたしの背筋は冷えはじめていた。
「どうしたのです? 何も不安などありませんよ、安心してください」
足元から冷気が這い上がってくる。
怖い。思わずブルリと震えると優しく背中をさすられた。
「今日まで本当に頑張って来られましたね。とても立派です。親御様も皆このことを知ったらさぞ誇らしいでしょう」
その言葉に怖さが一瞬消えた。
お母さんやお父さん……お姉ちゃんに、お兄ちゃん……。懐かしい家族の姿や声。
「きっと褒めて下さるでしょう。それまでよく耐えてこられました。とても偉かったです、と」
どんどん心も体も芯まで冷えていくのに、囁かれる言葉はどれも自分が気が付かないくらい飢えていたもので。
足取りは重いのに、とても心地が良く慰められて行く気がした。
「マた逃げルのカ」
いきなり後ろから鋭い声がかけられた。思わず足が止まる。
ゆっくり振り返れば、真っ黒な世界になにか浮かび上がっている。這っているのかそれはとても見えづらくて、目を凝らしてよく見てみる。
その姿はずっと前に見たことがある。
忘れたことなんてない。あれは真っ白い……動く骸骨だ。
「お前バかり……ナぜなんダ。ナんと恨めシい。代わってクれ。自分と代わレ。この苦しミと代わってクレ。その場を寄越せ。恨めしイ……」
掠れた声。這ってくる様はなおも怨念から突き動かされて、骨しかない体を動かしているようだ。
その言葉通り恨めしげに呻くその姿は、何故だか自分を連想させた。
今なら彼らの闇も理解できるのかもしれない。
わたしがもし目の前に、普通に日常生活を送っている人がいたら、代わって欲しいと願うのかも。少なくとも羨ましいと思う。
「お気になさらないで。さぁ行きましょう」
背中を押す銀色の手に、わたしはまた動けずに固まってしまった。怖さというよりは迷いから動けなかった。
冷たい濡れた手は優しくて骨の芯まで染みてくる。それは後戻りのできない危険性を帯びたものだとしても、わたしにとってはとても魅力的に感じた。
「お前は卑怯者だ」
カタカタ骨が鳴って軋む。今にも崩れてしまいそうな不安定な動きで、黄色みのある白い指をわたしに向けて指差す。
「逃げル前に代わレ。そノ場所を寄越せ。欲する者がいルんダ。お前が要らないトいうモノは、我らが喉から手が出るほど欲しがってイルものだ」
「欲しい? 欲しいって……」
「そうだ。我々ハ死にたくナド無い。死にたくなど無かっタ! 命が欲しい。棄てるのなら寄越セ。代わりに生きてヤル!」
いきなり足首を掴まれた。
硬くて冷たいものが片足に絡まってきた。
「その生命を寄越セ! いらないんだろ!?」
足にしがみついてわたしを暗い瞳で見上げてくる骸骨。頭にはひびが入り、間近で見て分かったけれど、髪の毛が数本生えていて、歯は何本か欠けていた。
どうしてだか、それが彼が生前生きていた証に思えて、恐怖と同時に哀れさを引き立てた。
「もう行きましょう。構ってはいけません」
背中に回していた手はわたしの手首を掴んで引っ張った。濡れた、しっとりとした冷たい感触が、力強く触れたところを冷やして広がった。
「行かせ無い! 置いてイケ!」
「さぁ早く」
手首を引っ張られ、足首を引っ張られ。わたしは裂けるような痛みに呻いた。
「オイテイケ!」
「ハヤクイキマショウ」
何度も繰り返され、それぞれの付け根が引き裂かれそうになる。
このままだと関節が外れる! 痛い!
「もうやめて!」
叫ぶと同時に、大きな火柱が上がった。




